2015年12月25日金曜日

腹の映画3本

1.ピーター・グリーナウェイ『建築家の腹』(1987年)
ブライアン・デネヒーが好き、見事な腹。



2.テリー・ジョーンズ『モンティ・パイソン/人生狂騒曲』(1983年)
食べ過ぎで腹が破裂する。


3.ウィリアム・フリードキン『エクソシスト』(1973年)
リーガンの腹にHELP MEという文字が浮かび上がる。


2015年12月24日木曜日

ビリー・ワイルダー『お熱い夜をあなたに』

1972年、舞台はフランスだが(スタジオ・セットらしいが)、台詞はすべて英語。

花街、といっても飾り窓形式ではなく、街娼として売春婦がたむろしている通りに、ジャック・レモンが演じる新人の警官が配属される。

この通りでは、売春婦が稼いだ金をヒモが受け取り、酒を飲み、博打をしたり、警察に賄賂をして金がまわっていた。

純情であるジャック・レモンは、法律通りに取り締まりをし、客のなかには上司がいたこともあって、警察をすぐに首になってしまう。

そんな彼が売春婦たちのなかで気を引かれた女性がおり、それがシャーリー・マクレーン演じるイルマである。

イルマにもヒモがいたが、ジャック・レモンが張り倒し、その位置を取って代わる。

しかし、嫉妬心や倫理観から、愛する女性を売春で稼がせ、その金を受け取るという行為が我慢がならなくなる。

そこで、自分とイルマだけで金がまわる奇策を考えだすのだが・・・

アメリカだと、日本でもそうだが、売春窟というと組織が介在してくるものだが、この映画のフランスでは、売春婦とヒモとの個人契約といった形になっているのが面白い。

フランスが舞台になっている必然性がある。

またヒモになるのも、ある意味騎士道的な精神と能力が必要であり、イルマのヒモとの喧嘩に勝つことで、他のヒモたちにも認められ、一目置かれるようになる。

シャーリー・マクレーンをはじめていいと感じた、色っぽいというよりあだっぽい。



2015年12月21日月曜日

ペドロ・アルモドバル『ボルベール』

アルモドバル作品で私が見るのは三作目、『ボルベール』(2006年)を見てはじめていいな、と思った。

ペネロペ・クルスがどうも顔立ちとかたたずまいが好きではないので、大好きとまではいかないのだけれど。

話は叔母の葬式から始まり、働かない夫と娘がいるペネロペ・クロス一家へと移り、夫が血はつながっていないとはいえ、娘を襲い、はずみで娘が刺し殺してしまう、と急展開する。

そのことを告げられた母親(ペネロペ・クロス)が死体をどう処分するかといった話になると思いきや、大林宣彦の『異人たちとの夏』みたいな映画となるがそれも違っている。

フェリーニも飽きることなく「女の都」を描いたが、自身の投影であろうマストロヤンニ的な人物が必ず登場し、男性の欲望(懲罰を含めて)を離れることはなかった。

『ボルベール』にはそうした男性の欲望は欠けている。

欲望がないから罪も罰もない。

映画の後半で、ペネロペ・クロスと母親との間にあったわだかまり、隔絶の理由が語られ、それは驚きでもあれば、陳腐なものでもあるのだが、珍しいのはそれが映画をどんな方向に動かすでもなく、淡々と受け入れられることにある。

ここにある「女の都」は何事も包み込むだけのまったく無道徳な世界であり、先頃亡くなった野坂昭如の『骨餓身峠死人葛』の世界と似ている。




2015年12月19日土曜日

七へ八へへをこき井手の山吹のみのひとつだに出ぬぞきよけれ

『万載狂歌集』から大田南畝の狂歌を三首。

   はるのはじめに
くれ竹の世の人なみに松たてゝやぶれ障子を春は来にけり

   放屁百首歌の中に款冬
七へ八へへをこき井手の山吹のみのひとつだに出ぬぞきよけれ

   述懐
いたづらに過る月日もおもしろし花見てばかりくらされぬ世は

「七へ八へ」は『後拾遺和歌集』、雑五、中務卿兼明親王、 小倉の家に住んでいたとき、雨が降った日、蓑を借りにきた人があったので、山吹の枝を折って渡した。その心を問われて返事に曰く、といった詞書きがついて、
七重八重はなは咲けども山吹のみの一つだになきぞかなしき
とあるのからきている。

太田道灌でも似たエピソードが語られる。

『道灌』という落語のネタもある。

八五郎と隠居、自分の長屋に帰った八五郎と尋ねてきた男、と登場人物が少ないためか、前座噺とされている。

隠居に太田道灌のエピソードを聞いた八五郎は、山吹を渡した娘と同じことをしてみたいが(『青菜』などと同じく、真似をしようとして失敗する噺である)、尋ねてきた男は提灯が借りたいので、蓑を貸して欲しいわけではない。そこで八五郎が思い描いていたシナリオが崩れてしまって・・・

先代の小さんと、立川談志が演じたのも聞いたような気がするが。

「款冬」は「かんとう」とも読むが、山吹の異名で、「やまぶき」と読むことが多い。

井手は京都にある地名で、山吹の名所として知られていた。

現在でも山吹は井手町の花に指定されている。

この狂歌は談志の素噺、『蜀山人』でも引かれていたような気がするが、ちょっとCDがすぐにはでてこない。


2015年12月18日金曜日

テクノロジーと夢

人の一生は夢であるということを根本的に論破することはできない、といわれる。

目覚めたとしても、それが夢でない保証などなにもないからだ。

世界の有機的なサイクルと一致している動物にとっては、死は生の連続の一環でしかないように思われる。

歴史の、夢想の堆積は、現実と夢とを分離すると同時に、両者の混同を含むものでもあった。

洞窟の壁に動物の絵を描く手と、無数の場所に同時に無数の写しを出現させることができるカメラとのあいだには、明らかに質的飛躍がある。だが直接的に見られたものを客観化し洞窟に描くという行為のうちには、技術的処置に特有な可能性が、つまり見られたものを見るという主観的行為から解放する可能性がすでに含まれている。多数の人間を対象とした作品はどのような作品であれ、その理念からしてすでにその作品自体を再生産するものにほかならない。(アドルノ『美の理論』大久保健治訳)

歴史と夢想の堆積は、 あらゆる可能性を探り続け、テクノロジーをそうした可能性のひとつのあらわれにしてしまう。

もちろんそこには「質的飛躍」があるのだが、その飛躍が夢と現実を飛び越すほどのものなのかは疑問だ。

2015年12月17日木曜日

地下鉄とクルトゥー

北村龍平の『ミッドナイト・ミート・トレイン』(2008年)は見たとばかり思っていたが、見たのは『0:34』の方だった。

北村龍平は『VERSUS』を見て、いい印象を持っていなかったので、レンタル店で見ても素通りしたのかもしれない。

今回も終りで、監督の名がクレジットされて、はじめて北村龍平作品だと知った。

クライブ・バーガーの原作は読んでいたが、あまりに前のことなので内容はすっかり忘れていた。

終盤にいたって、やっぱりクルトゥー神話的な展開になるのか、と多分にがっかりする。


2015年12月16日水曜日

鈴木清順『俺たちの血が許さない』

鈴木清順の『俺たちの血が許さない』(1964年)を見る。

小林旭と高橋英樹が兄弟役といういまから考えると夢のようなキャスト。

二人の兄弟がまだ幼いころに、やくざであった父親が殺されて、しっかり者の兄(小林旭)とおっちょこちょいだが天真爛漫な弟(高橋英樹)へと成長し、やくざの争いに巻き込まれる。

50年以上前の映画で、まだ鈴木清順特有のカットの繋ぎや場面の様式化は表立っていない。

障子の左右で開け閉めするところや、豪雨のなか車のなかで兄弟が話し合う場面などに片鱗がうかがわれる。

とにかく驚くほどモダンな映画である。

それは日活特有の無国籍映画とも異なっていて、非常に抽象的な空間で事が運んでいく。

僅かに差し込まれる街の姿で、昭和であることがようやく確認できる程度だ。

映画内映像で、カラーのなかモノクロのフィルムが小林旭の足跡を辿るのだが、『リング』以降の映画内映像の無気味さを見事に表現している。

また、葬式帰りの小林旭が、清めの塩をもらうまで、母親と弟しかいない空間に兄の声だけが響き渡る演出が素晴らしい。

あえて分類すればやくざ映画ということになるのだろうが、仁義などそもそもまったく存在しないから仁義なき戦いも起きることはない。

兄弟の父親を殺した人物が昔気質のやくざものとして現れるが(黒一色の刺青が印象的)、その男にしても、抗争で父親を殺したわけではなく、金で頼まれて殺しただけなのである。

また、実録ものでいえば若頭にあたる小林旭が最後に命を狙われることになるが、それも抗争や親分の自己保身のためではなく、スパイとして付けた女と彼が愛し合ってしまったというほとんど理由にもならない理由のためなのである。

実はボスである男もその女を好きだったというような後付けにもならないようなことがほのめかされてはいるが、まるっきり説得力はない。

やくざ映画をまったく骨抜きにし、要素だけをとりだして、抽象的な空間でつなげてみせるというかいな力は尋常なものではない。








2015年12月15日火曜日

グラン・トリノとキャデラック

評判は異常に高いが『グラン・トリノ』はイーストウッド監督作品のなかでは、私のなかではそれほど高い位置を占めない。

なんといっても『許されざる者』であり、続いて『ホワイトハンター ブラックハート』、『ガントレット』、『ペイルライダー』、『ハートブレイク・リッジ』などとなる。

『グラン・トリノ』と同じく車の名が題名になっているからというわけでもないが、久しぶりにバディ・ヴァン・ホーンの『ピンク・キャデラック』(1989年)を見る。

『ダーティファイター』の系列の映画だと記憶していたが、イーストウッドが柄にもない様々な変装などをして、コメディ色が強いのは間違いないので、その系列であることは間違いないが、敵役がネオ・ナチのような軍事マニアたちで、イーストウッド出演作にしては珍しく、陰惨な印象を受ける。

『ダーティファイター』の敵役であるバイク軍団は、最終的にはちょっと間抜けで、愛嬌があったが、この作品にはそれがない。

さすがにキャデラックとグラン・トリノでは車としての風格が違うことだし・・・

2015年12月14日月曜日

貫禄とスペインの夜

ペドロ・アルモドバルの『抱擁のかけら』(2009年)を見る。

アルモドバルを見るのは2本目だが、あまり物語の語り方がうまくないのではないかと思う。

話の基本は狂気の愛を加味してあるが、ごく典型的な三角関係の物語で、過去、つまり本筋の話の前に3~40分の前置きがあるが、特に必要性は感じられない。

多分に好みの問題でもあるが、運命の女がペネロペ・クルスというのもあまり説得力がなく、デートリッヒでもスタンウィックでも、クラウディア・カルディナ―レでも、京マチ子ほどでなくともいいが、もうちょっと貫禄が欲しい。

フェリーニにしろ、ダリオ・アルジェントにしろ、ソレンティーノにしろ、イタリアの夜は非常に好きなのだが、スペインの夜のシーンがあまり魅力的でないのも期待外れに終わった。

2015年12月13日日曜日

アメリカ刑事ドラマのセレブもの

アメリカの刑事ドラマには、サブジャンルとして、セレブものがある。

古くは『刑事コロンボ』、いまでいうと『メンタリスト』が当てはまる。

バディ・ヴァン・ホーンの『ダーティ・ハリー5』(1988年)もそのなかに加えていいだろう。

1から5まで、シリーズものというと大作化していくのが多いのに、どれもみなこぢんまりした映画に収まっているのはさすがイーストウッド。

いま見ると、小ネタが多く詰まってもいる。

ホラー映画の監督を演じているのがリーアム・ニーソンだったり、TVキャスター役のパトリシア・クラークソンはソンドラ・ロックそっくりで、好みが一貫してるなあ、とか、女性の映画批評家が惨殺されるのは、イーストウッド映画に悪口ばかり描いていたポーリン・ケイルに当てつけたのだろうし、爆薬を仕掛けたリモコン・カートのカーチェイスの場面はいまだったらドローン相手ということになるのだろう。



2015年12月12日土曜日

ナノ・テクノロジーと想像力

スティーヴン・ソマーズの『G.I.ジョー』(2009年)を見ていて、途中で一度見ていることに気がついた。

アメ・コミはもともとさほど興味がないこともあって、どれがどれやらごちゃごちゃになっており、バッドマンは多分映画化されたものはすべて見ていると思うが、それでも、ジョーカー、だとかツー・フェイスだとか、怪人たちが、どんな順番であらわれるのか、とか、協力したりするのかと細かいことになるとまるでわからない。

この映画では、これもまた名前はよく聞くが、具体的にどんなものなのかよくわからないナノ・テクノロジーの兵器が登場して、エッフェル塔を倒すのだが、もちろんそんな兵器が将来可能になるのかどうか全然わからないが、都市にしろ、インターネットにしろ、想像力が働く方向にテクノロジーが発展していくことは確かであって、絵空事とはいえないのが無気味なところである。

2015年12月11日金曜日

蹴りと無意識

酒の飲めない平岡正明が、仲間たちと旅行に行った際、つい一杯飲んでしまい、既に極真空手に通っていた頃で、突然目をさますやいなや、奇声をあげて目にとまった人物に蹴りを入れたことを恥じ入る文章をどこかで書いていた。

酔態が恥ずかしかったわけではなく、作家だけに手と意識とは直結していることを感じるが、蹴りというのは無意識の占める部分が多く、稽古でも蹴りを繰り出すことに抵抗感があったのに、こともあろうに慣れぬ酒を飲んだとはいえ、日頃の訓練では躊躇していた蹴りをいの一番に繰りだして、いわば無意識を無防備に晒したことを恥じたのだった。

もっとも横山一洋の『ハイキック・エンジェルズ』(2014年)となると、少なくともヒロインの一人は蹴りが中心なのは、題名が示しているとおりで、ドラマはむちゃくちゃだし、売りのアクションも『チョコレート・ファイター』などと比較すると残念な仕上がりだが、それほど酷評したくないのは、なにがしたいのかはっきりわかるし、目的がわかるから、それにどれだけの労力と資金が必要なのかまではわからないが、より目的に近づいた姿も想像できるからで、なにがしたいのかさっぱりわからない超大作などよりはずっといい。

2015年12月10日木曜日

現実暴露と詩的なもの

『ニューヨーカー』や『タイムズ文芸付録』のようなアメリカやイギリス(多分ヨーロッパ中でそうなのだろうが)のちょっと洒落た雑誌には必ず詩が載っている。

日本の新聞にも俳句と短歌が載っているが、読者からの投稿によるもので、プロの俳人や歌人が必ず掲載されるスペースが与えられているのかどうか、よく知らない。

文学は後退して何一つ容赦することがない現実暴露の過程となり、詩的なものという概念はこの過程によって台無しにされた。ベケットの作品の抗い難い魅力を作り上げているのもその点にほかならない。

とアドルノは書いたが、言い換えれば文学と詩的なものが同じ土俵の上にあることを意味している。

そうでなければ、ベケットが詩的なものを台無しにすることもないはずだからである。

ベケットをモダニストとして扱うなら、日本にモダニズムは存在したのだろうか。



2015年12月9日水曜日

ビリー・ワイルダー『お熱い夜をあなたに』

ビリー・ワイルダーの『お熱い夜をあなたに』(1972年)を見る。

ジャック・レモン演じるアメリカの大物実業家は父親が、イタリアのイスキア島(ヴェスヴィオス火山の近くらしい)で交通事故にあって死んだと聞いて、やってくる。

彼は父親がイギリス人婦人とそこで毎夏を過ごしていたという秘密を知る。

同じ事故で死んだそのイギリス婦人の娘もまた母親の死を聞いて駆けつけてくる。

彼女は二人が毎夏そこで逢い引きをしていたことも知っており、悪いことだとも思っていない。

息子の方は不道徳だと怒り、身に染みついた効率主義から、イタリア人の怠惰に憤り、いらいらしてばかりいるのだが、やがて、彼女の魅力に惹かれるようになり・・・

異文化コミュニケーションにまつわるコメディーで、効率第一で、ピューリタニズムに凝り固まったアメリカ人と、ロマンティックなものを無条件に受け入れてしまうイギリス人、怠け者で小ずるいところもあるが、基本的にはおおらかで、細かいことは気にしないイタリア人、と類型的なのはコメディーの常道である。

邦題が重すぎて損をしている。

原題のAvanti!はイタリア語で、ホテルでノックがあったときの、「お入り」くらいの意味だから、「お入り」ではさすがにちょっと題として不安定なので、「どうぞ、お入り」くらいでいいのではないかしら。

イギリス人の役は実際にイギリス人女優であるジュリエット・ミルズが演じていて、豊満で、ダイエットのためにカウンセラーに通っているという設定だが、ちょうどいい肉づきで、好み。

フィルモグラフィーを見たら、イタリアン・ホラー『デアボリカ』に主演していて、うわっ、『デアボリカ』にでてるじゃないか、と思ったが、見たことは確かなのだが、内容がまったく思い出せない。



2015年12月8日火曜日

価値の転倒と混沌

フロイトは声と超自我を結びつけた。

超自我とは自我を監視し、間違った方向に行かないように命じる。

道徳的な法、倫理などがそれで、良心の声という慣用句にそのことがあらわされている。

道徳的な法や倫理は意味をもつ象徴であるから、当然その反対の意味も暗黙のうちに含まれている。

汝、殺すなかれ、は汝、殺せ、と薄い膜で隔てられているにすぎない。

価値の転倒は重要なことだが、価値の混沌は恐ろしい。

安部首相が述べた無意味な三本の矢からヘイト・スピーチまで、みられるのは混沌である。

グローバリゼーションという言葉が使われはじめて、もうかなりの年月がたつが、これほど無意味に使われている言葉もない。

グローバルといっても地球単位で考えているものはほとんどなく、たかだか「先進国」の経済の問題がいわれているに過ぎない。

かつて、ジョルジュ・バタイユは『呪われた部分』で、インドの貧困を解決するには(現在でいえば、南半球の貧困ということになろう)、アメリカが(現在でいえば、いわゆる「先進国」ということになろう)その富を無償譲渡すればいいと言った。

これこそまさに価値の転倒であり、グローバルな思考である。



2015年12月7日月曜日

食わず嫌い

食わず嫌いの監督がいる。

私の場合、たとえばウディ・アレンで、もっとも完全な食わず嫌いというわけではなく、『アニー・ホール』だけは公開時に見ているから、多少は口にしているのだが、それ以来なんとなく敬遠してみていなかったのだが、数年前に20本くらいまとめてみて、嫌いではないが、大好きな映画はないという状態にとどまっている。

スパイク・リーもまたそうで、こちらは少しも口にせずに過ごしてきたが、最近10本くらい見て、やはり嫌いではないが、大好きな映画もないという状態にある。

アルモドバルもそうした監督の一人で、なんとなく騒々しい子犬が吠えるような映画であるような気がして、敬遠していた。

そんなアルモドバルの『私が、生きる肌』(2011年)を見た。

勝手な思い込みとは違い、特に騒々しい映画ではない。

人工皮膚の権威が主人公なので、安部公房の『他人の顔』のような話かな、と思ったらそんなことはなく、その医者が自宅の一室に美女を監禁しているところから映画は始まる。

そこから過去にさかのぼり、恐怖症で人前に出られない娘をレイプした犯人に対する復讐劇へと転じ、医者を演じているのがアントニオ・バンデラスだものやはりそういう方向へ行くわな、などと思っていると、倒錯的な愛の物語となり、それで完結すると思いきや・・・

嫌いとまではいかないが、多様なテーマを盛りこみすぎて、消化不良になっているようで、判断保留。

2015年12月6日日曜日

地獄の釜が煮え立つ感じ

アマゾン・プライムで、古澤健の『アナザー Another』(2011年)を見る。

最初は『学校の怪談』のような話だが、中盤から『ファイナル・デスティネーション』のような展開になる。

ヒロイン役の橋本愛は、『あまちゃん』のときも思ったが、かわいいのかそうでもないのか、よくわからないぶれた感じが妙に印象に残る。

しかしそれよりも、久しぶりに銀粉蝶を見られたのが嬉しかった。

若いころに『ブリキの自発団』の舞台を見ているので、銀粉蝶といえばいまでも私のなかでは『ブリキの自発団』の銀粉蝶である。

李礼仙は状況劇場の李礼仙であり、若くして亡くなってしまったが、深浦加奈子は第三エロチカの深浦加奈子である。

森繁久弥も勘三郎(まだ勘九郎だったが)も藤山寛美の舞台も見ているが、それほど強烈な印象を残していないのは、テントや小劇場の閉塞感のなかでぐつぐつ煮え立つような感覚が大劇場では味わえないものだからだろう。

2015年12月5日土曜日

平賀源内、『放屁論』、水木しげる

平賀源内の『放屁論』を読んでいて思い起こすのは落梧の『あくび指南』で、放屁を見世物にするのもバカバカしいが、あくびを習うのもバカバカしい。

しかし、バカバカしさにおいては落梧の方がいささか勝っているようだ。

『放屁論』では両国橋のたもとで、幟を立て、様々な屁をこき分ける見世物を見たある男が腹を立て、品川、というから女郎屋なのだろう、ある女が客の前でおならをしてしまい、恥じのあまり自害しようとするのを仲間や客が必死になだめたという例を引き、屁などは自宅でひそかにするものなのに、公然と見世物にして恥じないとは何事か、と憤るのだが、源内の意見を代弁するかのような男がそれに反論し、世の中に下品なものは数あるが、一等下品であると思われる糞尿でさえ、畑の肥やしになり、人々の役に立っているが、屁だけはなんの役にも立たない無用の長物、そのとことん役に立たないものをいっぱしの見世物にまでしたのだから、立派なものではないか、無用なものが芸にまでなるのだから、有用なものをとことん工夫できる者があるなら、世の中はずっとよくなるだろう、と文明論にまで踏み込むことでいささかバカバカしさを損なっているのだが、そこまで話を大きくするバカバカしさは十分魅力的なので、いい勝負ではある。

そういえば、荻上チキのラジオ『Session-22』で、水木しげるの追悼番組をしたとき、ゲストの呉智房が話していたが、水木しげるは「屁を二尺した」(三尺だったかな)というような表現をしていたそうだ。

『放屁論』後編の「跋」では、屁の音には三種類あり、プッとなるのが一番品があって形が丸く、ブウとなるのが次にきて、形は米びつのようであり、スーとすかすのが一番下品で、細長く少し平たい、とある。

水木しげるにも江戸の風が吹いていたのだろう。


2015年12月4日金曜日

貧弱な記憶力のありがたさ

マイケル・マンの『ヒート』(1995年)を見る。

公開時に見て、実に久しぶりに見直したので、おそらくは『スカーフェイス』などとごっちゃになってしまっているのか、マフィア対警察ものだと記憶していた。

あに図らんや、恐ろしく頭の冴えた強盗団(デ・ニーロやヴァル・キルマーなど)とロサンゼルス警察を指揮するアル・パチーノとの対決を描いたものだった。

記憶力が貧弱なのはありがたいもので、ほぼ三時間に及ぼうとする映画の中盤になっても、どんな展開になるのかまったく思い出せなかったので、初見のように楽しむことができた。

ところで、いつも重宝に使わせてもらっているので、文句をいう筋合いでもないが、データベースのallcinema日本版の解説ではこの映画が随分批判的に「解説」されている。

批判的なのは結構だし、すべての映画を一人が見ているとは考えられないから、おそらく数十人、数百人が関わっているのだろうが、せめて頭文字でも、数字でもなんでもいいから、どの映画について誰が書いているのかわかるようにしてもらいたい。

ほとんどの映画の「解説」は、あらすじを述べるようなものばかりなので、たまに批判的な「解説」に出くわすと、よほどつまらない映画なのかと思ってしまう。



2015年12月3日木曜日

レオス・カラックス『ホーリー・モーターズ』!!!

レオス・カラックスの『ホーリー・モーターズ』(2012年)を見る。

初見、傑作。

『ポーラX』はまだ見られないでいるが、『ボーイ・ミーツ・ガール』、『汚れた血』、『ポンヌフの恋人』と見て、まったく個人的な趣味の問題だが、趣味だから変えようはないわけで、あまりに恋愛的な要素が強いのに辟易していて、昔ながらのハリウッド映画のように、仲間意識を持っていた二人が、あるいは対立し合っていた二人が、最後に愛情を確認して終わるタイプの映画が大好きなためか(ホークスやヒッチコックやアステア=ロジャースの映画のように)、愛となるとThe Endの文字が浮かんで、愛し合う二人を描かれると、まだ終わらないのかとついつい思ってしまう私にとって、要するにカラックスは苦手だったのだが、まさにこんな映画を撮ってもらいたかったとついつい興奮したのが『ホーリー・モーターズ』だった。

豪邸から出勤するらしい男(カラックスの映画では常連のドニ・ラヴァン)が白いリムジンに乗り込み、今日の予定は、などと聞きながら、メイクをはじめる。

そして、その都度メイクを変えながら、物乞いになったり、ハイド氏のような凶暴なふるまいに及び、さてまた殺人者になったりする。

なんの予備知識も持たず見たので、最初はなにが語られているのかわからないのだが、一時間も過ぎるあたりになると、この映画が、たとえばデヴィッド・リンチの映画のように、不可解な謎をめぐって進行するものではないことに気づきはじめる。

ある種監督が不在であるフェリーニの『81/2』のような映画なのだ。

ついでにいえば、ロカルノ映画祭でのカラックスへの公開インタビュー(観客からの質疑応答を含む)も見て、いかにも取っつきが悪そうで、質問にも、誠実なあまり、期待されるような答えを一切返さない姿を見て、その人物も大好きになってしまった。



2015年12月2日水曜日

エクソシスト、西鶴、ホラー

『エクソシスト』で、公開時にはカットされたシーンに、少々おかしくなってきたリンダ・ブレアーが、ブリッジをしたままの姿で素早く駆け寄ってくる場面がある。現在では長尺版で見ることができるが、やや唐突で誇張された表現だったためにカットされたのかどうか、詳しいことは知らないが、はじめて長尺版を見たときには、もっとも怖い場面の一つとして印象に残っているのは、あるいは後に日本のホラー映画でそのヴァリエーションを様々に見せつけられたからかもしれない。ある意味、先駆的な表現だったわけで、カットしたのがよかったのか悪かったのかいまだによくわからないでいる。

ところで西鶴の『諸国咄』巻一に「見せぬ所は女大工」という一篇がある。御所の奥向きともなると、大工といえども男を入れるにははばかられるところが多く、女の大工が呼ばれ、寝間である座敷をすべて打ち壊すように命じられた。まだ普請したての座敷で、不審に思ってその理由を尋ねると、天上に、色の黒いおたふくのような顔をした四つ手の女が這いまわるという。そこで、様々な物を打ち外してみたが、特に変わったところはない。残ったのは叡山からもらったお札をはった板だけである。下ろしてみると、かたことと動いている。驚いて、板を一枚ずつはがしてみると、七枚下に長さ九寸ほどの守宮が、胴のあたりを釘で打たれて、紙ほどの薄さになってまだ生きて動いている。燃やしてしまうと、それ以後おかしなことは起きなくなった。守宮が起こした怪異としてしまうと、理に落ちた感もあるが、翻って考えると、守宮でさえこんな恐ろしい怪異をもたらすなら、なにが怪異の原因であってもおかしくないことにもなる。



2015年12月1日火曜日

鋼の明朗さ

中平康の『黒い賭博師 悪魔の左手』(1966年)を見る。アマゾン・プライムで見られる。日本に大きな映画会社が五社あったときのことに限っていえば、一番多く見ているのが東映で、相当な差を開けて大映、松竹、東宝となり、日活は鈴木清順を除けば一番なじみのない映画会社である。石原裕次郎の映画さえ、多分まともに見たのは1,2本ではないかと思う。無国籍映画とはよくいったもので、この映画も、四人まで妻が持てるのだからイスラム教の国らしいが、大泉滉が国王を演じているが、実権を握っているのは「教授」と呼ばれる二谷英明で、日本をギャンブルの市場にする上で邪魔な存在である凄腕のギャンブラー小林旭をたたきのめそうと、その手腕をコンピューターで解析し、選りすぐりの三人のギャンブラーを送り込む。まあ、もちろん、その企ては失敗に終わるのだが、おかしいのは「黒い」といい、「悪魔の」と二度にわたって念押ししているにもかかわらず、黒くも、悪魔っぽくもない鋼のような明朗さを保っている小林旭の存在感である。