2014年7月27日日曜日

ブラッドリー『論理学』54

 §28.我々は知覚にあらわれる実在を指し示すことによって観念や単なる普遍から逃れる。かくして、我々の主張が唯一無比に達しない限りそれは事実とは対応しない。かくして、分析判断は我々にとって確実なものとなったように思える。しかし、§19で尋ねた問題に立ち返り、総合的判断に向かい、直接的な現前の範囲に収まらない空間と時間を扱うと、一見するところ我々はうまくいかないように思える。我々が得たものは、それを越えたあらゆるものを代償にしたものだったことがいまや明らかになる。我々の空間と時間のあらゆる系列は実在と接する唯一つの点を参照しなければならないことになろう。この点においてだけ、時空間の内容は事実のしるしを受けとることができる。しかし、この関係を確立することは不可能であるように思える。

 我々が知るこうした総合的な主張の内容は普遍的なものである。それは他の無数の系列において真実であろう。この非実体的なつながりは、それだけでは、どの点においても現実に接することはない。他方、実在の源泉である与えられたものは、こうした支えるもののない連続には一切関わりを持たないように思える。そのシンボル的内容は、現前の内容と両立し難いために、直接に現前に当てることはできない。そして、もし我々がもう一つの現前をもつことができないなら、普遍が実在に達することができるような事実はどこに存在するのだろうか。

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