この第三の句、古註が様々で定説がない。主水は明石主水という酒屋だというのがそのひとつ。従うべきではない。『大鏡』に「明石主水は京都六條本願寺役人にて酒屋にあらず」とある。主水と呼ばれる人物がいたとしても、寺侍だったら、その主水とこの句とどんな関わりがあろうか。
また、第二に、京都堀川姉小路誉田屋という酒屋に有明という名酒があり、その名に因んだという説がある。これも従うべきではない。有明という酒があったとしても、誉田屋と主水となんの関係があろうか。
第三に、有明村というところに主水という酒屋があって、天子に酒を献上したことがあるという。これもまた従いがたい。どこの有明村で、いつの時代のことかおぼつかないことばかりである。
第四に、本土は水係の官職で、酒茶などを奉ったことからそれに引っかけて興じて見せたという説もある。いよいよ従うべきではない。主水司は水氷などのことを司り、酒は造酒司がつくるものなのは延喜式に明らかである。「主水司」と「造酒司」とは別である。以上の諸説は適切に解釈しようとしてかえって穿鑿が過ぎ、牽強付会になっている。有明の主水という言葉にこだわって、強引に解釈しようとすると、一句の意味さえわからぬばかりか、前句との付け味にいたっては皆目見当がつかぬことになってしまう。
先人の解釈では、曲齋のものが正しいものに近いだろうか。曲齋が言うには、有明の主水とは風雅な頭領を示すたとえであり、昔京に某の主水という宮中の頭領がいて、有明の歌が名高かったために世間の人はみな有明の主水と言ったという。また、前句の山茶花が散った笠も振らないで走り歩く人は誰だろうと見立てて、忙しいさまを付けたもので、普請場を覗いて、あの笠をかぶって走りまわる肝煎り大工はなんという風流人だ、普請奉行が名だたる有明の主水なので下回りのものまで花笠が来たと興ずる様子を描いているという。曲齋の言葉はおおよそ認められる。宮中の頭領や有明の歌で名高かったとはやや言い過ぎであるが、たとえだと喝破したのは眼光の暗くないことを示している。有明の主水は実際にたとえであり、俳言である。
明石主水、有明村の主水、誉田屋の有明などというのは、みな実をもって虚を解こうとして失敗したものであり、陋劣で笑ってしまう。すべて元があることを一転し、応対し、それをもじり、逸らせてうまく諧謔を用いて新奇なものをだすことが俳諧のもとの意味であり、芭蕉の影響が大きくなってから滑稽俳諧のもとの意味が隠れてしまったが、「冬の日」のころは俳諧といえば諧謔滑稽なものと思っていて、文化文政以後の、俳諧が枯淡閑寂なもののように思われたのとは大いに異なっていた。
守武の「青柳の眉かく岸のひたひかな」は『和漢朗詠集』の春の詩を打ちかすめることで誇り、宗鑑の「手をついて歌申上ぐる蛙かな」は『古今集』の序の一部を元にして興じ、梅盛の「落にきと人に語らん嵯峨の鮎」は、「をみなえし」の歌を水の中に流し、宗因の「有明の油ぞ残るほとゝぎす」は、月の影を枕のそばにもたらす。
発句でもこうしたものがある、ましてや付け句は狂言妄想をほしいままにして、「とろゝやするらん天の逆鉾」と神器をすりこぎにし、「囚はれて石痳舐むる古狐」と越王勾践を妖獣と比較する。こうした具合であるから、句の表だけを見て解釈するだけでは、昔の俳諧の俳諧たるところを見落としてしまい、その裏にあるもの、つまり典拠を見てはじめてその作意も感興もわかり享受することができる。
たとえば、宗因の「ながむとて花にもいたし首の骨」という句は、花を観賞して飽きないところもあり、春の長い日の暖かさに疲れた様子もあり、理想は理想としてありながら現実は現実でもある人というもののおかしな姿があらわれていて、大変面白い句だが、それだけではなく、『新古今集』の「眺むとて花にもいたくなれぬれば散る別こそかなしかりけれ」という西行の歌を一転、応対し、もじり逸らせて散る別れまでにはいたらないが、差しあたり首の骨が痛いと指摘するところに、執着と退屈との矛盾と滑稽を備えたうまみがある。
このように言葉の端にあらわれる場合もあるが、まったくあらわれない場合もある。前にあげた古狐の句などは、どこにも越王のことはないが、ただ越王が恥を忍び身を屈し、志を隠して汚辱にまみれたことは『呉越春秋』その他で知られたことであり、それゆえに陰にそのことを踏まえて表向きはただ「囚われて」とした。こうしたことは今日からするとおかしく思われるが、俳諧ではよくあることで、特に芭蕉のころまでは多かった。これが俳諧であり、滑稽であり、たとえであり、怪しみおかしく思うことはない。
酒屋のやを疑いのやと読むものもあって、間違いであることは論ずるまでもない。この句では有明の主水をただの呼び名とのみ解釈しては十分ではなく、このときこの人のあるところに有明の月がある。たとえば「夙起の何某」がでるときは早い朝であるように、有明の主水に酒屋をつくらせるときは、まさに有明の月の天に白くかかり、名前の通りさすがに有明の主水だと、明け方の冷たい風に感じるところがあるだろう。ひとの呼び名とだけ思って有明月を見落としては、一句は索然として味がなくなる。そうなるとこの巻の表六句は無月となる。後の俳諧の規則では第五句が月の定座であるが、環境の自然に任せてここに繰り上げたのである。
一句については大かた語った。前句との関わりを言おう。前句は、誰かわからないが、笠をかぶって山茶花の樹のそばをせわしげにいく、その笠に花のとび散る。この句は、穢れを嫌う酒の神、松尾明神の神慮にもかなうような清らかで爽やかな地に、大きな造り酒屋を新たに建てようとして、勤勉で有名な人柄のいい主水にこれを承諾させると、明け方の天がすがすがしく有明の月が淡くまだ残っていて、粛然とした引き締まった一條の景色で、山茶花は広い普請婆の一隅、通路の傍らにあり、笠をかぶったひとは仕事に手間取ったのだろうか、朝露で重くなったさまが思われる。
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