二階からひとりで見たる猫の恋 釣壺
加藤郁也編著による『近世滑稽俳句大全』(読売新聞社)で見つけた句である。貞門から幕末まで、広く六千句以上を集めたこの本のなかでもっとも印象に残ったものなので、句そのもののできなどを越えて、よほどどこか感応する部分があったのだろう。
元禄十年に刊行された玄梅撰による『鳥の道』という俳書の序にあるものらしい。本そのものをみてはいないので、どんな文脈に置かれた句なのかはわからないが、句そのものは平明で特になにも言うことはない。
ごく自然に冬のあいだにかたまった身体の芯をほぐす春ののどかさを感じることもできる。また、『春色梅児誉美』の丹次郎が差し覗いているかのような無気力で退廃的な世界を思い描くこともできよう。しかしまた、森鷗外の『百物語』や芥川龍之介の『孤独地獄』にみられるような、人間の色恋沙汰などには倦み果ててしまった者の倦怠のまなざしとも受け取れる。強烈な官能によってぼかされた意識とは対照的な、「血糸の通つてゐる、マリシヨオな、デモニツクなやうにも見れば見られる」(『百物語』)冷ややかな傍観者の目である。百物語を催した飾磨屋は怪談が始まると、さっさと二階に引き上げて寝てしまうのだが、その二階はいかにも猫の恋をひとりでみるにふさわしい場所であるように思える。
私は熱狂的な猫好きではないのだが、ここはやはり猫でなければならぬところである。ブレヒトのコイナー氏はこんなことを思う。
「コイナー氏は猫が好きでなかった。猫は人間の友でないような気がしたのだ。だから彼の方でもまた、猫の友ではなかった。『もし猫とわたしが共通の利害関係にあるのなら』と彼は言ったものだ、『それならわたしだって猫の敵対的な素振りに知らん顔していられるんだがねえ』」
(『コイナー氏一言集』 矢川澄子訳)
共通の利害関係がある人間同士ならその意図は明らかであり、飾磨屋がそうしたように、いくらでも無視することができる。共通の利害関係がないにもかかわらず我々の生活に関わってくるのが猫であり、それゆえ知らん顔もできない、その距離感は二階から見る距離に近しいだろう。同じ距離感を保っていると感じられる私の好きな大田南畝の「猫賦」の一節もあげておこう。
「腮に逸物の毛をかくし、眼に六の時をきざむ。あら玉のとしのはじめは、若水に手水をつかひて、七くさ爪をとぎ侍るも、妻こふ比の心まちにや。」
0 件のコメント:
コメントを投稿