というわけで町田市民文学館に出かけた。会場は二階の一画、大きさは小学校の教室よりも狭いくらいで、見るだけなら数分で済んでしまう。展示は五つのブロックに別れている。
1.八幡城太郎の俳句活動――「青芝」創刊以前 2.二つの原稿――島尾敏雄「噴水」と桂信子「月光抄」 3.「青芝」創刊と「青芝友の会」の人びと 4.版画家川上澄生と「青芝」 5.多摩の文学空間と「青芝」の活動。
おそらく、自慢は2の二つの原稿なのだろう。島尾敏雄の原稿には「八幡城太郎氏に課題されて」と言葉が添えられている。島尾は城太郎と句会を行ったこともあるらしく、そのときの句に「榾火けぶり娘そっと眼をこする」があるという。「月光抄」の方は、桂信子が大坂空襲の折送った句稿を八幡城太郎が綴じ合わせてかわいらしい袖珍本に仕立ててあるものだ。
八幡城太郎は、明治四十五年に相模原市青柳寺に生まれ、三十を過ぎた頃、寺を継いでいた兄の急逝を受けて、僧籍に入った。昭和二十八年に「青芝」を創刊し、昭和六十年に歿するまで三十年以上その刊行に携わってきた。当然のごとく、この展示会の中心は「青芝」というこの雑誌なのだが、いかなる深遠な理由によるものか、主催者は雑誌の中身をチラリとも見せてくれない。深窓のお嬢さんでさえ窓から顔くらい見せてくれるものなのだが。それゆえ、水野さんが挙げているようなそうそうたるメンバーが、どのような形でこの雑誌に参加しているのか、散文でなのか俳句でなのか、つまり「青芝」なる雑誌は単なる俳誌なのかそれとも「鬣」の先輩なのか肝心なところが一向にわからない。
更に言えば、わたしは八幡城太郎という俳人の存在を知らなかった。無知を誹られるかもしれないが、展示会に来るのはわたしと同じようなレベルの人たちが多いに違いない。であれば、八幡城太郎がどんな句を書く人なのかくらいは最低限知りたくもなろう。しかし、これもまた、いかなる深遠な理由によるものか、城太郎の句は幾枚かの色紙や自筆を別として全然紹介されていないのである。せめて代表となる数十句くらいは主催者の責任で選んでおくくらいのことをしてくれれば後生が悪くないはずだ。
文学館の一階は図書室になっており、城太郎の句集も置いてあったので何句かあげておく。
ほの明きしろきてのひら冬の雨
ふらここに抱きあげし子を天にやる
春めくや世々の手ずれの経机
おでん屋に醜聞たちし師走かな
煮凝や昼闌けてくる郵便夫
短日の橋のゆききを見下しぬ
わが酒徒らあをきさかなを食ひ荒す
春めくや石なげうてば石応ふ
白面にて無口無聊の花くもり
酉の市肩がさびしくなりにけり
町田には古くから柿島屋という馬肉専門の店がある。十年くらい前に店舗が新しくなり、場所も移ったが、もとの店は駅前で確か九時頃から開店し、朝からお酒が飲めた。といって、デカダンな感じはなく、みな当然のような顔をして飲んでいたものだ。土曜の午後、ぽかぽかした陽気のなかを歩きまわり、やや疲労を覚えたときのお酒は格別なもので、ビールそして梅割りを、刺身、肉皿、馬肉メンチなどをつまみにして飲んでいると、展覧会を見てやや頑なになった心が緩やかにほどかれていくようだった。新しいメニューに珍味と称された「たてがみ」があり、さっそく頼んでみると、脂身を凍らせて薄く切ったもので、口に入れるとその熱でみるみる溶けていくのだが、要するに珍味で、
「たてがみ」もひらがなにすると締まらないものだな、と思った。
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