2014年7月15日火曜日

ブラッドリー『論理学』50

 §24.ここで我々は厄介な問題に行き当たる。読者は我々のこれ性についての考え方を受け入れることに同意してくれただろう。我々の用語では空間や時間における相対性、別の言葉で言えば個別性しか意味することができず、内容を越えでることがないことには同意してくれよう。そして、我々は普遍的でしかない観念をもつことになる、という結論を受け入れることだろう。しかし、「これ」を使うことで、我々はもう一つの観念をつけ加えるだけだと異議を唱えるかもしれない。我々は現前する実在との直接の接触という観念をもち、この観念が「これ」で意味されているものであり、我々の分析判断において主語となる観念を性質づけるものである、と。

 確かに、そういうことであれば、事実への参照は、不可避的にそして常に判断からはこぼれ落ちてしまうだろう、と我々は答える。再び我々は支えを失い、仮言的以上には進めなくなる。しかし、提起された問題を捨て去るには及ばない、というのもそれは、微妙な反省を必要とするが興味深いことに導いてくれるからである。「これ」という観念は、他の大部分の観念とは異なり、判断におけるシンボルとして使用することはできない。

 第一に、我々が観念をもっていることは確かである。実際、我々はそれを否定することはできないし、否定する際にも実際には観念を使ってしまっている。系列における排除の観念、これ性の他にも、我々はまた実在への感覚による直接的な関係についての観念をもっており、そうであるなら我々は「これ」をもつことになる。我々は決してなくなることのないこの直接の現前から現前という観念を抽象することができる。そして、現前は、内容に関わることではなく、あらわれの性質とも呼びがたく、内容の変化の只中で同一な、内容とは分けられ区別されるようなものと認められるのである。かくして、観念的に固定された「これ」は普遍的なもののなかでも普遍的なものとなる。

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