確かに、そういうことであれば、事実への参照は、不可避的にそして常に判断からはこぼれ落ちてしまうだろう、と我々は答える。再び我々は支えを失い、仮言的以上には進めなくなる。しかし、提起された問題を捨て去るには及ばない、というのもそれは、微妙な反省を必要とするが興味深いことに導いてくれるからである。「これ」という観念は、他の大部分の観念とは異なり、判断におけるシンボルとして使用することはできない。
第一に、我々が観念をもっていることは確かである。実際、我々はそれを否定することはできないし、否定する際にも実際には観念を使ってしまっている。系列における排除の観念、これ性の他にも、我々はまた実在への感覚による直接的な関係についての観念をもっており、そうであるなら我々は「これ」をもつことになる。我々は決してなくなることのないこの直接の現前から現前という観念を抽象することができる。そして、現前は、内容に関わることではなく、あらわれの性質とも呼びがたく、内容の変化の只中で同一な、内容とは分けられ区別されるようなものと認められるのである。かくして、観念的に固定された「これ」は普遍的なもののなかでも普遍的なものとなる。
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