2014年7月5日土曜日

ブラッドリー『論理学』47

 §21.時間的空間的排他性がその内容を唯一無比なものとするという意味で、空間と時間が「個別化の原理」だとするような誤った考えは(もしもっているなら)捨て去らねばならない。「出来事」について語ることで、実在や堅固な個物に降り立ち、雲をつかむような普遍的形容の領域を去るのだと思うのは錯覚である。空間と時間ということで我々は実際にはなにを意味しているのだろうか、そして、差異をつけて表現するにはどうしたらいいのだろうか。時間の系列、複合的空間という観念には、唯一無比であることが一つの意味として含まれている。というのも、各部分は互いを排除し合うからである。しかし、系列が一つの連続した全体としてとらえられ、その成員間の関係が系列の統合によって固定されない限り、部分は排除し合わない。この統一がなければ、回帰してきたときの点と最初に与えられたときの点とが区別できないことになる。そして、こうした統合というのは、どこまで互いの排除を否定することになるのだろうか、とどこまで行っても自問することになる。

 しかし、この問題をやり過ごしたとしても、ある系列の相互排除が絶対的な唯一無比を生みだすわけでないことは明らかである。系列という観念には、内的にはもとの系列と切り離すことのできない無数の系列が存在しないとほのめかすようなものはなにもない。観念を越えようとはせずに、ある系列を、他の可能な系列から区別し、記述によって確定性格づけることがどうすれば可能であろうか。「これ」といっても、「これ」はこれの領域以外では排除を行なわないから無駄なことであるし、「私の」といっても、あなたのものと私のものとが衝突するのは私のものにおいてだけであるから、これも無駄なことである。その外側では無関心で、「私の」という表現はある世界と別の世界を区別したりはしない。もし系列そのものに注意を払い、その外側を見ず、その性格だけを考えることに限るならば、そこに含まれているものは無数の主語の共通の財産であり、それぞれの世界に存在し享受されており、なにものによっても占有されていない一般的所有物となるだろう。

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