フランス革命以前のイギリスでは、年に百ポンドの収入があれば、贅沢さえしなければまずまず堅実で快適な生活が送れたという。ド・クインシーの父親は、六千ポンドの遺産でもって社会に出た。無駄遣いさえしなければ、一生過ごせるという意味では大金であるが、あくまでそれはひとりで生活するという前提であって、家族がいる、それに応じた住居が必要になる、一定の地位の人たちと社交する、子供たちに教育を受けさせる、などと考えだすと、安穏と過ごしていけるだけの金額ではない。ある銀行家は、まさしく六千ポンドが、危険に満ちた遺産としては究極的なものだと言ったそうである。つまり、安楽と独立を保証するには少なすぎ、怠惰への誘惑として働くには充分だというわけである。ド・クインシーの父親は、質素で静かな生活を好んでいたそうで、贅沢への誘惑はさほどなかったようだが、二十六歳前後で結婚し、妻に結婚前と同じ生活を送らせるためには自分の財産では足りないことをすぐに理解し、貿易商を始めた。
ド・クインシーは、もっとも満足できる社会あるいは家庭を成り立たせるものを最高の作法と結びついた英国中流階級の道徳だと言い、作法を母親から、道徳を父親から受け継いだことを感謝している。ド・クインシーのもっとも早い時期の教養を形成したのも父親の影響が大きいと言えるかもしれない。父親は一冊の本を書いており、内容はイングランド中部地方の旅行記である。旅行記なだけに一貫したテーマがあるわけではないが、主要な目的は二つあり、ひとつは旅行の道筋の主要な邸宅にある絵画や彫刻の評価をすること、もうひとつは、そのころ急速な発達を遂げていた運河や工場などに置かれた機械の技術に目を向けることだったという。こうした関心のありかを示すかのように、自宅にはイタリア絵画の収集品がいたるところに置かれていた。もっともそうした収集は商人のあいだでは一般的なことであって、よりすばらしい収集品をもつ者も数多くいた。その気前のよさと優雅さにおいて、ヴェネチア商人に比較されるが、彼らのように外面的な光輝にこだわることはない。召使いを数多く雇うこともないし、馬車をもつこともそれほど一般的ではなかった。一方、協会は相当数あって、定期的に会報を出版していた。哲学協会に属するなかには、その学問において百科全書派に伍する者もいた。このような環境は、日本で言えば、信長や秀吉の時代の堺の商人のことを思えばいいだろう。支出の点からいうと、貧しい貴族を大きく上回ることも珍しくはなかった。とはいえ、こうしたことが父に特有のことではなく、一般的なことだったのだとわざわざ断っているところを見ると、このような文化圏は急速に失われていったものと見える。
蔵書について言えば、イギリスとスコットランドの文学が過去から現在にかけて揃えられていた。地方の旅行記と地誌のかなり完全な収集があった。外国語の書物はなかった。イギリス文学ほど豊穣なものがあるときに、他国の文学を(研究のためではなく、楽しみのために)求めることは衒いでしかないだろう、とド・クインシーが言うのは、いささか悔しくはあるが否定できない。他の商人仲間同様、田舎に住んで、夜、盛り場に行くこともなかった。劇場に行くときはいつも家族を連れて行き、それは五年に一度程度だった。本、大きな庭、温室が日々の楽しみのためにあった。温室はその大きさからいっても家の主要な場所で、ド・クインシーはそこで子供時代を過ごした。
彼ら商人たちがもっとも尊重した詩人は田園生活をうたった十八世紀後半のウィリアム・クーパーだった。「英国の田舎の家庭、その永い冬の夜、火の周りを取り囲んだソファ、窓にかかった厚いカーテン、紅茶のテーブルに『沸き立って大きな音を立てているポット』、新聞と長い議論――議会を支配するピットとフォックスに法曹界のアースキン――これらすべては彼らの特定の時代、特定の場所の反映である。田園的な風景の特徴はクーパーが経験した英国であり彼らが経験したものでもある。そこで、そうした特徴のうちに彼らは自分たちと同じ地点から物事をみる同国人にして同時代人を認めたのである。」とド・クインシーは書いている。サミュエル・ジョンソンは複雑な感情をもってかなりの尊敬を集めていた。荘厳で、整然とし、人工的で、大袈裟でさえある文を好む者は彼の言葉づかいを喜んで受け入れ、母国語の自然な優美さと生気を尊重する者は反対した。当時の家には音楽はほとんどなかった。また、学問については過度に尊敬が払われていた。
こうした家庭で子供時代を過ごす幸福についてド・クインシーは次のように書いている。
我々のこの幸福は高すぎるものでも低すぎるものでもなかった。よい作法、自負心、簡潔な品位の範型を見ることができるほど高く、孤独の甘美さを味わえるほどには身分が低いのである。かなりの財産、健康のため、知的修養のため、優雅な楽しみのための特別な手段が十分にありながら、他方、その社会的な等級についてはなにも知らずにいた。なにかがないことでみすぼらしさに消沈することはないし、特権を熱望して忙しない思いをすることもなく、我々は恥をもつような理由もなかったし、誇りをもつような理由もなかった。
「自分が生まれたときの光景を見たことがあると言ひ張つてゐた」という『仮面の告白』の三島由紀夫ほどではないが、ド・クインシーもまた、二歳以前の思いだすといつまでも痛みを感じるような二つの出来事の記憶があるという。第一に、お気に入りの乳母についての恐ろしいほど壮麗な驚くべき夢である。第二に、クロッカスかなにかの花が咲きはじめたときに感じられた深い悲哀の感情である。その当時、死をなんら経験していなかったにもかかわらず、「草木や花の毎年の復活は、私にはなにかより高い変化への記念或は示唆として、それゆえ死の観念に結びつくものとして感じられていた」という。花が咲くことと悲哀の情が結びつくことは、散る花に無常を感じるのとはまったく異なっていて面白い。確かに花が咲くことは、葉や茎だけを見ていてはまったく予想することのできない唐突な出来事であって、別な秩序が介入したことを感じさせる。そしてこの世界を生の世界と捉えるなら、別の秩序とは死の世界に他ならない。
もともとこうした感受性をもっていたド・クインシーは、その後実際の死に直面することとなり、そこで受けた傷は生涯癒えることはなかった。まず、家族構成について記しておこう。八人兄弟で、ド・クインシーは五番目である。1.ウィリアム。ド・クインシーより五歳以上年上。2.エリザベス。3.ジェーン。生まれて四年目に死んだ。4.マリー。5.ド・クインシー。6.リチャード。ピンクと呼ばれていた。後に、海軍将校候補生になった。7.二番目のジェーン。8.ヘンリー。父親の死後生まれた子供で、オックスフォードのブレイノーズカレッジに属し二十六年目の年に死んだ。六人以上が生きて揃ったことは一度もなかった。
ド・クインシーは三人の姉を遊び相手とし、いつも彼女たちと一緒に寝、貧困や苦難や乱暴さとは切り離された静かな庭にいた。幼年時代にド・クインシーが直面した死は、そうした楽園からの失墜も意味していたのである。最初に訪れたのは二歳年上のジェーンの死だった。ジェーンが三歳半、ド・クインシーが一歳半で、まだ死は理解されないものだった。同じ時期に母方の祖母も死んだが、病気のために隔離されていたので、交渉もほとんどなく、事故によって傷ついた美しい川蟬の死のほうにより心を動かされた。
しかし、ジェーンの死に関しては恐ろしい印象を残した出来事があった。それはジェーンの死の直前、たまたま一日か二日彼女のもとに遣わされた女性の召使いが、病気の子供のむずがりが原因であったろうが、彼女を乱暴とは言えないまでもがさつに扱ったという噂が立ったことにある。このことがド・クインシーに与えた影響はとてつもないもので、「人生の評価を塗り替えるような、永続的で革命的な力を私に及ぼし続けた」ものだったという。暴力とは無縁な静かな庭にいた彼は、乱暴さやがさつがこの世に存在することをはじめて知ることになったのである。小学生のころの記憶さえほとんどない私には、二歳以前の出来事が決定的な重みをもって記憶されることなど想像の埒外だが、あるいはそれだけ私が安穏な生活を送ってきた証左なのかもしれない。
いずれにしろ、ジェーンの死は彼女が消え去ったということでしかなかった。悲しいには違いないが、戻ってくることを信じてもいた。クロッカスが再び花を咲かせるように、ジェーンも帰ってくるだろうと思っていた。しかし、第二の死、エリザベスの死はそういうわけにはいかなかった。エリザベスがもうすぐ九歳に、ド・クインシーがもうすぐ六歳になろうとするころのことである。エリザベスはお気に入りの女中の父親の家でお茶に呼ばれることを許されていた。ある夏の日曜の午後、お茶から帰るときには、暑い日の暮れ方ということもあって草地には靄がでていた。その日から彼女は病気になった。医者を特別な存在と見なしている子供は、そんな状況にも不安を感じないものである。横になり呻き声をあげている彼女を見ることは悲しかったが、一夜明ければもと通りになっているはずだった。それが間違いであることがわかった瞬間、彼女が死を迎える運命にあることを理解したときに、「まったくの無条件な苦痛」が幼いド・クインシーに襲いかかる。「思い起こされることはみな混沌に巻き込まれてしまう」彼にとって、すべてはあっけなく終わったと言うしかない。
ド・クインシーはなぜ死が夏にもっとも哀切なものと感じられるかについて考察している。ひとつは「夏の生命の過剰なまでの繁茂と墓の凍りつくような不毛性との敵対関係」に由来している。この二つが争うことで、どちらの力も高まっていく。
第二に、より抽象的に導かれることであるが、楽園の日々に、三人の姉たちと暖炉を囲んで座り、物知りの乳母に沢山の挿絵のついた聖書を読んでもらっているときの記憶にさかのぼる連想がある。
気候の違いもあってか、聖書の主要な出来事は夏に関連しており、そこには永遠に続く夏があるかのようだった。なかでもキリスト受難直前のエルサレム入城を記念する棕櫚の日曜という名はド・クインシーを戸惑わせる。それは夏の華やかさと平安を示しているが、受難が近いことも意味している。エルサレムは地球のオムパロス(臍)、あるいは物理的な中心だと空想される。地球の姿を知ってしまえば馬鹿げたものとなる空想だが、地球ではなく、地球に住む者、人類にとってエルサレムはオムパロスであり、絶対的な中心となっている。というのも、そこでは、我々の所とは反対に、死すべき運命が足下に踏みにじられている。だが、まさにその理由によって、そこでは死すべき運命が最も憂鬱な穴痕を開けてもいる。そこでは、人間は翼をもって墓から飛翔する。しかしまた神的なものが深淵に飲み込まれもする。
それゆえ夏は、繁茂と不毛の対立関係のためばかりでなく、聖書の場面と出来事によって死と入り組んだ関係を持つものであるために死との関係を持つのである。
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