2014年7月12日土曜日

ブラッドリー『論理学』49

 §23.我々に与えられるすべてのもの、あらゆる心的出来事、感覚であろうが、イメージであろうが、反省であろうが、感じ、観念、情動であろうが--現前することのできるあらゆる可能な現象--それらは「これ」と「これ性」の双方をもっている。しかし、その唯一無比、特異性の性質は前者からくるもので、後者からくるものではない。もし我々が存在と内容とを区別し(第一章§4)、一方に存在するということ、他方にそれがなにであるかを置くと、これ性は内容に分類されるが、これはそこには属さない。それは私の直接的な関係、感覚される現前における実在の世界との直接の出会いの単なる記号に過ぎない。私はここでは「これ」がどうやって存在と関わっているのか、それがどれだけ実際の事実を有しており、どれだけが単なるあらわれに過ぎないのか、現実に存在するのか、私にとってだけ存在するのか、については問わない。そうしたことを別にしても、少なくとも我々が実在との接触において唯一無比を見いだすこと、それ以外の場所では見いだせないことは十分確実である。現前とともにあらわれ、我々が「これ」と呼ぶ特異性は与えられたものの性質ではない。

 しかし、他方、これ性は内容に属し、空間や時間におけるすべてのあらわれの一般的な性格である。これ性は、もし望むなら個別性と呼んでもいい。我々に与えられるものは、第一に、空間や時間における他の現象との複雑で細部にわたる無数の関係によって取り囲まれ巻きこまれている。内的な性質においてその区別をし、ある程度進めることはできるが、窮め尽くしたと確信することは決してできないだろう。そして、空間や時間における構成要素の内的関係は再び非限定的なものとなる。我々は決してその底にまでたどり着くことはできない。この細部は否応なく我々にあらわれる。我々はそれを隈なくあるがままに知覚しているように思うが、それをつくりだすことも変更することさえない。この細部がこれ性をつくりあげている。

 しかし、空間や時間におけるそうした個別性、そうした排除的性質は、結局の所、一般的な性格に過ぎない。それは内容であり、存在を与えるものではない。それはある性質を示しても、事物は逃してしまう。これから抽象されるのは単なる観念であり、これを離れては、周知のように観念は唯一無比に達することはできない。出来事が有するこれ性をどれだけ積み重ねても、系列のようにまったく同じ出来事の存在を排除するわけではない。そうした排他性はすべて種類分けに属するもので、その種類分けだけではそれだけのものでそれとはなり得ない。

 我々が与えられたものを分析し、主語として「これ」を置くようなあらゆる判断では、真の主語は観念ではない。「これ」を使うことで、我々は観念を使用しており、観念は普遍的であるし、そうでなければならない。しかし、我々が意味し、表現しようとして失敗するのは、唯一無比なものとして与えられた対象を指し示すことである。

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