「縣ふる」は縣に年ふるということ、田舎暮らしが長いということだと昔から解されている。しかし、「縣ふる」はおそらくは「縣徇る」であり、触れ知らすことを徇るという。その土地で花見に伊達を競うことでは三人にくだらないものを、「縣ふる花見次郎」と、面白く取りざたされているのを取り入れてつくったものである。日向国に何次郎とかいう富貴のものがあり、近国で噂されるほどの花見を催して名を知られ、そののちは花見次郎といわれるようになったという旧解があるが、讃岐の作平と同じくこの次郎も名を聞くことがなく、京の川太郎、江戸の太申のように、人の口耳に残ったものでなければ、その虚実を考えるべきではない。兵六といえば、薩摩の人は誰でも知っているドン・キホーテのような物語上の人物だが、それでも東京、西京の人は知らないものが多い。
まして貞亨のころに、日向国や讃岐国などの田舎の普通の人々の事績を取りだして俳諧にしても、それを知り、理解して、面白いと思うものが誰がいようか。また、俳諧に面影をとって作為とすることはあるが、一句一句になんの面影を取ったとするべきものでもなく、津浪は大伴の皇子、魚は長田の作平、花見は日向の何次郎と、いちいちよく知られもしていない故事や地元の言い伝えを連ねていかなければならない理由はない。これらはみな穿鑿が過ぎた愚かな解釈というべきである。
すべて太郎次郎というのは、人の家の太郎次郎から起き、第一のものを太郎といい、それに継ぐものを次郎という習慣である。阪東太郎、四国次郎、太郎太刀、次郎太刀、太郎貝、次郎貝、愛宕の天狗太郎坊、比良の天狗次郎坊などのようなものである。花見次郎という語は、これらになぞらえて理解するべきである。もし日向の何次郎というものがあって、その後に花見次郎があるとすれば、其角が永代島八幡宮奉納の句の「汐干なり尋ねてまゐれ次郎貝」という句も、『曾我物語』に、「伊東の次郎、貝という貝を取りだして云々」とあることから、伊東の次郎貝ということになったと解するべきなのか、その愚かさ実に笑うべきものがある。
この句はいわゆる逆付で、前句に大魚をさばいて死体を食べたものであることを知って興ざめし、驚いた様子があることから、そのめざましいまでの大魚を持ちだした人をあらわし、一場のおかしみを見せたもので、無限の滑稽がある。「縣ふる花見次郎」と人にも言わせ、おごり高ぶった男が取り巻きたちを多く引連れ、花の木陰に酒樽を開け、誰もが目を見張るような大魚を担ぎ込ませ、さてそれを捌いて煮炊きして、豪快なさまを衒おうとしたが、図らずも魚の腹から死体を食べたしるしがあらわれて、さすがに愕然と面々が顔を見合わせたる様子の、なんともいえぬおかしさを言外にみせたのがこの句のおもしろみである。『徒然草』の、紅葉の下に割り籠を埋めて、験者めかして楽しもうとしたえせ法師が、それを盗み取られて愚かな争いにいたる話にも似ていて、その田舎っぽい愚かしさが、また一段と勝って、笑いを催させるような光景である。「ふる」といい、「花見次郎」といい、「仰がれて」という一句のつくりをよくよく読みとるべきである。日向国のことなど知らないでも、この句のでたとき、一座の人々が笑いさざめいて、おとなしい芭蕉も、演劇ぶりが好きな荷兮も、重五の奇抜な才能に手を打ったことが思いやられる。
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