2014年6月30日月曜日

テリー・イーグルトン『詩をどう読むか』書評

 『鬣』第42号に掲載された。

 詩を読むことのすごさをはじめて知ったのは、この本にも幾度か名前が取り上げられているが、ウィリアム・エンプソンの『曖昧の七つの型』を読んだときだった。バルザックの中編『サラジーヌ』をばらばらに分解し、一文ごとの働きを分析、分類したロラン・バルトの『S/Z』にも圧倒されたが、こちらの場合、とりあえず物語は先に進み、結末はわかっているので道を見失って途方に暮れることはなかった。ところがエンプソンの場合、一歩踏み込むやすでに藪のなかで、確かにここに曖昧さがあり、それがどういった種類のものなのか、説明されていることは理解できるのだが、いったん説明を離れて詩を読み返してみると、なんだかすでにあやふやになっており、その曖昧さが他の曖昧さとどんな関係にあるかとなるともはや見当さえつかないのだった。題名だけ見ると、元素の周期表のような整序された世界が提示されると思えたのだが、案に相違して目の前にあるのは精密だが用途のわからない機械のようなものだった。詩を読むことにおいても、精緻になり、洗練されればされるほど猛々しさがあらわになるような種類の文章のあることを知った。

 私がイーグルトンを読むたびに期待するのはこうした猛々しさであり、なにかいつも裏切られたように感じる。この本はかつてあった(それこそエンプソンやその先生たちの時代)精読に基づいた文学批評が「滅びゆく伝承の技」となっていることを危惧した著者が、詩を読むことの入門書として書いた本ということになっている。しかし、あながち啓蒙書とばかりも言えないのは、満遍なさよりは周到な選択が働いているからである。やや意外なことだが十七世紀の形而上詩人や未来派やダダ、シュルレアリスムの影響を受けて活動した前衛詩人、ナンセンス詩などには冷淡である。また、それほど意外ではないが、コールリッジ、ポオ、スウィンバーン、ワイルド、世紀末のマイナー・ポエットと続く流れにはほとんど言及されない。スィンバーンの詩が引用されて、「すべて頭だけで捏ね上げたものだ」「はではジェスチャーだらけだが、中身は何もない。」(ジョン・ダンの詩でも似たようことが言われる)と痛罵されるのだが、中身が何もないところからも詩ができあがってしまうのはなぜか、という少なくとも私などには十分興味のある詩の問題は素通りされる。つまり、本来ポレミックである部分が啓蒙の名のもとに回避されているように感じられる。しかし、啓蒙の部分については非常にわかりやすく、入門書として過不足ない。特に前半の理論的な部分はありがちなように、妙な専門用語が振り回されることもなく明晰である。それだけに、この明晰さでこれまで耳にしたことがないようなことを聞いてみたい、と再び新たな希望がわいてくる。            

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