連句を解釈するには、まずおおよそ一句の解釈をし、次に前句との関わりを考え、前後照らしあって微妙な情趣を醸しだすところを会得すべきである。脇句は発句より生じ、第三句は第二句より、第四第五句から揚句にいたるまで、みなそのように続くとみてはいけない。そうであれば、発句以外はみな奴婢であり枝葉であることになり、作者が心を込め血を注いだ効果もなく、叙景叙情という実質も失い、詩歌の真の精神がない不自由不自在の境涯に立ち、心にもない挨拶会釈を句形にしたに過ぎなくなる。かくも愚かな興のないことがあろうか。
脇句は発句があってその後にあり、第四句第五句より末句までみなそうなってはいるが、各句はみな前句の余韻や遺影でなく、それぞれ一個の面目風貌をもち、境地感情を有し、独立した歌となり詩となるべきである。
たとえば、雲に包まれた仙山に松がそびえ立っている、それが発句だとすれば、時に白鶴が飛んできて鳴くこともある、これを脇句とするようなものである。松は松、白鶴は白鶴、発句は発句、脇句は脇句、それらが各自独立して触発しあえば、そこに自ずからいうにいわれぬ好風景、絶妙な情趣をあらわす。松があってそこに白鶴が来るといっても、白鶴は松が産した松の神や精のようなものではなく、朱の冠に縞のある厳然たる一個の白鶴である。発句があってその後に脇句があるといっても、脇句は自ずから厳然とした句であって、独立した歌であり詩である。第三句第四句から終句までみなそうである。そうであればこそ、連句もそれをする甲斐があり、読む甲斐もある。常に後句は前句の奴僕であれば、それをつくるのは卑しく、読む方は興趣がない。
しかしながら、前句があって後句があるゆえに、後句は前句とまったく交渉がないということもあり得ず、まったく交渉がないなら連句である実質がなくなってしまう。それならば、独立して一句であるべきといい、また翻って響き合って連句であるべきだというのは、一をもって二を求め、矛盾ではないかとというものもあろう。そうではない。たとえば連環のようなものであり、玉と玉とはそれぞれ離れ、各々独立しているが、しかもそれらはつながって離れず、独立して共存するものであり、金環、白玉環、銅環、翡翠環、銀環、珊瑚環、牙環、梅壇環、大小痩肥、青黄赤白など様々な大きさや色のものが入りまじり、光彩を放っている。連句はそのようなものである。歌仙は三十六環、五十韵は五十環、百韵は百環となる。比喩は比喩であり、真実を伝えることができるものではないが、連句はおよそそうしたものである。これを理解せずに、後句を前句の奴婢のようなものと思い、前句五七五ならば後句これに添って一種の歌となると思い、前句七七であれば、後句がこれについてその句の全体が完全になると思う人もいる。こうしたことを心に抱いて連句を読み味わうときは、連句は極めて理解できないものとなる。
貞徳守武のころの連句はまだそう解してもいいが、宗因西鶴くらいから大きく進み、芭蕉のときには、和歌の本に対して末をつけ、末に対して本をつけたことから起きた連歌の旧套を脱して、一句一句、詩歌の真の精神に触れて真面目を保とうとするようになっていたから、古いものに馴染んで新しいものを知らない者は、当時でも疑いをもって理解しがたいとした程である。そうであるから、「薄々と色を見せたるむら紅葉」という前句に、「御膳がよいと松風が吹く」とつけられたのを伊丹の鬼貫が聞いて困惑したという話さえ残っている。
俳諧はもとはその字にあらわれているように、滑稽諧謔のみのものであったが、芭蕉にいたって里俗の言葉を使ってはいるものの真の歌となし、またその連歌も、もとは言葉の縁を引き、場景の流れに沿うのみのものだったが、芭蕉になると、決まり切った応酬の拘束を解き、照応の緊密を緩くし、自由の境地を広げ、真情の流露を可能にして、前後が互いに照らし合ってその間に趣を生ずればいいものだとした。この間の事情を知らない者が、芭蕉が俳諧連歌を詩歌の真の精神に触れるものとしたこと、また俳諧発句を詩歌の真の精神に触れるものとしたことを理解しないで、発句のみを論じて、連句を言及する必要もないと思うのは、連句をいつも貞徳守武のときのようにみて、芭蕉によってそれが甚だしく進歩したことに気づいていない。
『七部集』のなかばは俳諧連歌であり、これらを顧みずに味わうのはほとんど意味がない。宗鑑のころは、「夢の中にもいたくこそあれ」という句に、「花にぬる胡蝶は雨にた〃かれて」と付け、それにまた「をしやおもしろ春の猿楽」などと付けて結構なものだとし、守武のころは、「のどかなる風ふくろうに山見えて」とあれば、「めもとすさまし月のこる影」と付け、それに「朝顔の花のしげくやしほるらん」などを付けて結構だとし、貞徳正章のころもまたおよそ同じようなものだった。
だが、逸材の守武などのなかには、言葉の縁を引いて場景の流れに沿うものばかりのなかにも、一句で独立した句もあった。たとえば、「義朝殿に似たる秋風」という句は、「月見てや常磐の里へかゝるらん」という前句に付けたものだが、芭蕉の「義朝の心に似たり秋の風」の句よりは、簡潔で却って勝れているようだ。ただ世の中はまだ進まず、いわゆる栗の本衆の狂歌連のあとを追って、一時の興を追い求めることばかりなのに世間も飽き足らなくなって、檀林風の放恣で乱暴な句がはやったときに、芭蕉がおもむろに出て、詩歌の真の精神にもとづいて、大いなる進歩を成し遂げたのである。ゆえに芭蕉門の連句は、栗の本(伝統的な和歌を柿の本というのに対し、狂歌をこういう)の衆の系統の守武貞徳派の古俳諧連歌とは、趣きに同じようなところがあっても異なっていて、古風のべったりとつける付け方とは違っている。それを知らないで、どの部分で前後の句が付いているのだろうかと疑うようでは、蕉門の俳諧連歌は最後までわからない。蕉門の句の付け方は蕉門の目を開いて、諦観して味わうべきであり、古風の歯牙では噛み砕くことはできても、その味まではわからない。
「とばしる」はたばしると同じ。「水の深うはあらねど人の歩むにつれてとばしりあげたる」と『枕草子』にもある。疑うに足りない。これを疑って、誰そやと、走る、と読むものがあるが強引である。山茶花は花がやや重く、はらはらと落ちるものである。木枯しに山茶花はどうなっているかをよく想像すれば、「とばしる」の語は自ずから理解される。老人などがつまずく様子をとばつくとも、とばとばとも言い、足早におぼつかない様子で歩くさまをとばとばするというので、走るかたちを言っていると解釈するものもあるが、人が歩いている姿をとばしるという例は聞いたことがなく、疑わしい見解である。また、「手折らずは何しに人の慕ふまし笠にさし行く山茶花の花」という歌に基づくと解釈するものもあるが、引き合いにだした歌も適切ではなく、いわでもがなのことである。一句の意味は自ずから明らかである。前句との付け味は、絵としてみれば、それもまた自ずから明らかで、一目瞭然のいい図である。前句は木枯しのなか行く人の心うちの情、後句はその人の笠を見たものの眼前の景である。「たそや」の一語は、無用のようだが趣がある。
0 件のコメント:
コメントを投稿