§6.我々は、結局、観念なしに記号は存在しないと言うことができるかもしれないが、私がここで主張したいと思っているのは、少なくとも論理学に関する限り、あらゆる観念は記号だということである。観念のそれぞれが心的な事実として存在し、特殊な性質と関係をもっていることを我々は知っている。私の心のなかの出来事として特殊性がある。それは確かな個物で唯一無比であって、他のあらゆるものと異なっているばかりでなく、次の瞬間の自身とも異なっている。この性格は、存在と内容という二つの側面に限ったときにも有していなければならない。しかし、まさしくこの性格を有する限りにおいて、そのゆえに、論理学には観念が全くないことになる。観念は意味のために存在し始めることではじめて観念になる。そして、意味とは、繰り返しになるが、内容の一部分で、残りの内容や存在を無視して用いられる。私は馬の「観念」をもち、それは私の瞬間的な状態を形づくる感覚、情動、感情の集積と関係をもちながら存在する心的な事実である。把握しにくいかもしれないが独特の特徴があり、現前していると仮定せざるを得ない。疑いなく、それは他のなにものとも、それ自身とも同じではない唯一無比のものであり、過ぎゆく瞬間の世界において唯一のものである。しかし、論理学と真と偽の問題に関する限り、事態はまったく異なる。「観念」は、すべて意味に従属しているがゆえに普遍的なものとなる。馬に認められる属性間の関わりは唯一ある馬-イメージの内容の一部であり、この心的出来事の断片的な部分のみが論理学において我々が知り、関心を払うものである。これを使用し、あとは残滓として、我々には関わりがなく重要でないものとして扱う。「観念」は、もしそれが心的な状態だとしても、論理学においてはシンボルである。存在や非本質的な内容はすべて切り捨てられるので、観念は意味であると言ったほうがいい。心的なイメージという意味における観念は、意味という意味における観念の記号である。
2014年1月3日金曜日
ブラッドリー『論理学』6
記号と観念の関係。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿