姉のエリザベスが脳水腫で死んだのは、ド・クインシーが六歳になるかならないころで、二人の関係は豊富なエピソードに彩られたものとは言えなかった。なぜかくも姉を愛し、成人してからも彼女への思いにとらわれつづけたのか、「わが姉上よ、貴女が白痴であったとしても、貴女を愛する私の気持ちに変わりはなかったに違いない――そのおおどかな心は、私の心もろ共に、優しさに満ち溢れ、そのおおどかな心は、私の心もろ共に、愛されずんば已まずという必要に駆られていたのだった。」(『深き淵よりの嘆息』野島秀勝訳)というしかないものだった。
しかし、こうした具体的な内容の乏しさは、弱点であるどころか、ある種の形而上学的感覚を引き起こす強大なうねりを呼び込むものである。死の翌日、「彼女の美しい神殿の如き頭脳が人間の穿鑿によって陵辱されぬ内に」もういちどその姿を見ておこうとド・クインシーは姉の寝室に忍び込む。
豪奢な陽光に背を向けて、私は遺体に対面した。そこには可愛らしい子供の姿が横たわり、天使のような顔があった。普通、人々が空想するように、わが家でも、姉の死顔は生前と少しも変っていないと言われていた。少しも変っていなかったろうか? 確かに額は、穏やかに澄んだ額は、それは元のままだったろう。しかし、凍てついた目蓋、その下から沁み出て来ると思われる暗さ、大理石のような唇、あたかも苦悶を終わらせ給えと嘆願を繰り返しているかのように合掌している硬張った手、これらは生きていると見紛うことなど出来ただろうか? 出来たなら、どうして私はその神々しい唇に飛びつき、涙ながらに果てしない接吻を続けなかったのか。だが、見紛うべくもなかったのだ。私は一瞬、金縛りになって立ち竦んだ。恐怖ではない、畏怖が私を襲ったのだった。立ち竦んでいると、一陣の厳かな風が吹き始めた――これほど悲しみに満ちた風の音を聞いたことはなかった。悲しみに満ちた! いや、それでは何も言ったことにならぬ。それは百世紀の永きにわたって、人間の生死の原を吹き通って来た風であった。以来何度も、陽光が一番熱い頃合いの夏の日盛りに、私はそれと全く同じ風が立ち、それと全く同じ空ろで、厳粛な、メムノンの声のようでいて、しかも神々しい音を響かせるのを確かと耳にした。それこそ、此の世で耳にし得る唯一の永遠の象徴なのだ。(同前)
メムノンは、曙の女神エオスとトロイアの王子ティトナスのあいだの子であるエチオピアの王で、トロイア戦争に参加し、アキレウスに討ち取られた。メムノンの死は空や音に関わる伝承と結びついている。ある説によると、エオスは息子に不死と栄誉を授けてほしいとゼウスに懇願した。ゼウスは火葬壇の余燼や煙のなかからメムノニスという幻の雌鳥たちをつくり、鳥たちは二群に分かれ、戦いあって彼の遺骨の上に落ち、葬礼の生け贄になったという。また、これらの鳥たちはメムノンの女友達で、その死を身も世もあらぬほど悲しんだので、哀れに思った神々が鳥に変えたのだともいう(ロバート・グレーヴス『ギリシア神話』)。もっとも有名なのは、エジプトのテーベ近くにあったメムノンの巨像で(実際には、アメンヘテプ三世の座像であったという)、朝日に当たると内部の空気が暖め膨張させられ、喉から弦の切れたような音を発した。それは母親である曙の女神への挨拶だとされた。
もっとも、旅行者に人気があったこの像が、二世紀末ここを訪れたローマ皇帝、セプティミウス・セウェルスの命令によって修復の手を加えられると、音を発しなくなったのと同じように、異教の神々では永遠の悲しみを教えるにはいまだ力弱く、真の永遠を伝えるのはキリスト教であるようだ。
姉の葬式で祈りに唱えられた三箇所のくだりは永遠の無慈悲さと優しさを示すものとして幼いド・クインシーの記憶にしっかりと刻みつけられた。
「全能なる神、その大いなる御慈悲に依りて、此処に身罷りし吾らが妹の霊を引き受け給いしならば、永遠の生命への復活を確と希いて、いざ亡骸を土から土へ、灰から灰へ、塵から塵へと、地に帰さん」
この一節は、天から吹き鳴らされる『黙示録』の喇叭のように、畏怖すべきものであるが、突き放す無慈悲さもあらわしているように感じられる。それに続くくだりは、ことのほか子供のド・クインシーを怒らせたものだった。
「主にありて此処より身罷る人々の霊、主と共にありて生き、信心篤き人々の魂、肉の重荷を解かれし後、主と共にありて至福の喜びに浸る、全能の神よ。我らは御身に心からの感謝を捧げん、我らが此の妹を罪深き此の世の悲惨より救い給いしなればなり。請い願い奉る、御身の恵み深き善に依りて、直ちに御身の選びの民の数を全うし、御身の王国を疾く来たらせ給わんことを」
同じ感情をもっているはずの人間が、しかも聖職者を自称して、姉を連れ去ったことを神に感謝しろという。姉とともあった楽園が失われたことが神の慈悲であるとは。
だが、葬式を締めくくる祈りは心慰めるものだった。というのも、そこには「悲しみに身を屈する優しさ」があったからだ。
「嗚呼、慈悲深き神よ! 復活にして生命なる、信じる者なべて、死すとも、その内にありて生きん、われらが主、耶蘇基督の父よ。耶蘇はまた、聖なる使徒パウロに依りて、望みなき人間たるわれらに、彼にありて眠る者を悲しむこと勿れと教え給う。嗚呼、父よ! われら伏して願い奉る、罪の死より正義の生命へとわれらを甦らせ給え。われら此の世の生命を去る時、彼にありて憩わしめ給え――此のわれらが妹のかくあらんと望むが故に。」
永遠の悲しみ、悲しみの深淵は、にもかかわらずそこには望みがあるとされることによって、沈み込むばかりの静的なものから流動的なものとなり、出口のある迷宮と化する。
自分には望みはないと、如何に人が考えようと、あの時以来、私は数々の悲しみの大いなる深淵の壁に記された文字を読み、そしてそれら悲しみの影も一層深い深淵、原初の恐怖と最古の闇の深淵から立ち現われる一層強大な悲しみの影によってその出過ぎを窘められるのを見て来たが、にもかかわらず、その一層深い深淵の底でも、必ずしもすべての望みが絶対的に死に絶えたとは信じていない。自分には望みはないと考える人は、まことに無理からぬことではあるが、やはり、間違っていると、私は了解している。苦しみの塵の中で転げ廻る私やその他大勢の人々が、しかし一瞬でも、かの予言者の骨に触れるや生命の栄光に甦り、すっくと起ち上がったあの干乾びた死体のように、突如、立ち上がることが出来るものなら、子供の私の耳が聴いたあの合唱隊の歌う壮大な聖歌の中で、神の御声が音楽の雲に包まれ――「悲しむ子よ、さあ起ち上がって、暫しの間、わが天の天へと昇るがよい」とお告げくださるものなら――その時は、あの闇の苦悩、絶望がそのような悲しみに不可欠のものではなく、まさに光がわれらの騒然たる此の地上を照らしてはまた消えて行くごとく、来たってはまた去って行くものに過ぎないのは、明々白々なことであった。(同前)
「起ち上がったあの干涸らびた死体」とは、イスラエルの予言者エリシャに関するエピソード、『列王記下』13.20~21「エリシャは死んで葬られた。その後、モアブの部隊が毎年この地に侵入して来た。人々がある人を葬ろうとしていたとき、その部隊を見たので、彼をエリシャの墓に投げ込んで立ち去った。その人はエリシャの骨に触れると生き返り、自分の足で立ち上がった。」に基づいている。
深淵は、もちろん、人間の卑小さを示すものでもあるが、同時に、深淵に耐え、深淵から飛翔する人間の可能性をあらわしてもいる。それゆえ、「悲しみは沈んだかと思えば、再び、熱情に溢れた人々の心に縷々見受けられるように、天の天へと昇って行こう。だが、悲しみはあまりにもそれ自らの孤独に委ねられれば――遂には再び上昇すること叶わぬ深淵へ、もはや病とも見えぬ病へ、まさにその甘美さ故に心が錯乱し、健康そのものと錯覚してしまうような憔悴へと沈んで行くのは、必然である。」などと書いてはいても、ド・クインシーはキルケゴールが『不安の概念』や『死にいたる病』で試みたように、不安や絶望を人間の実存的な様態をあらわすものとして分析するような振るまいとは無縁だった。不安といい絶望といっても、深淵を飛翔する者が垣間見る一局面に過ぎないからだ。
言い方を変えると、それは常にユーモラスな視点を失わないということである。エリザベスの死についてもそのことは変わらない。エリザベスの聡明さは子供の眼にも明らかであって、その早熟さを証立てるように頭部は見事に発達していた。「その秀でた額には早熟の知的壮麗さの印として、光の宝冠か煌めく光冠が載っていると私は今も空想する」と書く一方で、ド・クインシーはその脚注で次のように書きとめている。
姉の主治医はコンドルセやダランベールなどと文通していた著名な文学痛の内科医パーシヴァル博士と、卓越した外科医チャールズ・ホワイト氏であった。姉の頭部がその構造と発達の度合いにおいて、今までに見た何人のものよりも最高に見事なものだと言い切ったのは、ホワイト氏であった――この断言を氏は、私自身耳にした憶えがあるが、後年に至っても熱っぽい調子で繰り返したものだ。氏がこの種の問題にかなり精通していたことは、彼が色々な種類の人類から選択し来たった頭部を様々に測定した実証に基づく、人間頭蓋の研究書を物し出版したことからも推定し得るだろう。ところで、虚栄と見えかねない事が、たとえ僅かでも、この記録に忍び込むのを忌み嫌うが故に、姉は脳水腫で死んだと、私は率直に認めよう。この種の病気の場合、知性の早熟な伸展は全く病的であって――実際、それは病いの単なる刺戟が強いたものに過ぎないと、今まで屢々考えられて来た。しかしながら、この病気と知的な様々な現われとの間にはまさに逆順序の関係も、一つの可能性としてあり得るのではないかと、私は言いたい。必ずしも常に、この病気が知性の異常な成長を惹き起こすとは限らず、逆に知性の成長が自ずから生じて頭部の肉体的構造の収容能力を越え、それで病気が発したのかも知れないのである。 (同前)
だが、絶望をめぐるこうした省察を読んでいると、ある種の疑問も生じる。不安や絶望が人間の痼疾ではないように、「私がかくも繁々、宗教的感情、観念、儀式に言及するのも他ではない、多くの点で、深遠な宗教と混交しないような深遠な悲嘆も深遠な哲学も、未だかつて存在した例はないからである。」というド・クインシーにとって、キリスト教は信仰帰依の対象ではなく、比較的重要度の高い深遠な哲学のひとつでしかなかったのではないだろうか。
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