『鬣』第27号に掲載された。
ダウスンを読みたいと思ったのは、一九一九年、ダウスンの詩文集がアーサー・シモンズの序とともに、イギリスのモダン・ライブラリーの一冊として出版された際に、オルダス・ハックスレーが書いた短い書評を読んだからだった。ハックスレーが描いてみせるダウスンの姿はいかにもチャーミングなように思われた。
彼はダウスンがマイナーな詩人であること、たった一つの感情、たった一つの調べしか歌わなかったこと、その結果ごく狭い範囲の完成に達したが、完成というのはどんなに小さなものであっても、詩人の生命を保証するものだと述べた上で、次のように書いた。「ダウスンはヴェルレーヌ流派のセンチメンタリストであり、英国におけるノスタルジアの使徒である。彼は悲しみを郷愁にまで洗練させた――自ら知ることのない家郷へ焦がれる病いである。それはノスタルジアに対するノスタルジアであり、確かな対象をもつ切望に対する切望である。彼が一風変わった服で飾り立てた美は、その人工的な装飾ではかなさを強調している。彼は、苦痛がある種の痛ましさまで、愛がちょっとした熱気になるまで、あらゆる感覚や感情を薄め蒸発させた。」と。
ダウスンは一八六七年に生まれ、一九〇〇年に死んだ。晩年の数年は不幸が続いた。家業の衰えとともに父親が自殺(催眠剤を多量に服用しての死で、周囲の人たちは自殺と信じて疑わなかった)、翌年母親も自殺した。ワイルドが同性愛事件で逮捕され、デカダン派芸術家に対する風当たりが強くなる。当時は死病であった結核に冒されていることがわかる。食堂の十一歳の少女に恋をし、十五歳になるかならないかのうちにプロポーズするが断られ、後にその少女は仕立屋の若者と結婚する。
十数年にしかならないダウスンの文学者としての生涯において書かれた詩や小説は、千篇一律で、一言で言えば失われた過去に対する愛惜だと言えよう。デカダン派に属してはいたが、ボードレールを源とするフランスの詩人たちのように、奇抜な形象を用いることはなかった。それゆえ、デ
カダンスの百科全書とも言うべきマリオ・プラーツの『肉体と死と悪魔』にも群小詩人としてその他大勢のなかの一人として一度名前が挙げられているに過ぎない。
ワイルドのような正確な批評眼を持つ者のある意味「健康な」デカダンス、「失われていく時」をそのはかなさを歯牙にもかけないように組み伏していくプルーストの力強さはダウスンには無縁であって、古道具屋の香水瓶のように淡々とした香りがその詩文には漂っている。
いやくるほしき楽の音を、またいやつよき酒呼べど、
宴の果てて燈火の消えゆくときは、
シナラよ、あはれ、なが影のまたも落ち来て夜を領れば、
われは昔の恋ゆゑにここちなやみてうらぶれつ、
ただいろあかき唇を恋ふるこころぞつのるなれ。
われはわれとてひとすぢに恋ひわたる君なれば、
あはれ、シナラよ。
(矢野峰人訳)
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