2014年1月7日火曜日

ブラッドリー『論理学』5

 記号について語られる。

§5.ここで脇道にそれることを許してもらわなければならない、必要がなければとばしてもらってかまわない。本書を通じて、重要な相違があるにもかかわらず、私は「シンボル」という語と「記号」という語を区別して使おうとはしなかった。確かにシンボルは常に記号だが、その語は非常に特殊な性格をもった記号に用いられる。シンボルとは対照的に、記号は恣意的なものである。もちろん、それは意味を欠いたものではあり得ないし、そうであればなにをあらわすこともできないだろう。しかし、それは内的に関わりのないもの、恣意的な偶然によって結びついたものをあらわすことができる。しかし、シンボルを狭い意味にとると、記号が自然な意味をもち、その内容がその対象と直接に結びついているときでさえ、自然記号がシンボルである必要はない。我々はシンボルという語を二次的な記号として限定することができる。例えば、ライオンは勇気のシンボルで、狐はずるがしこさのシンボルだが、狐の観念がずるがしこさを直接にあらわしていると言うことは不可能である。我々がしているのは、まず狐と呼ばれる動物を取り上げ、それを狐の一つの性質の記号として使っているのである。狐のイメージや表象が実物のある部分をもって別の狐を指すことになるように、意味もまたばらばらにされる。内容の一部分が精神によって固定され、別のもの、つまり、どこにでも見いだされる一般的な性質を指し示すことになる。知覚物自身、観念的に、つまり、その内容の一部分が把握されることで始めて利用できるのであるから、イメージや感覚知覚が最初にあるかどうかは関わりない。無意識のシンボリズムと反省的なシンボリズムの相違についてもまた、主要な原理には関わりがない。

 考えうる反論を未然に防ぐために以上のことを言っておくほうがいいと思った。しかし、私は記号とシンボルとをまったく区別なく使おうとしているので、この議論は私の論証にはほとんど関わりはない。

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