2014年1月13日月曜日

思い出の西東三鬼句



 『鬣』第26号の特集「西東三鬼への扉」に応じて書いた。

水枕ガバリと寒い海がある

 わたしが読んだことのある西東三鬼の句集は『今日』一冊で、文学全集に収録されているのを読んだ。あとは同じく文学全集で、百句にも足りない選句を読んだだけである。全句数が二千七百を超えるというから、わたしが眼にしたのは二割にも満たないことになる。これでは「私の選ぶ三鬼の名句」や「私の三鬼秘蔵句」などあるべくもない。

 しかし、「思い出の三鬼句」ならないこともない。即ち最も人口に膾炙したこの句である。俳句を意識的に読みはじめて日の浅いわたしには、あのときあんな状態で読んでこんな感銘を受けた等々、句と結びついた記憶がほとんどないのだが、この句についてはそれがある。

 というのも、芭蕉や蕪村や子規の誰でも知っている句を別にすれば、この句はわたしがはじめておぼえた句だからである。時期は漠然と高校生の頃だったとしか言えないが、入手経路についてははっきりしている。俳句になど興味がなく、句集一冊読んだことのなかった当時のわたしが俳句関係の本や文章からこの句を知るはずはなかった。わたしがこの句を知ったのは澁澤龍彦の『偏愛的作家論』に収められた「吉岡実の断章」からだった。書誌を見ると、『偏愛的作家論』には同じ青土社で函入りの初版と函なしの増補版があり、わたしがもっていたのは「吉岡実の断章」を含む十編のエッセイが追加された増補版だった。当時熱中していた澁澤龍彦の著作のなかでも、この本は最も手にする機会が多かったように思う。久生十蘭や小栗虫太郎を読みはじめたのもこの本がきっかけだったし、石川淳についてのエッセイを読んで、石川淳への敬愛を仲立ちにして自分の好きな安部公房と澁澤龍彦という二人の作家が結びついたように感じられて嬉しがっていたのだから幸福な読書だった。

 それはともかく。「吉岡実の断章」は、作家論作品論と無骨な真似こそしないが、詩人の風貌を鮮やかに写しとったまさしく澁澤龍彦の面目躍如とした三ページほどのごく短いエッセイである。そのなかで、澁澤宅で吉岡実、加藤郁乎の三人で酒を飲んでいたとき(もっとも、吉岡実は酒を飲まないそうだが)、この句をめぐって「オノマトペと比喩が通俗でだめだ」と徹底的に否定する澁澤と、三鬼を擁護する吉岡、加藤の間でいつ果てるともしれない議論の交わされたことが語られている。かくして、何度もこの本を手に取ることで、おぼえるつもりもない三鬼の句が自然に頭に刻みつけられたらしい。もっとも、久生十蘭や小栗虫太郎のように本を探して読んでみようという気にまではならなかった。というのも、澁澤龍彦の尻馬に乗るわけではないが、「寒い海」はいいとしても「ガバリ」という語感がくだけたというよりはいかにも通俗的で、それほど魅力を感じなかったからで、それゆえわたしは思い出こそあってもこの句を「推薦五句」には入れなかったのである。

推薦五句

1. 哭く女窓の寒潮縞をなし

2. 雨の中雲雀ぶるぶる昇天す     『今日』

3. 秋の航一尾の魚も現れず

4. 昼寝の国蠅取りリボンぶら下り   『今日』

5. 春を病み松の根つ子も見あきたり

0 件のコメント:

コメントを投稿