2014年1月17日金曜日

ブラッドリー『論理学』7

 イギリス経験論に特徴的な個々物に対する優位に早くも叛旗が翻えされている。

 脚注には駄目押しのように「普遍的観念には心理学的難点が存在し、それは観念が抽象的になるにしたがってますます大きなものと感じられる。特殊な心像や感覚されるものの存在とその総体が諸問題を引き起こす。しかし、そうした問題はどちらにしろ論理的な重要性はないので、ここで考える必要はない。バークリーに従い、心的事実というのは、いかに堅固に意識のなかに持ちこまれようと、常に関係のない感覚的背景を含んでいるのだと私は思う。しかし、それは重大な問題ではないと繰り返さねばならない。普遍性の実在をある瞬間に存在する心的出来事を示すことで擁護しようとするのが原則的に間違っている。というのも、もし我々が論理において用いる普遍が私の心に一事実として存在するなら、とりあえず私はそれをその事実を示すものとして使うことはできないからである。いずれにせよ存在と外的な関係からの抽象がなされねばならず、その抽象がどの程度であるかは重要でも核心に触れる問題でもないように思える。」とある。

§7.観念のこうした二つの用法、シンボルとシンボル化されたもの、イメージとその意味は、もちろん、我々のすべてに知られたものである。しかし、私がこの明らかな区別にこだわる理由は、我々の思考の多くの部分において、このことが一貫して無視されているからである。我々がこう尋ねられたとする、「あらゆる単純観念は特殊なものであり、同一の観念について語るのだとしても、実際の観念は各瞬間において変化しており、我々が実際に行なっているのは同一のものについて語ることではなく、多くの似かよったものについて語ることであるとき、観念を普遍的であると考えるような愚か者がいるだろうか」と。そんな明らかな反論に我々が気づいていないと考えるような者がいようか、と答えたくなる。変化の只中において同一な観念について私が語るとき、絶えることのない流れのなかにある心的出来事について語っているのではなく、精神が固定し、いかなる意味でも時間内の出来事ではないある部分について語っている。我々は意味について語っているので、シンボルの系列について語っているのではなく、いわば、金について語っているので、その移ろい変化する特徴について語っているのではない。普遍的観念への信頼は、我々の頭のなかの事実としてでさえ抽象が存在するという確信を含むものではない。心的出来事は唯一のもので特殊であるが、その意味は存在から、揺れ動く他の内容から切り離されている。それは特殊なシンボルとの関係を失っている。それは従属的なもので、他のなにかを指し示しているが、それ自体はどんな特殊なものに対しても無関心である。

 「観念」の曖昧さは次のように示すことができる。定立一方において、いかなる観念もそれが意味するところのものではあり得ない。反定立他方、それが意味するところものでないような観念は存在しない。定立においては、観念は心的なイメージである。反定立においては、観念は論理的な意味作用である。最初の場合は全体を指す記号だが、第二の場合はシンボル化されたものでしかない。本書において私は観念を主に意味という用法で使うつもりである。



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