従って、真に影響を受けた哲学者はいなかったようである。ルドルフ・メッツの言葉はブラッドリーの著作の魅力をよく伝えている。
彼は逆説を好み、常識外のことが好きで、対立するもののなかを動き回り、矛盾のなかにいることを楽しんだが、高く舞い上がることなく滅多に確固とした地上から足を離すことなく、ソフィストと懐疑主義者とドグマティストと神秘家が共存していた。
そして彼はヒュームの名を引き合いにだしている。
§4.論理学的目的に関しては、観念はシンボルであり、シンボル以外のなにものでもない。これ以上進む前に、新味のない恐れはあるが、シンボルがなにかについて述べてみなければならない。
あらゆるものにおいて、我々は二つの側面を区別できる。(i)存在と(ii)内容である。別の言葉で言えば、我々はそれがあるということとそれがなにであるかを知覚する。しかし、シンボルには、第三の側面、その意味作用、それが意味するところのものがある。それに含まれる形而上学的問題には関わらないので、最初の二つの側面を考える必要はない。ある事実が存在するとき、それがなにものかに違いないことに我々は同意する。それが他の諸事実と異なった、区別しうる性格をもっていないなら、それは実在ではない。そして、それがある通りにつくりあげるものを内容と呼ぶ。例としてごく普通のどんな知覚でも取り上げることができる。それが含む複雑な性質と関係がその内容、あるいはそれであるものをつくりあげる。それを認めていることは、また、加えて、それがあるということも認めている。あらゆる種類の事実は存在と内容の二つの側面を有していなければならないということで、それ以上のことをここで言うつもりはない。
しかし、第三の側面を有するような事実が存在する。それらは意味を有している。記号によって、意味のあるどんな種類の事実をも我々は理解する。意味は本来的な内容の部分であるのか、ある拡張によって発見されつけ加えられたものかもしれない。それに違いはない。なにか別のものを意味できるものをとれば、それは記号である。本来の存在と内容の他に第三の側面をもっている。かくして、あらゆる花は存在し、性質をもっているが、すべてが意味をもっているわけではない。あるものはなにも意味せず、他のものはその種類の一般的な代表であり、我々に希望や愛を思い起こさせるようなものもある。しかし、花そのものが意味するものであることは決してできない。
シンボルはなにかを意味する事実で、そのことで、失うことと得ること、おとしめられることと高められること双方があると言える。シンボルとして使用されることで、個別的で、自律的な存在であることをやめる。この薔薇か、私を忘れないでという花言葉のどちらかが選ばれるというのは主要な問題点ではない。その意味があるために我々はそれを与えたり、とったりする。花が滅び去った遙かに後でその意味の真偽が証明されるかもしれない。言葉は話されたとたんに消え、特殊な音の単なる振動は我々の精神になにも残さない。その存在は会話と意味作用のなかに失われる。紙とインクは唯一無比のもので、はっきりした諸性質をもっている。それは世界にあるどんなものとも完全に一致することはない。しかし、読書において、我々は紙やインクを理解するのではなく、それらがあらわしているものを理解する。そして、意味に関する限り、個別的な存在は関係がない。シンボルとして受けとられる事実は、単なる事実であることをやめる。それはもはやそれ自身を目的として存在するとは言えず、その個別性は普遍的な意味のなかに失われる。もはや自律的なものではなく、他に従属的なものとなる。しかし、この変化はすべてを失うことではない。その性質がより広い意味に溶け込むことによって、自身を越え他のものを意味するようになる。これまでは入ることができなかった世界に入る許可と影響力を得るのである。紙とインクが人間を裏切り、吐息が世界を揺るがすこともありうる。
簡単に要約しよう。記号は意味をもつ事実であり、意味は精神によって切り取られ、固定された内容(本源的なものか獲得されたもの)から成り立っていて、記号の存在とは別のものとして考えられる。
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