2014年7月2日水曜日

ブラッドリー『論理学』46

 第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

 §20.しかし、私が宛てて書いているような人たち、安易な直観を嬉しく思わない人たちは、この難点を感じ、再び一度は捨て去られた異端に立ち戻り、総合判断では、主語が実在ではあり得ない、と言うかもしれない。それは観念でなければならず、観念のつながりには真理がなければならない。ここでは繰り返しの労を厭わず、こうした考えに誘われることで我々はどこに連れて行かれるのか、見ておくのがいいだろう。

 「この前の火曜日には雨が降った」と言うとき、我々は特定のこの前の火曜日を意味しており、それ以外ではない。しかし、もし我々が観念を持ち続けるなら、我々は自分が言おうとした意味を言えない。観念を使っては、どう曲解しようとも、普遍的でないような主張をすることはできないだろう。時間における出来事、特殊だと言われるようなものについても、我々は観念を使用することから逃れることはできない。あなたが記している出来事はたった一度のことだが、それについて語ることは想像的なものであれ現実のものであれ、無数の出来事に当てはまる。観念にとどまっている限り、現在に言及して、「この日の直ぐ前の火曜日」などと言っても無駄なことである。前に見たように(§8)、分析判断においても、我々には同じように救いがない。実在は観念によっては到達することができない。具体的、特殊なものに近づこうとするには、より抽象的に、まったく非限定的なものへと進むしかない。「これ」、「いま」、「私のもの」はみな普遍である。そして、「これではなくこれ」といった無益な繰り返しを使っても、それがあなたが言おうとしている意味に近づくことはなかろう。判断が観念を結びつけることでしかないなら、判断は個的なものとは関わらないことになる。

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