狂句 木枯の身は竹斎に似たる哉 芭蕉
これは前書きのある句である。前書は端書とも詞書ともいう。詩に序や引があるようなものである。前書きのある句は、前書きがなくては面白くない句というわけではないが、前書きがあるからこそその句の成った時、所、意などが明らかとなり、感情の因、縁、性、ありようが確かになるものゆえ、前書きと離ればなれにはしないものである。であればこそ、前書きには冗長な言葉などを述べないものである。それなのに、作者に背いて、仏兮湖中の『一葉集』で、この前書きを省いたのはよくない、従うべきではない。前書きの言葉は平明で解釈も必要ない。ただ、わびは、侘しい有様で志を得ず、粛条として物さびしいことをいう。『新古今集』第十五巻、藤原定家の歌に、「消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下露」、というのがある。思い合わされて面白い。
「昔狂歌の才子」というのは、句中の竹斎である。医業では生活できずに京都を出て流浪する。睨之助を従者にして諸国を漂白するところどころで、狂歌を詠んで自ら慰める。『竹斎物語』三巻、もとより戯作ではあるが、烏丸光廣の作と伝えられ、文章歌に愛すべき所がある。その情調は、だいたい『伊勢物語』の業平東下りを模して、貧しく鈍感な凡庸な医師の笑われるべきかつ哀れむべき行動を描いて、滑稽で田舎ぶりの歌も載っている。後の十返舎一九の『膝栗毛』は、この『竹斎物語』を換骨奪胎して、ますます卑俗にしたものである。
竹斎は尾張で、「扁鵲も耆婆も及ばぬ竹斎を知らぬ病家はおろかなりけり」、と吟じ、熱田ではふろ吹の歌がある。芭蕉はいま尾張にある。漂白の寒々しい灯に冷たい夢を照らされる夜、荒れ野に立ちのぼる烟りにやせ細った馬を駆る夕べ、風雨に身をさらして霜露に袂を濡らす千里のさすらいの果て、そこで境界が相似て、風骨もまたやや近い竹斎を思い起こす所以があろう。彼は狂歌、自分は狂句、忽然と木枯しの章を得た。
木枯の句の頭に「狂句」の二字が冠されている。狂句の二字も句に入れて、「芭蕉野分してたらひに雨をきく夜哉」、「櫓声浪を拍つて膓凍る夜や涙」、「牡丹蕊深く分け出つる蜂の別れ哉」、などの句のように、一気に読み続けて、字余りと思う人もいないではない。だが、それは誤りである。
狂句と木枯はどうしてもつながらない。狂句の一語はむしろ前書きの詞に続くもので、ふと思いついて申し上げる狂句と理解すべきで、その狂句が木枯の章なので、はじめに狂句とあるまでのことで、深い意味があるとも思えない。
「冬の日」一部の目当ての二字であり、狂句の二字は読まなくともよいなどというのは人を惑わす説だという、信濃の何丸の説は煩わしいだけである。句は、「木からしの身は竹斎に似たる哉」で、「狂句木からしの身は竹斎に似たる哉」では、不格好で芭蕉の句らしくもない。寛文延宝のころには芭蕉も異体の句をつくったが、その頃だとしてもこんなに拙い続けようをした句はないし、ましてこれは貞享元年の句で、ようやく一家の体をなそうというときであれば、「狂句木からし」などというはずがない。
もっとも『甲子吟行』のなかにもこの句はあって、「名古屋に入る道の程諷吟す」として、「狂句木枯の身は竹斎に似たる哉」とあり、また同紀行中の句には、「手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜」などという字余りの句もあるが、それらをよりどころとして「狂句」の二字を句中の辞とするにはあたらない。また『甲子吟行』のもとの本は、信濃松本から奈良へ、その後江戸へ渡って、当時は伊勢の御師某の手に珍蔵されたが、それにもやはり「狂句木からし」と書き続けてあると、何丸は執着し、また「冬の日」第五巻の句に、「水干を秀句の聖わかやかに」とあり、揚句に「山茶花にほふ笠の木からし」とあるのも、狂句に対して秀句、「誰そやとはしる笠の山茶花」とある脇苦と発句とを受けとめているなどと主張もしているが、それらもすべていらぬ所に力を入れている。
『甲子吟行』のもとの本に「狂句」とそれ以下が書き続けてあるとしても、それは「狂句」と句上に記しているに過ぎない。芭蕉が狂句と思い狂句と書きつけたことになんの意外があろう。第五巻の揚句などに、巻首の発句脇苦を承けたとしても、それもまたなんの不思議があろう。結局のところ、狂句の二字を句のなかに入れて何回となく読み、味わってみるがいい、句中の辞かどうかは自ずから明らかである。
さてまた、狂句の二字は句中の辞ではないとしても、狂句と断っているのはどういうわけか。竹斎は古人であり、詞書きにも狂歌の才子とあり、それと我が身を引き比べるのは過当であるから、狂句と断った、謙遜の意だとする者があるが面白くない。芭蕉は傲慢な人間ではないが、そうした理由のない謙遜をするものでもない。特に竹斎は雖知苦斎(とちくさい)ではなく、雖知苦斎ならば名医道三のことだから、似ているといってはいささかはばかられるが、そうだとしても心遣いが過ぎるというものだろう。まして竹斎は物語のなかの人で、実績があったわけではなく、実体のない作り物になんで謙遜する必要があろう。竹斎は初めの名は道斎で、暗に雖知苦斎道三の高名を借りて、響きが似ている凡庸な医者を物語り作者が点出しただけである。なんで芭蕉が竹斎にへりくだる必要があろうか。この旧解は、はなはだ陋劣で従うに足りない。
芭蕉が狂句と書いたのは、はかない物語の竹斎などといっても、俳諧にも実体があるわけではない、との感をいだいたのだろう。連句の裏以下はもちろん、一句としても人名を含むものは芭蕉の句にはほとんどなく、西行、荘子、墨子、義朝など出所の明らかなものばかりである。
寛文延宝天和のころは、芭蕉もまだ一家の詩眼を持つにいたらず、世の流行に従って「まつはるや藤三郎がよしの山」などの句もつくったが、『甲子吟行』のころになると、自らの詩眼も定まり、俳諧の自在を自分から妨げることはしないが、かといって戯れだけの意匠を一句として世に示すことは好まなくなった。木枯の句、その精神は感慨のなかに洒脱さがあって、もとより戯れだけの句ではないが、竹斎ははかない物語の人物、いまでいう弥次郎や喜多八のことで、浮かれた部分があるから、詞書きにも狂歌の才子と断り、『甲子吟行』にも狂句と冠したまでである。後の人間がどうこういう程深い意味があるわけではない。
そもそも、狂句であろうが、狂句ではないが謙遜したためであろうが、その章に狂句と題したる例がないから、章中の一つの言葉だという説も出たのだが、それは『竹斎物語』にのみ心をとられて、『杜少陵集』に眼をとめたいための誤りである。芭蕉が尊崇した杜甫は、永泰元年に蜀を去って嘉州戒州へ旅をする途中、真率奔放である四兄に会って、喜んで詩を賦して贈ったが、それを「狂歌行」と題した。杜甫がすでに「狂歌行」と題しているのだから、芭蕉が狂句と題してもなにも異とするところはない。
「似たる哉」のかなは詠嘆の哉であることは間違いない。な捨ての哉で、似たるかと疑っており、発句が疑っているために、脇句もまた「誰そや」と疑っている、俗に言う疑いの哉だというのは何丸の解釈である。従うべきではない。一句の風情、疑っていてはどこに味があろう。発句が疑っているから脇句も疑うというのも間違いだ。そうであれば、脇句は発句の奴碑で終わってしまう。連句は中心となる柱ににわかで琴を貼り付けて弾ずるようなものではない。
(ちなみに、安東次男は、正反対に、狂句と句は不可分だとしている。この旅において芭蕉は「連衆なくしては成立たぬ俳諧師の心をつかんだ」のであり、「狂句」とは「名古屋という土地柄に来ればおのずと風狂の句を作りたくなって」と読むべきであり、狂句と句とを切り離している露伴を「見当外れ」だと言っている。)
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