2014年12月10日水曜日

幸田露伴『評釈冬の日』しぐれの巻16

佛喰うたる魚ほどきけり 芭蕉

 旧解には、讃岐国の何とかいう浦に鮫があがり、その腹中から恵心僧都作の仏像を見つけだしたことがあるという。このことはなんの書にでていたのか、浦の名も時代もはっきりせず、おぼつかない説である。また、讃洲志度の浦の長田作兵というものが、恵空上人のすすめで念仏の行者となり、あるとき、志度の浦で津波のために渚に打ち寄せた鰐の腹から恵心作の弥陀仏を得た、という話を持ちだすものもある。

 過去の評者たちは多くこうした解をとり、もしこの句に難しいところがあるならば扉句であるからだろうといっている。恵空上人はどういう人なのか知らず、長田作兵もまた彌陀次郎、阿波の介などのようにひとの耳に伝えられたものではなく、なにを根拠にしているのか考えることができない。芭蕉がそうした人のよく知らないような僻地の小事を用いて面影のつけ句をするだろうか、疑わしいことである。

 これらは仏を仏像と思うことからくる苦しい解であろう。俗に死んだ人間を「ほとけ」という、仏になった人ということである。ここでの仏は死骸であることは間違いない。ほどくは解くであり、割き開くことである。鰐、鮫のたぐいはいうまでもなく、黒鯛、真鯛なども屍肉を食らうのは常のことで、その腹より爪や髪などの出るのを見て驚き、眉をひそめることも間々ある例である。前句の海嘯の名残をここにあらわしたのが、なんで扉になるだろうか。扉とは二句同意で、前の句と後の句が同じ情景と時、所を離れないで、ひとつのことを繰り返すようになることをいう。「命婦の君より米なんど越す」という句は海嘯の句と同じ意味ではなく、ただ都から米を積んだ車の片里に着いただけであり、佛喰うたる魚と海嘯とも同じ意味ではない。しかもこの句は海嘯過ぎてのちのことで、場所も津波があった浜でないことは明らかである。浜で魚を割くことは却って希だからである。屍を喰ったと解して扉となるなどというのは強引な解釈である。

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