しかし、他方、これ性は内容に属し、空間や時間におけるすべてのあらわれの一般的な性格である。これ性は、もし望むなら個別性と呼んでもいい。我々に与えられるものは、第一に、空間や時間における他の現象との複雑で細部にわたる無数の関係によって取り囲まれ巻きこまれている。内的な性質においてその区別をし、ある程度進めることはできるが、窮め尽くしたと確信することは決してできないだろう。そして、空間や時間における構成要素の内的関係は再び非限定的なものとなる。我々は決してその底にまでたどり着くことはできない。この細部は否応なく我々にあらわれる。我々はそれを隈なくあるがままに知覚しているように思うが、それをつくりだすことも変更することさえない。この細部がこれ性をつくりあげている。
しかし、空間や時間におけるそうした個別性、そうした排除的性質は、結局の所、一般的な性格に過ぎない。それは内容であり、存在を与えるものではない。それはある性質を示しても、事物は逃してしまう。これから抽象されるのは単なる観念であり、これを離れては、周知のように観念は唯一無比に達することはできない。出来事が有するこれ性をどれだけ積み重ねても、系列のようにまったく同じ出来事の存在を排除するわけではない。そうした排他性はすべて種類分けに属するもので、その種類分けだけではそれだけのものでそれとはなり得ない。
我々が与えられたものを分析し、主語として「これ」を置くようなあらゆる判断では、真の主語は観念ではない。「これ」を使うことで、我々は観念を使用しており、観念は普遍的であるし、そうでなければならない。しかし、我々が意味し、表現しようとして失敗するのは、唯一無比なものとして与えられた対象を指し示すことである。
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