2014年7月21日月曜日

ブラッドリー『論理学』52

 §26.繰り返すと、実在の現前は唯一無比なものである。識別によって我々はその唯一無比を観念の形に固着することができる。我々はその観念を別のものについての観念にもしようとしている。しかし、別のものについて真である観念では、そのなにか別のものが現前し唯一無比でなければならない。我々は二つの唯一無比な現前をもつか、一方が消え去るかしなければならない。もし最初のものが消え去れば、観念も一緒に消え去る。第二のものが消え去れば、観念が指し示すべき事実が存在しないことになってしまう。どちらの場合でも、判断は存在することができない。観念は、それ自身の実在以外の場所で真の観念となることはない。もし我々がそれでも判断するなら、それはそれ自身以外のなにも意味することのできない記号となる。最も孤独であるときに最も孤独でなく、孤立をともに楽しんでいる、というのは文章としては味わい深い。しかし、文字通りの意味をとれば、我々の目の前にある矛盾を例証するものであろう。

 事実と判断における「これ」の観念の間には、実際的な相違は存在し得ない。これという観念は、そのしるしづけるものが実際に現前していないなら、間違った使われ方をしているのだろう。しかし、そうした場合、意味される事実が目の前にあるなら、我々は記号を使おうとするだろう。我々は目の前にある事実が「この」事実であると認める限りにおいてその観念を用いることができる。しかし、そうした用法は所与を越えでることはない。主語について、主語が消え去ってしまった述語を当てはめる。それには事実の内部における識別が働いており、識別されたものは所与から切り離すことはできないので、所与と識別されたものは主語のまま残っている。それゆえ、観念の付加は主語になにもつけ加えはしない。別の事実の内容から観念を移し替えることができるとしても、その働きは不必要でまったく無効なものだろう。

 そしてそれは可能でもない。既に見たように、それは唯一無比の事実を二ついっぺんに目の前に置こうとする試みである。我々が「これ」で意味しているのはその内容を照らしだす現前の排他的な側面で、この特異な内容について我々は観念を用いる。この観念をどこであっても真でありうる意味として扱うことは我々の目を別な内容に移すこととなろう。両者が同一であるとともに唯一無比でなければならないことから生じるジレンマについては詳述する必要はない。

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