2014年1月4日土曜日

もう一篇の幻詩――ロジェ・カイヨワ『詩法』



 『鬣』第25号に掲載された。

川又千秋の『幻詩狩り』というSFでは、フー・メイなる若者が創造した「時の黄金」という詩を読んでアンドレ・ブルトン、デュシャン、アルトー以下名だたるシュールレアリストたちが死んでいく。この詩はそれを読んだ者を三次元の世界から四次元の世界へ拉致し去る力があるらしく、正確には死なせたとは言えないのかもしれない。なぜ詩を読むことで日常的な時間から引きずりだされてしまうのか、なにかもっともらしい説明を聞きたいところなのだが、その点については「超能力」ということで片づけられる。

あえて忖度するなら、時間は我々の先入見に過ぎず、その詩は我々をそうしたフィルターのない生な時間に直面させるのだということにでもなろうか。もちろん、そうした異様な力をもった詩を作中に再現することは不可能であり、冒頭の部分が引用されるに止まる。「光の影の陰。光の奥の底。光の彼岸。光の裏面を巡りて、ここに至る時。時は黄金。黄金こそ時に似たり」とあり、確かに、時の創造としての詩という観念には「痙攣的な美」、様々な対立物が合流する「至高点」を目指し、錬金術的でもあれば、聖杯探求的要素のあったシュールレアリスムの詩が適っているだろう。

ロジェ・カイヨワは一時期シュールレアリストの一員であったが、後に離脱した。ブルトンとの考え方の相違を示す有名なエピソードとして、メキシコの飛び跳ねる豆(中に蛾の幼虫が入っている)を前にしてカイヨワがそれを割ってなかを確かめてみようと主張したことがある。ブルトンは驚異を台無しにすると言ってその主張に不愉快を示したのだった。カイヨワは様々な著作で、ブルトンその人ではないにしても、結果的にシュールレアリスムが産みだすことになった亜流たちによる放恣なイメージやだらしのない「自動筆記」を厳しく非難している。

短い二十三の主張(詩法)とその注釈からなる『詩法』もまた、霊感や奇矯なイメージや曖昧さや錯乱を排除しようとしており、そうした意味では保守的である。なかでもその「12」において、古典主
義の詩を称揚する部分は、その反時代的な姿勢が最も鮮やかにあらわれている。あらわれてはいるのだが、そして、通念とは異なり、ラシーヌよりはむしろコルネイユがふさわしいとしてその例が幾つかあげられるのだが、そうした詩についてのカイヨワの記述は、それらの例によって納得するにはあまりにユートピア的であり、仮に『幻詩狩り』で「時の黄金」について述べられた言葉だとしたらその幻詩がより説得力をもっただろうにと思われるほどなのである。すなわち、

 一見すると散文に近いのだが実は散文とはまったく違うような、イメージのない、またはほとんどイメージだとはわからないものしかない、詩がある。その表現は、何の飾りもなく、すっかり衣装をぬぎすてており、平凡とさえ言えるような性質を持ち、まっ先に浮んできた文章をそのまま書いたように見えるのである。しかし、そうではないことが次第にわかってくる。見かけの平凡さは、少しずつ異様な能力をあらわしてくる。ひめられた配置の巧みさは、作品の質を低い次元に落としたままではおかない。最もありふれた言葉によってひきおこされた響きは、行を追うごとに、無限の反響を魂の内部にめざめさせるのだ。それはとりたてて神秘的ではない、いやもし神秘的であるとすれば、それがゆるぎのない、人の心をやわらげ、読む者がうけいれざるを得ない反響だ、という点によってのみ、神秘的なのである。(佐藤東洋麿訳)

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