§27.もし「これ」が異なった意味で使われ、焦点が当たっていて感覚される細部全体の現前をあらわすものでなく、私が特に注意を向けているものについて用いられるのだとしても、結論は同じであろう。もし私がAを他のすべてを排除する私の対象とするなら、この対象と私との特殊な関係は他のものを使用した時点で間違ったものとなるに違いない。Aに適用されてるものが、Bにもまた当てはまることはあり得ないのである。
「しかし」、と言うものがあるかもしれない、「私は両者をそれぞれ別のものとして注意を向けている。AとBは両方とも所与の『これ』の内部における要素であり、それゆえ私はどちらについても『これ』と言うことができる。一方で真である観念を移し替え、他方においても真である述語としてそれを用いることができる。結局、『これ』という観念はシンボル的に使用されるだろう」と。私は、主要な問題を細かい詮議立てのなかで見失ってしまうことを恐れるが、ある混乱があることを指摘しなければならない。AとBが一緒にされているのだから、それらを排他的にそれぞれ別々に扱うことはできない。それは明らかである。他方、それぞれを「これ」における要素ととるなら、「これ」をそのどちらについても言うことはできない。両者とも「これ」に属してはいるのだろうが、どちらもそれが属しているものではない。両者とも現前はするが、どちらもそれ自体で唯一無比の現前であることはなかろう。両者は「これ」を共通にもっているのではなく、「これ」が両者をもっているのである。それは排他的な性質を分け与える共通の本質ではない。
これ以上複雑な事情に踏み込んでも、明らかにすることのできないものをより明確にできるとは考えられない。上述したことのなにがしかが読者に理解されたなら、判断におけるシンボルとしての「これ」の使用は不可能なばかりでなく、もしそれが存在したとしても、完全に無価値なものであることを示すことができただろうと思う。
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