2014年7月18日金曜日

ブラッドリー『論理学』51

 §25.しかし、その類似性にもかかわらず、それは通常の観念とは非常に異なっている。思いだしてもらいたいが、観念はシンボルとして使用される(第一章)。「馬」という観念には(i)私の頭のなかのイメージの存在、(ii)その全内容物、(iii)その意味がある。別の言葉で言えば、我々は常に(i)それがあるということ、(ii)それがなんであるか、(iii)それがなにを意味するか、を区別している。最初の二点は事実に関わっている。三番目のものは事実には属さない普遍的なものであり、存在との関わりなしに考えられ、実際の判断では他の主語に差し向けられることもある。

 「これ」という観念は顕著な相違点をもっている。現前する実在として区別し、与えられたものの知覚や感じ、そこにおける現前に注意を向けることが我々の語の意味として認められる。現実に目の前にあるものの内容には一切目を向けずに、それを観念的に熟視するのである。

 しかし、判断をしようとするとき、別の存在から切り取った形容をどうやって当てはめられようか。ここにおいて我々は行く手を阻まれる。というのも、そうしてつくられた判断はどんなものでも間違っているに違いなからである。他の事実は、それがあること自体で与えられたものを変えることなしに現前することはあり得ない。それは与えられたものをより広い現前の一要素に格下げするか、存在から完全に与えられたものを取り去ってしまう。所与は消え去り、それは観念も持っていってしまう。我々はもはや観念をもっていないので観念を叙述することはできないか、あるいは、まだもっているなら、それを支えているものが、我々が示したいと思っている他の事実を排除することになる。

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