『鬣』第26号に掲載された。
前号堀込学氏の「宇能鴻一郎賛」を読んだときには、百年の知己を得た思いをした(大袈裟ですね、しかし)。それにしても、「アタシむっちり色白の高校教師なんです」といった独白体官能小説しか読んだことのない者には想像もできないだろうが、初期の(という意味は、「鯨神」で芥川賞を取ってから独白体の量産体制に入るまでのということだが)宇能鴻一郎は陰惨でグロテスクな物語ばかりを綴っていた。
独白体が一世を風靡したあとのいまから見ると、堀込氏が言うように、宇能鴻一郎は川上宗薫や富島健夫とともに官能小説家に分類されるが、この頃の小説はむしろ野坂昭如や沼正三に近いものだった。そこには「正常な」性愛など全くない。死体愛好、スカトロジー、近親相姦、フェティシズム、人肉嗜食などなど、いま手もとに本がないので具体的に辿れないのが残念だが、SMでも、団鬼六のようにぎりぎりの限界に踏みとどまることで情感を高めるよりは、安々と敷居を乗り越え破滅に向うものが多かったと記憶している。一言で言えば、実効性など念頭に置かない観念的な性が追求されていたのである。
『セックス障害者たち』はAV監督のバクシーシ山下が自作AVの撮影経緯を記したものである。ここでもまた、さすがに死体愛好こそないが、スカトロジー、SM、監禁、虐待など「異常な」性愛に事欠かない。脂肪除去手術で取った肉を食べる人肉嗜食さえある。しかし、それが野坂昭如や宇能鴻一郎と決定的に異なるのは、観念による転倒がないことにある。
彼らは「正常な」性愛を観念によって或は拡大縮小し、或は歪め、或は裏返しにした。そうして得た新たな枠組によって精神と肉体とのこれまで気づかれなかった緊張関係が浮き彫りにされた。観念的であることによって読む者、見る者に直接訴えかける力が減じるわけではない。そのことは、1960,70年代の映画や漫画を見たときに感じられることでもある。はじめて、また見直してみて、その暴力や性愛や葛藤の描き方にひりひりした感じを味わう人も多いに違いない。
確かに、いまの方が即物的な残酷描写は特殊効果や画像処理によってますます精緻なものになっている。だが、それは、例えば腕が切り落とされるときの、銃弾が身体を貫通するときのこうもあろうという痛みの感覚を仮想現実のなかで喚起させてくれることはあっても、腕が切り落とされることの、物質が身体を貫通することの意味を伝えてはくれない。バクシーシ山下の本が持つ奇妙な手ざわりは、同じように意味が全体にわたり欠落しているところにある。どれだけ「異常な」セックスが行われても、要するにただそれだけである。肉体は観念を身にまとうから肉体として存在する。そもそも観念の存在しないこの世界には肉体も存在しない。意味という衣をまといやすい性がここまで剥きだしになると、快楽も苦痛もない鈍いある感じだけが拡がり、或は煉獄とはこんな場所ではないかと思えてくる。
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