実在を我々は自律的で、実体をもち、個的なものだと見越していた。しかし、現前のなかにあらわれると、そのどれでもない。内容全体が相対性や形容的なものに汚染され、そのすべての要素もまた形容的なものである。事実として与えられているが、そのすべての部分はなにか別のものを指し示す存在として与えられているのである。所与のあらわれの時間における絶えまのない消滅そのものが自律的だという主張を否定している。そしてまた、あらわれている間でも、いわば、その境界は非実在の侵入に対して決して安全に守られてはいない。空間や時間において、その外側は時空を越えたものとの関係によってのみ事実となる。それが排除するものとの関係によって生きているわけで、境界を越えて他の要素に加わり、その要素を自分の領域内に誘いこむ。しかし、その縁はほころびがあり揺らめいているために、外に向かう、内に向かう流れは不安定で、安定は既に失われている。自身を越えたものについての形容となっている。それ自体のなかにはどんな安定性もない。時間や空間における堅固な地点は存在しない。それぞれの原子は単に諸原子の集合であり、それらの原子も事物ではなく、消え去りゆく諸要素の関係である。究極的なもの、個的なものとして示すことができるのはなんなのかと問われても、なにも答えることはできない。
実在は現前にあらわれる内容と同一視することはできない。それは永久に現前を越えていき、我々は至る所を探し回る権利を持つだけである。
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