2014年11月16日日曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻10

蕎麦さへ青し信楽の坊 野水

 しがらきは近江国甲賀郡にある信楽谷であり、聖武天皇のとき、紫香楽(しがらき)の宮、つまり甲賀の宮をつくったところである。天平十五年信楽寺を作り、大仏鋳造を発願し、後にその志を大和の奈良に遂げられた。宮があり寺があるので、信楽野を内裡野または寺野という。黄瀬村、長野村などはみな信楽のなかである。いわゆる信楽茶を産し、また信楽焼の茶壺その他を産出するので有名である。

 貞享の頃に坊などあるとは思えないが、寺野のなかの民家であるから、坊といったのだろう。坊という語によって、自ずからただの農家ではなく、旅の宿であることは明らかである。播州有馬温泉の旅館は普通の宿と異なるところはないが、寺坊であった昔に因んでいまも何々屋とはいわず、何々坊と称するので、信楽にも当時は坊といった旅館もあるいはあったのかもしれない。

 蕎麦は七十五日で熟し、夏のものを夏蕎麦、秋のを秋蕎麦という。ここでは秋蕎麦であることはいうまでもない。ただ蕎麦といえば秋のものをいい、本来その季節のものだからである。信濃の産を上等とすることは知られているが、近江の桃井、伊吹山などの産もまたすぐれたものとして有名である。信楽も同じ近江であり山村であるので、当時は蕎麦がよいといわれたのだろうか。

 「青し」とはすべてものがまだ成熟しきっていないことをいうので、「蕎麦さへ青し」は、なにもない山奥で、せめて薫り高い新そばでもだそうと思うのだが、それさえもまだ青くて、なにもなく寒い信楽の坊だという意味と解するものもあるが、却ってそうではない。蕎麦は古いとかすかな赤みをもち香りが乏しくなるが、新しいものは香りがよく薄く、青みを帯びたようである。信楽は茶の名所であり、しかも坊などという家になれば、客をもてなす家の誇りとして、茶の美しく青くて人の心も眼も喜ばせることはいうまでもないが、蕎麦も新しい取り立て挽き立てのものであれば、それもまたよい茶のように青いと賞味した者の言葉の綾であり、前句の露と萩に対して、ここでは蕎麦と茶をあげたのである。そうでなければ、「さへ」の言葉にはなんの働きもないことになる。

 茶のことは直接触れられてはいないが、信楽の坊に茶は自ずから含まれている。すでに、江戸にも宇治の里という家があり、また郊外にしがらきという家があって、みなその初めは茶漬け飯をだすことから付けられた名で、その茶がよいことを誇りにしていた。信楽の坊に茶のことが含まれているのは疑いようがない。茶はもとより赤くはなく、蕎麦さえ青しといって、いずれもよいという所に、前句の角力ちからを選ばれずというのを軽くあしらって転じて付けたものである。

 糸所の別当の歌のなかにあるくらぶの山も甲賀郡であり、信楽はそれに連なったところにあるので付けた、という旧解はもっともではあるが、作者の腹中の考えではそうした縁もあったのだろうが、ただ山続きのためだけでは、一句の立場がない。またまっすぐ立つ蕎麦が青くては萩とは力あらそいにならぬのを、撓んだ萩がどうして打ち合いの勝負になるものかと、信楽の坊のあたりの草を見て言葉を戦わせる様子だという曲齋の説は、どういう意味であるかも理解しがたい。青くないとしてもどうして蕎麦が萩蘆と力あらそいをすることがあろうか。また、萩もそもそもなにと打ち合いの勝負をなすというのか。信楽の野辺でも谷でもなく、坊とあるのを眼に入れないための誤解である。あるいはいう、蕎麦はそばきりではなく、河漏(ところてん風に押しだした中国の蕎麦)としての解は納得できないと。蕎麦が河漏でないのはいう通りである。だが、略して河漏をそばというのも間違いではなく、また、初鰹と断らないでも鰹を夏の季とするように、新そばと断らないでも句によって秋の季とするのも間違いではない上、青しとあることから新そばであることは明白である。蕎麦をそばというのも本来は略語であり、本当は稜立(そばた)てるものゆえに「そばむぎ」という名であって、略言、俗語をとがめ立てすると俳諧は自在を失うことが多い。

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