『鬣』第28号に掲載された。
子供の頃の『白鯨』の知識はいったいどこから得たのだろうか。エイハブ船長が白鯨を追いかける話を楽しんだ覚えはあるのだが、それは活字によるものだったか、あるいは映像によるものであったか判然としない。
グレゴリー・ペックがエイハブで、ジョン・ヒューストンが監督した映画となると、さあ、おぼろげに幾つかの場面があらわれはするが、あまりにもおぼろげなので、それぞれ別の記憶に由来する船と鯨とグレゴリー・ペックの姿を一緒にして曖昧に当てはめているだけなのか、或いは、映画館ではないにしろ、眼にしたことのある記憶が時間とともに緩やかに輪郭をほつれさせていったのか、たとえいまこの時点でその映画を見たとしても、初見なのか再見なのかさえ判断がつきそうにない。
それはともかく、わたしが楽しんだのは冒険ものとしての『白鯨』であった。ところが、これほど実情とかけ離れている事例も少ないのだ。これが例えば、同じく子供の頃に楽しんだ『水滸伝』や『西遊記』であれば、子供向きに書き直されたものから原作に移ったとしても、確かに語句は数段難しくな
り、子供向けではないと削除された部分が加わることで数倍の分量にふくれあがりはするだろうが、基本的な部分、つまり胸躍らせて読んだ部分についてはなんら変わるところのない印象をもつことができよう。
一方、『白鯨』はと言えば、子供のときの印象に従って冒険を待ち望みながら読み進めていくと、つ
いに始まらぬ活劇の序として全巻を読み終わることになるだろう。いや、もちろん、最後の最後、エイハブが白鯨に立ち向かっていく数章があるのだが、それさえもエイハブと白鯨との戦いであるよりは白鯨に憑かれたエイハブの独白がその大半を占めるのである。
アメリカ本国でさえ、『白鯨』は長い間海洋冒険小説として扱われてきたというが、思うに、ほとんど読まれてさえいなかったことからくる誤解というものである。航海はずたずたに分断され、捕鯨船の
構造、捕鯨の方法、鯨の生態、そして何よりヨナ書から始まる鯨が登場する古今の文章が渉猟される。鯨は大いなる自然の力を体現したものであると同時に、或いはそれ以上に歴史の集積であり、考古学的遺物の詰まった地層であって、歴史は特定の場所と時間に縛られたものではなく、大海を遊弋する可動性をもつものとしてあらわれる。
・・・するどい刃物をふるって、胴体の脇の鰭のすこし後のところに穴をうがちはじめた。それを見るものは、彼はいま海上に穴蔵でも掘っているのかと思ったかも知れない。彼の刃がついに痩せた肋骨に達したときの光景は、イギリスの厚いローム層の土壌に埋もれたローマ時代のタイルや陶器を発掘しているさまもかくやと思わせた。(阿部知二訳)
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