2014年7月31日木曜日

二度めの正直――スタンリー・キューブリック『アイズ・ワイド・シャット』

医師夫妻が名士のパーティに招かれる。夫(トム・クルーズ)は二階の名士の部屋で麻薬でショック症状を起こした裸の女性を介抱し、妻(ニコール・キッドマン)はダンスしながらプレイボーイ気取りの男に熱心に口説かれているが、酔いに身を任せているのか、強く拒むわけでもなく、むしろ触れなば落ちんと誘い込むようにほほえんでいる。

この微笑は非常に特徴的である。なぜならそこにはなにも読み取れないからである。少なくとも心理の綾や駆け引きとは無縁であり、誘い込むようにとはいっても、無意識的な隙や罠があるわけではない。裏になにもない誘い込むような微笑が浮かんでいるだけなのだ。

翌日の晩、ふとした諍いから夫は、妻が過去に経験した精神的不貞の告白を聞き、妻がその男とベッドをともにする映像が頭を離れなくなる。そのすぐあと、患者が急死したという連絡を受け、夜の街にでる。

この映画は、一晩ではすまないが、街を彷徨して風変わりな人物たちと事件に出くわすという意味では、マーティン・スコセッシの『アフター・アワーズ』に似ているし、夫の欲望が常に中断され結局は満足されることはないという意味で、ブニュエルの『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』や『欲望の曖昧な対象』などにも似ている。

妻の不貞によって喚起された映像や、友人の思いがけない愛の告白などによって欲望をかき立てられた夫は、素人とも娼婦とも思える女の部屋に入り、行為に及ぼうとするが、妻からの電話に邪魔される。また学生時代の友人のピアニストから強引に話を聞き出して、貸衣装で仮面と礼服を借り、秘密クラブに入り込む。そこでは仮面をした者たちがなんらかの儀式をおこなっており、屋敷の各部屋では男女が裸で絡み合っている。上流人士ばかりが集まる場所らしく、仮面の女性から警告を受け、すぐに追い出さる。翌日同じ場所に訪れてみるが、それ以上秘密を探ると安全の保証はできないと釘を刺される。

だが、この秘密クラブも、妻の微笑と同じく、奥行きがまったくない。特に倒錯的な行為がおこなわれているわけではないし、淫靡な雰囲気が漂っているわけでもない。秘密のクラブではあっても、謎めいたところは一切ないのである。

当初、シュニッツラーが原作で、トム・クルーズとニコール・キッドマン夫婦を主演にして映画を撮影していると聞いたときには、どんな映画になるのか、見当がつかなかったものだが、案の定というべきかウィーンの享楽的なエロティシズムとは隔絶しており、それこそのがこの映画の魅力となっている。女性や性は、ちらちらと秘密を開示しながら複雑な襞を生みだすものではない。キューブリックの完璧主義といわれるものは、むしろニコール・キッドマンの微笑のような、変化することなく、心理や情をはじき返すなめらかな表面を研磨することに精力を傾けている。その意味で、訓練生たちの皮肉な良識や自殺に至る狂気などを描くことによって表題そのものよりもその綻びをあらわにした前作とは異なり、この映画ではより鮮明にフルメタル・ジャケットとしての女を表現している。

2014年7月30日水曜日

ブラッドリー『論理学』55

 §29.我々は以前の議論で得た結論に我々の難点を追い込まなければならない。我々は、知覚にあらわれた実在は、そこにあるがままの実在と同一ではないことを見た。もし実在が「これ」でなければならず、我々に直接に接するものでなければならないなら、我々の取り出した「これ」がすべての実在であり、「これ」を越えた実在など存在しないと結論づけることはできない。恐らく、現前の内容を除いては、直接に実在を手に入れることは不可能であろう。言ってみれば、我々は穴を通してしか実在を見ることはできない。しかし、それを見て我々が確信するのは、穴の向こうには実在が無限に存在するということである。もし「これ」を唯一無比のあらわれと理解するなら、ある意味、この性質のなかに実在が閉じ込められるのであるから、「これ」は内容のある部分でも、実在の性質でもない。これ以上の議論は形而上学に属することで、ここではありのままの結論で満足せねばならない。実在は我々にあらわれるものである。あらわれは一般的なものではなく唯一無比である。しかし、実在そのものはそのあらわれがそうである意味で唯一無比ではない

 実在を我々は自律的で、実体をもち、個的なものだと見越していた。しかし、現前のなかにあらわれると、そのどれでもない。内容全体が相対性や形容的なものに汚染され、そのすべての要素もまた形容的なものである。事実として与えられているが、そのすべての部分はなにか別のものを指し示す存在として与えられているのである。所与のあらわれの時間における絶えまのない消滅そのものが自律的だという主張を否定している。そしてまた、あらわれている間でも、いわば、その境界は非実在の侵入に対して決して安全に守られてはいない。空間や時間において、その外側は時空を越えたものとの関係によってのみ事実となる。それが排除するものとの関係によって生きているわけで、境界を越えて他の要素に加わり、その要素を自分の領域内に誘いこむ。しかし、その縁はほころびがあり揺らめいているために、外に向かう、内に向かう流れは不安定で、安定は既に失われている。自身を越えたものについての形容となっている。それ自体のなかにはどんな安定性もない。時間や空間における堅固な地点は存在しない。それぞれの原子は単に諸原子の集合であり、それらの原子も事物ではなく、消え去りゆく諸要素の関係である。究極的なもの、個的なものとして示すことができるのはなんなのかと問われても、なにも答えることはできない。

 実在は現前にあらわれる内容と同一視することはできない。それは永久に現前を越えていき、我々は至る所を探し回る権利を持つだけである。

2014年7月29日火曜日

幸田露伴『冬の日評釈』初雪の巻7

雨こゆる浅香の田螺ほり植ゑて 杜國

 『古今集』巻第十四、「陸奥のあさかの沼の花かつみかつ見る人に恋ひやわたらむ」、読み人知らず。また『著聞集』巻第十九、圓位上人、「かつみ葺く熊野詣のやどりをば菰くろめとぞ言ふべかりける」。『俊頼散木棄歌集』巻十、「中納言国信の坊城の堂にて人々長歌よませけるに向泉述懐といふことをよめる長歌(中略)、見る目にもはばからぬまの花かつみ、かつみるさまはまこもにて名をかへけるもうらやまし」。『無名抄』に、かつみはこものことを言うとある。

 とすればかつみは菰で、水こゆるに真菰をよんだ歌『金葉集』巻三、参議師頼、「五月雨に沼の岩垣水こえて真菰かるべき方も知られず」とある。これらの言葉を取りあわせ、「雨こゆる浅香の」とつくった。

 「雨こゆる」を雨肥ゆると解釈したものもあるがよくない、雨越ゆるである、水越えては水肥えてではない。浅香のかつみとは言わず、田螺としたのは俳諧である。ほりうゑては掘りて植えてである。『千載集』巻十一、大納言忠教「ほり植ゑし若木の梅にさく花は年も限らぬにほひなりけり」。一句の様子は、陸奥の門人などから贈られてきた浅香の沼の花がつみならぬ田螺など掘り植えてその声のさびしさを楽しむと戯れたものである。

 田螺は俳諧の二月の季題で、「田螺鳴く浅香の沼の月夜哉」という古句さえある。貞徳は俳諧の先達であり、蘆の丸屋も其の五園のひとつである。前句に浅香の田螺と付けたのは、貞徳風の古歌取りの俳意もあって面白い。千賀の塩釜を移したり、宮城野の萩を持ってきたりするのとは異なり、浅香の田螺とわびたところに、冨というのを面白くあしらっている。

2014年7月28日月曜日

道楽者の世界像――暮尾淳『宿借り』書評

 『鬣』第44号に掲載された。

 三道楽(どら)煩悩といえば、男の欲望が向かう三つの対象、酒、女、博打のことを指す。もともと、道楽というのは特にそうした欲望への耽溺を意味していたわけではなく、「其道ヲ学ビテ、耽リ楽シムコト。」、また、仏教においては、「道ヲ解シテ、自ラ楽シムコト。」(『大言海』)をいう。

 道楽と耽溺は似て非なるものである。酒飲みが、数々の失敗を経て自分の酒量、ペース、盃の上げ下ろしなどを会得していくように、耽溺を通過することのない道楽は信用できないが、欲望に溺れっぱなしでは道楽にはほど遠い。その結果、道楽者には、欲望を受け入れる雅量と、欲望一色で眼を血走らせることのない抑制が相まって、ある種のしなり、たわみが生まれる。そして、道楽がより玄妙さをますと、より印象的な言葉で極道と呼ばれることにもなる。極道は、法と欲望、一般常識と自分たち固有の原理のあいだの境界線を、まさしくたわみをもって引きなおすことで貫禄を示すのだ。

 暮尾氏とは数回お目にかかっただけで、日常生活のことなどはまったくあずかり知らないのだが、道楽者に特有の柔軟さと剛直さを感じ取ることができた。柔和で含羞の色を浮かべた笑顔を脆さと取り違えてはならない。いかにも強面の、触れなば斬らんと殺気だった者たちが所詮多少強く押されればポキリと折れてしまう弱さと裏腹なのに対し、柔和さは力を吸収し他へ逸らす強さと一体なのである。また、そうでなければ、秋山清、金子光晴、伊藤信吉といった一癖も二癖もある人物たちと長いつきあいをすることもできなかっただろう。


 俳句にはスタイルがあり得るのだろうか。散文や、あるいは少なくとも詩であるならば、その人物にしかない言いまわし、息づかい、つまりは身体性がでることもあるだろう。だが、息づかいを感じ取り、独特な言いまわしや考え方のパターンを盛り込むには俳句という詩型では短すぎることが多い。

 もちろん、伝記的な背景を知ったうえで、句境がよりまざまざと理解されることはあるだろうし、敗戦や震災などの大きな出来事については、共有するものが大きいだけ、独特の発想が見やすいということはあろう。しかし、俳句の主要な現場である日常においては、よほど特徴的な語彙やテーマがない限り、固有の人間性が句に刻み込まれることはないだろう。たとえ特徴的な語彙やテーマを開拓したとしても、多くの場合、それは単なる意匠にとどまるのである。

 江戸時代にまでさかのぼればまた別である。俳句は漢詩や和歌と同じように、ある種生活の記録であり、余沢でもあった。生活と無関係につくられるものではなく、生活の余剰から生じる贅沢なものだったので、俳人たるものは余剰を生みだすべく生活の充実にいそしまねばならなかった。

 暮尾氏の俳句に見られるのはこの贅沢さである。生活と別に俳句の、詩の、散文の場があるのではなく、生きることの余剰が自ずから句や詩の形をとっている。個々の句は、詩や散文と同様に、暮尾淳という人間の広がり全体の上に等級づけられることなく展開している。


 生きることの余裕が道楽への道を開くとすれば、暮尾氏の俳句もまた、道楽というにふさわしい。それだからというわけでもないだろうが、この句集には三道楽煩悩のうちの酒、女が頻繁に登場する。

 泥酔を知らぬ男と飲む葉月
 んの字は酔うほど虫に喰われたり
 連泊や欠伸くさめの茶碗酒
 いやどうもデンキブランを注ぐ老女
 花火散るやけどの海よジン五杯
 脳味噌の骨折ありけり梯子酒
 人見知りたそがれ酒場の顔と顔
 亡きひとの花梨酒飲みて屁を二つ
 二杯目のアブジンスキーで揺れは来て
 原爆忌ワンパイントのギネス飲む
 脳染める赤いワインのエロスかな
 冷酒や気づけば暗い海の際

 期せずしてというべきか、三道楽煩悩は三つの世界を形成し、互いに補完し合っている。そして、暮尾氏の句集は、道楽者の階梯を経巡っている。

 第一に、酒が現出するのは一人称の世界である。必ずしも文法的な人称に限定されるわけではなく、一なるもの、二なるもの、それ以外の三なるものと言い換えた方がいいかもしれない。
一人称とはいえ、もちろん、酒はひとを集め、この上なく楽しい時間を与えもすれば、陰惨な修羅場にもなるのだが、あくまでそれは人間関係が生みだすものであり、酒にとっては本質的なものではない。

 酩酊を繰り返し描いた吉田健一の酒宴が、一を聞けば十を知る参加者ばかりのユートピアであったことを思い返してもよい。そこで繰り広げられるのは対立者のいない一種の独白であり、酒という一人称の世界は、行くとして可ならざるはないかのように、広がっていく。

 詩作でのように、過去と現在、こことあそこが野放図に通底することはないが、この句集でも酒はここにはないものを招き寄せる。酒がなければ、「やけどの海」や「暗い海の際」出会うこともなかっただろうし、「脳味噌の骨折」や脳をエロスに染めることはなかったに違いない。また、「茶碗酒」、「デンキブラン」、「ジン」、「アブジンスキー」、「ギネス」、「赤いワイン」「冷酒」といった酒の種類が、それぞれの連想を伴っており、ある種人格に相当するものを有しているため、ともすれば、句中の人物がこれらの酒を飲んでいるのか、酒がこれらの人物を寸借しているに過ぎないのかわからなくなるのだ。

 しかしながら、ボードレールによれば、大麻はもともとそれを服用する人間がもっている感覚や思考を拡大強化しても、その人物がもっていない啓示、幻覚、夢などをもたらすことはないという。あくまでも拡大鏡であって魔法の鏡ではないのである。酒も同じであろう。時間や場所のなかをどれだけ自由に遊弋できたとしても、それがまったく新たな経験をもたらしてくれるわけではない。確かに、酒は思わぬ出来事を招き寄せるが、出来事を意味あるものとして受け止めるのは本来あった感受能力であり、酒の力ではないのだ。そこで酒の及ばない世界として女が登場する。


 女が現出するのは二人称の世界である。

  霧の街ダミアを歌う女あり
  星溶かす海を泳ぐと言う女
  大女ふと立ち上がる夏波止場
  春雷や青い女とキャベツ食う
  あばずれのはなうた恋しおんな坂
  桜より本卦を待つと言う女
  日和山おんなと見ている凪の海
  蚊を打ちて何事もなしいろおんな
  雪見酒ふきのとう味噌いろおんな
  いろおんな楕円の球がその胸へ
  生あくび朝餉の女のほつれ髪
  機背負い残暑の街を行く女

 酒の場合であれば、欠伸くしゃみから屁、脳の骨折まで飲めばてきめんに効果があらわれた。そして、そのように卑俗な事柄に帰着させるというのは、暮尾氏の句の大きな特徴のひとつとなっている。

 ところが、暮尾氏の女はそうした卑俗化を免れることのできる存在である。叙情的で、艶歌のしたたるような艶っぽさがこの世界の特徴である。女は不和や齟齬によって傷つけあったり、本心を忖度して駆け引きをする相手ではなく、叙情的な世界に否応なく引きずり込む不壊の存在なのである。


 三道楽煩悩のうちで、酒や女のように『宿借り』にはっきりした姿をあらわさないのが賭博であるが、もともと賭博が作物の出来や、天候、吉凶などを占う宗教的儀式であったことを思うと、賭博とは世界を幻視する力のことであり、この句集の大きな要素を形づくっていることがわかる。そもそも道楽が道を楽しむことである以上、酒、女、賭博にはそれぞれの世界があり、道楽者とは言い方を変えれば、世界を構成できる者のことである。

 落語を見てみるといい。道楽とは『よかちょろ』のように、無意味な遊びを捻りだす、あるいは『二階ぞめき』のように、自宅の二階に吉原を立ちあげることのできる構想力と切り離せないものなのだ。

  稲妻と夜の稜線媾合す
  蓑虫や地球の林傾きぬ
  蜘蛛の糸地球のへりを吹かれ行く
  台風のよがる夜空のあばれ川
  マンホール逢魔が時の水の音
  蟻の目に涙見ているあのねのね
  レバ刺しや死んだ男を招く猫
  大雷雨大充電の夜の薔薇
  奈良漬や巨艦は冥い海の底
  満月やいまもむかしの赤いみち
   夏空やトンネルのなかの県境
   居酒屋の卓の下から犬がワン

 賭博とは、また、未来というまったく未知の世界に賭けることでもある。ヒュームを持ちだすまでもなく、この世界が一瞬ののちにもいまと同じ条件で存在している根拠は何一つない。その意味で、賭とは別の世界へよしみを通じることなのである。犬や猫といった、おそらくは我々とは別の世界に生きているに違いない小動物たちがしばしば姿をあらわすのも驚くにはあたらないだろう。


 『宿借り』という題は象徴的である。この世を仮の宿と見なす暮尾氏は、異世界へよしみを通じるばかりではなく、そこに身を投じ、読者にその手触りを感じさせてくれるようにも思われるからである。もはやそこには人称も三道楽煩悩もなく、不気味でもあれば切なくもあり、薄気味悪くもあればノスタルジックでもある定かならぬものが、生々しい脈動でわだかまっていることだけが察せられる。そうした絶唱三句をあげるとすると、すなわち、

  冬の空冬のニヒルが降りてくる
  どうすべえぼつぼつぼちらさようなら
  連れ立ちてなんじゃもんじゃを探しけり

2014年7月27日日曜日

ブラッドリー『論理学』54

 §28.我々は知覚にあらわれる実在を指し示すことによって観念や単なる普遍から逃れる。かくして、我々の主張が唯一無比に達しない限りそれは事実とは対応しない。かくして、分析判断は我々にとって確実なものとなったように思える。しかし、§19で尋ねた問題に立ち返り、総合的判断に向かい、直接的な現前の範囲に収まらない空間と時間を扱うと、一見するところ我々はうまくいかないように思える。我々が得たものは、それを越えたあらゆるものを代償にしたものだったことがいまや明らかになる。我々の空間と時間のあらゆる系列は実在と接する唯一つの点を参照しなければならないことになろう。この点においてだけ、時空間の内容は事実のしるしを受けとることができる。しかし、この関係を確立することは不可能であるように思える。

 我々が知るこうした総合的な主張の内容は普遍的なものである。それは他の無数の系列において真実であろう。この非実体的なつながりは、それだけでは、どの点においても現実に接することはない。他方、実在の源泉である与えられたものは、こうした支えるもののない連続には一切関わりを持たないように思える。そのシンボル的内容は、現前の内容と両立し難いために、直接に現前に当てることはできない。そして、もし我々がもう一つの現前をもつことができないなら、普遍が実在に達することができるような事実はどこに存在するのだろうか。

2014年7月26日土曜日

幸田露伴『評釈冬の日』初雪の巻6

桃花を手折る貞徳の富 正平

 松永貞徳は洛外に五つの庭園をもっていた。梅園、桃園、芍薬園、柿園、蘆の丸屋である。句の意味は解釈するまでもなく明らかである。前句とのかかりは、前句の悠々自適の様子に応じたまでのことである。貞徳は長頭丸といわれていたので、麿につけたというのは面白くない解であるが、『冬の日』のころはいまだ少しはそうした古風な付け方もあったか。また、羯鼓を玄宗が演奏したときに、桃や杏の花が咲いたという故事によって、「桃花を手折る」とつけたというのは無駄な部分が多い説である。前句の月を、この句からは春の月としてつくっている。

2014年7月25日金曜日

逃げ込む場所は底抜けの甕――俳句

 『鬣』第44号に掲載された。

青空の藍より青い青が消え

海棠や時の泡なる小さな死

天円の裏に女人結界の洞(うろ)

きぬぎぬに嘉例の瓜がとつぶやきて

朱の鳥居体育座りでいる女

刀創は古今伝授の切り取り線

独身者の機械 真夏の夜の喫水線

干し海鼠邪色邪声を身に浴びて

2014年7月24日木曜日

ブラッドリー『論理学』53

 §27.もし「これ」が異なった意味で使われ、焦点が当たっていて感覚される細部全体の現前をあらわすものでなく、私が特に注意を向けているものについて用いられるのだとしても、結論は同じであろう。もし私がAを他のすべてを排除する私の対象とするなら、この対象と私との特殊な関係は他のものを使用した時点で間違ったものとなるに違いない。Aに適用されてるものが、Bにもまた当てはまることはあり得ないのである。

 「しかし」、と言うものがあるかもしれない、「私は両者をそれぞれ別のものとして注意を向けている。AとBは両方とも所与の『これ』の内部における要素であり、それゆえ私はどちらについても『これ』と言うことができる。一方で真である観念を移し替え、他方においても真である述語としてそれを用いることができる。結局、『これ』という観念はシンボル的に使用されるだろう」と。私は、主要な問題を細かい詮議立てのなかで見失ってしまうことを恐れるが、ある混乱があることを指摘しなければならない。AとBが一緒にされているのだから、それらを排他的にそれぞれ別々に扱うことはできない。それは明らかである。他方、それぞれを「これ」における要素ととるなら、「これ」をそのどちらについても言うことはできない。両者とも「これ」に属してはいるのだろうが、どちらもそれが属しているものではない。両者とも現前はするが、どちらもそれ自体で唯一無比の現前であることはなかろう。両者は「これ」を共通にもっているのではなく、「これ」が両者をもっているのである。それは排他的な性質を分け与える共通の本質ではない。

 これ以上複雑な事情に踏み込んでも、明らかにすることのできないものをより明確にできるとは考えられない。上述したことのなにがしかが読者に理解されたなら、判断におけるシンボルとしての「これ」の使用は不可能なばかりでなく、もしそれが存在したとしても、完全に無価値なものであることを示すことができただろうと思う。

2014年7月23日水曜日

幸田露伴『評釈冬の日』初雪の巻5

麿が月袖に羯鼓を鳴らすらむ  重五

 「麿が月」、麿を所有格として解釈してはならない。深川夜遊の「唐辛子の巻」に、「伏見あたりの古手屋の月」という芭蕉の句があるが、古手屋が月の主ではなく、古手屋のあるところの空に月がかかっているのである。ここも、何麿などという人がいて、そこに月がある。『炭俵』の「秋の空の巻」、其角の句に「顔にもの着てうたゝねの月」とあるのも、月がうたた寝をするというように解釈しては理解できないものになる。うたた寝する人の上に月が照っているのである。詩でも、温庭筠は「鶏声茅店月」といい、楊萬里は「老別魚竿月」といい、陶弼は「照枕残雞月」とさえいった。残雞の月は特に面白い。詩歌には言葉が窮屈になっても情の豊かさを尊ぶことが常である。麿が月を訝しく思うことはない、こうした語法はあるものである。

 鞨鼓は戎である鞨からでたものなので鞨鼓という、亀茲、高昌、疎勒、天竺の各地方で用いられている。その胴体部は漆桶のようで、桑の木をもってつくり、我が国では槻でつくる。下に小牙床というものがあって支え、二つの杖でこれを撃つ。杖は黄檀、狗の骨、花楸などの木を用い、まげものは精錬した銅鉄でつくる。その音はものを煎るかのように激しく、一般的な音楽とは異なる。

 唐の玄宗、音楽に精通し、もっとも鞨鼓を愛して、それ以外の指導者はなくともいいとまで言った。我が国でも三鼓の第一とし、括弧を撃つものは音楽の指揮者である。唐のときに盛んに行われ、宋環、杜鴻漸、韓桌のような貴人もこれを演奏し、汝南王は非常にうまかったので、人間ではないと言われたことさえあることが伝えられている。我が国の音楽は唐の影響が非常に強く、鞨鼓も伝えられて、宝亀年間の壬生駅麿、天永年間の中臣為行など鞨鼓が上手であったことが知られており、楽器と技がいまになっても残っている。

 唐の南卓の『鞨鼓禄』によれば、「鞨鼓は高い屋敷で、晩景、清い風が吹いているときによく、空を突き抜けて遠くまで音が通る」とある。また、宰相、杜鴻漸の嘉陵山の山水景致があるのに対し、月の色がよいので、駅楼にのぼり、川に映る月を賞して、鞨鼓をとって数曲演奏すると、あたりの猿や鳥がみなそれに感じ入り驚いて、盛んに鳴き声が起こったことを記している。鞨鼓と月とがふさわしいのがよくわかろう。

 さて、「袖に鞨鼓をならすらむ」は、袖のなか、または袖の上で鞨鼓をならすのかといえば、そんなことがあるわけはない。鞨鼓は小牙床という置き場所があり、それを二本の杖で撃つものだからである。牙は少々突出するものをいい、いまの能楽で使う大鼓を受ける台を見て、推察すればいい。鞨鼓とその台の図は『集古十種』に見られる。月見がてら鞨鼓を打ちながら逍遙することなどと、曲齋がいうのはまったく異なっている。道を行く車に小牙床を据えて鞨鼓を受けさせ、それを二本の杖で撃つとでもいうのだろうか。鼓には、腰鼓、都曇鼓、答臘鼓、鶏婁鼓などがある。腰鼓は漢の第三鼓で、手で拍つ。都曇鼓はインドの由来で、腰鼓に似ていて小さく、小さな槌で撃つ。答臘鼓は鞨鼓に似ているが短く、指で擦るので、?鼓ともいう。鶏婁鼓は形が円形で、撃つべき平らなところが数寸だという。腰鼓、答臘鼓などは逍遙する車で演奏することもできようが、鞨鼓はできない。

 曲齋が、袖というのは両手のことだというのは、ただ自説の窮したところをあらわしているだけである、鞨鼓をどうして手で鳴らすことがあろうか。曲齋はこの句と前句とのかかりを解釈して、鶉を聴きに出て帰るとき、仲の悪い人が月見がてら鞨鼓を打ちながら逍遙する様子を見て、行き会っては興が冷めると思い、もっと先までいって鶉を聴こうと道を変えて帰るさまだという。前句とのかかりはともかく、一句の解がおぼつかなく無理がある。そこで前句を「車ひきゆく」と改め、この句を「鞨鼓ならすなり」と改めようとしている。句を改竄してまで解釈を主張するのは、恣意的に過ぎるといえよう。

 何丸は漠然とある本の説をあげ、安部仲麿を明州に送るとき、その頃の詩人がはなむけとして鞨鼓を鳴らしたのだという。中麿の送迎の宴としては、一句の解としてはともかく、前句とのかかりになんら接点がない。前句の風情が、三笠山あたりの景色を思わせるものがあれば通じないこともないが、いかんせんそうは受け取れない。また、「あをうなばらふりさけ見れば」の仲麿の歌は明洲でのことだが、仲麿と交際のあった詩人たちがはるばる明洲まで送ることもありそうにない。仲麿と交際のあった王維、包佶、趙驊、儲光義、李白など、それぞれに送る詩はあるがみな洛中でのことである。王維が仲麿が日本に帰るのを送る詩の序は、その文集の第二巻にあり、仲麿が玄宗の優遇を受け、儀王の友とされ、秘書監を授けられたにもかかわらず帰国しようとするところを「立派な人格がすでにあらわれていたが帰ることを思い、関羽は恩を報いてしかも最後には去った」という二句で、遙か後代のものまで心地よいものにするが、その文中にも詩集にある詩のなかにもこの連句と関係がありそうなものはない。強いていえば、仲麿を厚遇した玄宗は鞨鼓を非常に愛したということくらいである。だとすれば、この句を仲麿の面影とする解釈は通じない。鶉を聴こうとすることと安倍仲麿となんの関係があろうか。何丸の解も人を納得させるものではない。

  思うに、ここにある羯鼓はわが国の王朝時代や唐で使われた羯鼓ではなく、より時代が下がって、足利時代のころに羯鼓といわれたものを指すのだろう。同じく琵琶といっても、上代の楽琵琶、中世の平家琵琶、いまの世で使われている琵琶、その名は同じだが実物は異なる。本当の羯鼓として解釈しようとすると、ここの羯鼓は理解できない。足利のころに羯鼓といわれたのは「やつばち」といって、本当の羯鼓よりは小さく床を用いず、紐で襟に吊りかけるのは、搏拊という楽器のようで、二本の杖でこれを撃つ。形状や音響は羯鼓に似ているが、音楽の中心などではなく、玩具に近く、少年や遊び人などが手すさみにする。

 それゆえ謡曲の『藤栄』『花月』『自然居士』『東岸居士』『望月』、狂言の『鍋八撥』などに見えて、これを使うのは少年か道人である。ことに東山の雲居寺とこの羯鼓はどんな由縁があるのか知らないが、自然居士も東岸居士も花月もみな雲居寺にいるものである。『望月』の花若は少年であり、花月も老いてはおらず、藤栄は壮年の大名なので、一般には八撥を打つことはないが、わざと点出している。西武の『鷹筑波集』に「十六になる袖のやさしさ」「八撥を二度まで撃てる子供達」。また同書に「八撥を撃ちて踊れや十六夜」。これらの俳句を見て、徳川初期になお八撥を打つことが行なわれ、しかも少年などの手すさみであることがわかる。

 演劇では、『道成寺』に鞨鼓を打ちながら踊る場面がある。「打ちて踊れや」の句も誇張だけではない。八撥を打つには、首にかけて胸のあたりにあるものを二つの杖で打つので、肘は後ろに回り、手首は袖のなかにあるようになるから、「十六になる袖のやさしさ」という句に、その年頃をかけて、八撥を打つことをつけた。馬に乗るにはこうした手つきになるのが嫌われて、古い乗馬術の本には、手綱を長く取って、肘の後ろに回るのをやつばち手綱といって悪いこととしている。

 「袖に鞨鼓をならすらむ」は、鞨鼓を打つひとが自然にとる姿勢と、その年頃がまだ若く、袖長くやさしいこととを思えば、なんということなく解釈される。麿はただ若い人というだけのことで、つまり鞨鼓を打つひとである。「鳴らすらん」の「らん」は「也」ではなく、推量の意味である。秋風が寒い夕べ、鶉が鳴かないかと車を引いていく野の尾花の末に月が出て、空が明らかになると、ああ麿が月夜に、袖に鞨鼓を鳴らしているようだ、ということである。月は眼前の景色、鳴らすらむは月についての情である。

 あるいはこの句を、月が明るむにつれて車上の人が子供、または甥、従兄弟、侍童などを思いやると解するものもあるが、そこまで深入りして解するのはいかがなものか。前人の多くは麿という称、鞨鼓に心をとられて、非常に古い時代のこととして解したために、中垣ある左右の朝臣のことだといったり、安倍仲麿の面影などといった。属の鞨鼓はつまりはやつばちで、貞徳西武の頃は足利時代から引き続いてなお少年だちの手すさみであったことに思い当たらなかった誤りである。伊勢貞丈がやつばちを鞨鼓と気づかないで、八がら鉦だとしているのはいうにたらぬ誤謬である。

2014年7月22日火曜日

ド・クインシーのこと2――ノート17

『鬣』第44号に掲載された。

 姉のエリザベスが脳水腫で死んだのは、ド・クインシーが六歳になるかならないころで、二人の関係は豊富なエピソードに彩られたものとは言えなかった。なぜかくも姉を愛し、成人してからも彼女への思いにとらわれつづけたのか、「わが姉上よ、貴女が白痴であったとしても、貴女を愛する私の気持ちに変わりはなかったに違いない――そのおおどかな心は、私の心もろ共に、優しさに満ち溢れ、そのおおどかな心は、私の心もろ共に、愛されずんば已まずという必要に駆られていたのだった。」(『深き淵よりの嘆息』野島秀勝訳)というしかないものだった。

 しかし、こうした具体的な内容の乏しさは、弱点であるどころか、ある種の形而上学的感覚を引き起こす強大なうねりを呼び込むものである。死の翌日、「彼女の美しい神殿の如き頭脳が人間の穿鑿によって陵辱されぬ内に」もういちどその姿を見ておこうとド・クインシーは姉の寝室に忍び込む。

    豪奢な陽光に背を向けて、私は遺体に対面した。そこには可愛らしい子供の姿が横たわり、天使のような顔があった。普通、人々が空想するように、わが家でも、姉の死顔は生前と少しも変っていないと言われていた。少しも変っていなかったろうか? 確かに額は、穏やかに澄んだ額は、それは元のままだったろう。しかし、凍てついた目蓋、その下から沁み出て来ると思われる暗さ、大理石のような唇、あたかも苦悶を終わらせ給えと嘆願を繰り返しているかのように合掌している硬張った手、これらは生きていると見紛うことなど出来ただろうか? 出来たなら、どうして私はその神々しい唇に飛びつき、涙ながらに果てしない接吻を続けなかったのか。だが、見紛うべくもなかったのだ。私は一瞬、金縛りになって立ち竦んだ。恐怖ではない、畏怖が私を襲ったのだった。立ち竦んでいると、一陣の厳かな風が吹き始めた――これほど悲しみに満ちた風の音を聞いたことはなかった。悲しみに満ちた! いや、それでは何も言ったことにならぬ。それは百世紀の永きにわたって、人間の生死の原を吹き通って来た風であった。以来何度も、陽光が一番熱い頃合いの夏の日盛りに、私はそれと全く同じ風が立ち、それと全く同じ空ろで、厳粛な、メムノンの声のようでいて、しかも神々しい音を響かせるのを確かと耳にした。それこそ、此の世で耳にし得る唯一の永遠の象徴なのだ。(同前)

 メムノンは、曙の女神エオスとトロイアの王子ティトナスのあいだの子であるエチオピアの王で、トロイア戦争に参加し、アキレウスに討ち取られた。メムノンの死は空や音に関わる伝承と結びついている。ある説によると、エオスは息子に不死と栄誉を授けてほしいとゼウスに懇願した。ゼウスは火葬壇の余燼や煙のなかからメムノニスという幻の雌鳥たちをつくり、鳥たちは二群に分かれ、戦いあって彼の遺骨の上に落ち、葬礼の生け贄になったという。また、これらの鳥たちはメムノンの女友達で、その死を身も世もあらぬほど悲しんだので、哀れに思った神々が鳥に変えたのだともいう(ロバート・グレーヴス『ギリシア神話』)。もっとも有名なのは、エジプトのテーベ近くにあったメムノンの巨像で(実際には、アメンヘテプ三世の座像であったという)、朝日に当たると内部の空気が暖め膨張させられ、喉から弦の切れたような音を発した。それは母親である曙の女神への挨拶だとされた。

 もっとも、旅行者に人気があったこの像が、二世紀末ここを訪れたローマ皇帝、セプティミウス・セウェルスの命令によって修復の手を加えられると、音を発しなくなったのと同じように、異教の神々では永遠の悲しみを教えるにはいまだ力弱く、真の永遠を伝えるのはキリスト教であるようだ。

 姉の葬式で祈りに唱えられた三箇所のくだりは永遠の無慈悲さと優しさを示すものとして幼いド・クインシーの記憶にしっかりと刻みつけられた。

 「全能なる神、その大いなる御慈悲に依りて、此処に身罷りし吾らが妹の霊を引き受け給いしならば、永遠の生命への復活を確と希いて、いざ亡骸を土から土へ、灰から灰へ、塵から塵へと、地に帰さん」

 この一節は、天から吹き鳴らされる『黙示録』の喇叭のように、畏怖すべきものであるが、突き放す無慈悲さもあらわしているように感じられる。それに続くくだりは、ことのほか子供のド・クインシーを怒らせたものだった。

 「主にありて此処より身罷る人々の霊、主と共にありて生き、信心篤き人々の魂、肉の重荷を解かれし後、主と共にありて至福の喜びに浸る、全能の神よ。我らは御身に心からの感謝を捧げん、我らが此の妹を罪深き此の世の悲惨より救い給いしなればなり。請い願い奉る、御身の恵み深き善に依りて、直ちに御身の選びの民の数を全うし、御身の王国を疾く来たらせ給わんことを」

 同じ感情をもっているはずの人間が、しかも聖職者を自称して、姉を連れ去ったことを神に感謝しろという。姉とともあった楽園が失われたことが神の慈悲であるとは。

 だが、葬式を締めくくる祈りは心慰めるものだった。というのも、そこには「悲しみに身を屈する優しさ」があったからだ。

 「嗚呼、慈悲深き神よ! 復活にして生命なる、信じる者なべて、死すとも、その内にありて生きん、われらが主、耶蘇基督の父よ。耶蘇はまた、聖なる使徒パウロに依りて、望みなき人間たるわれらに、彼にありて眠る者を悲しむこと勿れと教え給う。嗚呼、父よ! われら伏して願い奉る、罪の死より正義の生命へとわれらを甦らせ給え。われら此の世の生命を去る時、彼にありて憩わしめ給え――此のわれらが妹のかくあらんと望むが故に。」

 永遠の悲しみ、悲しみの深淵は、にもかかわらずそこには望みがあるとされることによって、沈み込むばかりの静的なものから流動的なものとなり、出口のある迷宮と化する。

    自分には望みはないと、如何に人が考えようと、あの時以来、私は数々の悲しみの大いなる深淵の壁に記された文字を読み、そしてそれら悲しみの影も一層深い深淵、原初の恐怖と最古の闇の深淵から立ち現われる一層強大な悲しみの影によってその出過ぎを窘められるのを見て来たが、にもかかわらず、その一層深い深淵の底でも、必ずしもすべての望みが絶対的に死に絶えたとは信じていない。自分には望みはないと考える人は、まことに無理からぬことではあるが、やはり、間違っていると、私は了解している。苦しみの塵の中で転げ廻る私やその他大勢の人々が、しかし一瞬でも、かの予言者の骨に触れるや生命の栄光に甦り、すっくと起ち上がったあの干乾びた死体のように、突如、立ち上がることが出来るものなら、子供の私の耳が聴いたあの合唱隊の歌う壮大な聖歌の中で、神の御声が音楽の雲に包まれ――「悲しむ子よ、さあ起ち上がって、暫しの間、わが天の天へと昇るがよい」とお告げくださるものなら――その時は、あの闇の苦悩、絶望がそのような悲しみに不可欠のものではなく、まさに光がわれらの騒然たる此の地上を照らしてはまた消えて行くごとく、来たってはまた去って行くものに過ぎないのは、明々白々なことであった。(同前)

 「起ち上がったあの干涸らびた死体」とは、イスラエルの予言者エリシャに関するエピソード、『列王記下』13.20~21「エリシャは死んで葬られた。その後、モアブの部隊が毎年この地に侵入して来た。人々がある人を葬ろうとしていたとき、その部隊を見たので、彼をエリシャの墓に投げ込んで立ち去った。その人はエリシャの骨に触れると生き返り、自分の足で立ち上がった。」に基づいている。

 深淵は、もちろん、人間の卑小さを示すものでもあるが、同時に、深淵に耐え、深淵から飛翔する人間の可能性をあらわしてもいる。それゆえ、「悲しみは沈んだかと思えば、再び、熱情に溢れた人々の心に縷々見受けられるように、天の天へと昇って行こう。だが、悲しみはあまりにもそれ自らの孤独に委ねられれば――遂には再び上昇すること叶わぬ深淵へ、もはや病とも見えぬ病へ、まさにその甘美さ故に心が錯乱し、健康そのものと錯覚してしまうような憔悴へと沈んで行くのは、必然である。」などと書いてはいても、ド・クインシーはキルケゴールが『不安の概念』や『死にいたる病』で試みたように、不安や絶望を人間の実存的な様態をあらわすものとして分析するような振るまいとは無縁だった。不安といい絶望といっても、深淵を飛翔する者が垣間見る一局面に過ぎないからだ。

 言い方を変えると、それは常にユーモラスな視点を失わないということである。エリザベスの死についてもそのことは変わらない。エリザベスの聡明さは子供の眼にも明らかであって、その早熟さを証立てるように頭部は見事に発達していた。「その秀でた額には早熟の知的壮麗さの印として、光の宝冠か煌めく光冠が載っていると私は今も空想する」と書く一方で、ド・クインシーはその脚注で次のように書きとめている。

    姉の主治医はコンドルセやダランベールなどと文通していた著名な文学痛の内科医パーシヴァル博士と、卓越した外科医チャールズ・ホワイト氏であった。姉の頭部がその構造と発達の度合いにおいて、今までに見た何人のものよりも最高に見事なものだと言い切ったのは、ホワイト氏であった――この断言を氏は、私自身耳にした憶えがあるが、後年に至っても熱っぽい調子で繰り返したものだ。氏がこの種の問題にかなり精通していたことは、彼が色々な種類の人類から選択し来たった頭部を様々に測定した実証に基づく、人間頭蓋の研究書を物し出版したことからも推定し得るだろう。ところで、虚栄と見えかねない事が、たとえ僅かでも、この記録に忍び込むのを忌み嫌うが故に、姉は脳水腫で死んだと、私は率直に認めよう。この種の病気の場合、知性の早熟な伸展は全く病的であって――実際、それは病いの単なる刺戟が強いたものに過ぎないと、今まで屢々考えられて来た。しかしながら、この病気と知的な様々な現われとの間にはまさに逆順序の関係も、一つの可能性としてあり得るのではないかと、私は言いたい。必ずしも常に、この病気が知性の異常な成長を惹き起こすとは限らず、逆に知性の成長が自ずから生じて頭部の肉体的構造の収容能力を越え、それで病気が発したのかも知れないのである。 (同前)

 だが、絶望をめぐるこうした省察を読んでいると、ある種の疑問も生じる。不安や絶望が人間の痼疾ではないように、「私がかくも繁々、宗教的感情、観念、儀式に言及するのも他ではない、多くの点で、深遠な宗教と混交しないような深遠な悲嘆も深遠な哲学も、未だかつて存在した例はないからである。」というド・クインシーにとって、キリスト教は信仰帰依の対象ではなく、比較的重要度の高い深遠な哲学のひとつでしかなかったのではないだろうか。

2014年7月21日月曜日

ブラッドリー『論理学』52

 §26.繰り返すと、実在の現前は唯一無比なものである。識別によって我々はその唯一無比を観念の形に固着することができる。我々はその観念を別のものについての観念にもしようとしている。しかし、別のものについて真である観念では、そのなにか別のものが現前し唯一無比でなければならない。我々は二つの唯一無比な現前をもつか、一方が消え去るかしなければならない。もし最初のものが消え去れば、観念も一緒に消え去る。第二のものが消え去れば、観念が指し示すべき事実が存在しないことになってしまう。どちらの場合でも、判断は存在することができない。観念は、それ自身の実在以外の場所で真の観念となることはない。もし我々がそれでも判断するなら、それはそれ自身以外のなにも意味することのできない記号となる。最も孤独であるときに最も孤独でなく、孤立をともに楽しんでいる、というのは文章としては味わい深い。しかし、文字通りの意味をとれば、我々の目の前にある矛盾を例証するものであろう。

 事実と判断における「これ」の観念の間には、実際的な相違は存在し得ない。これという観念は、そのしるしづけるものが実際に現前していないなら、間違った使われ方をしているのだろう。しかし、そうした場合、意味される事実が目の前にあるなら、我々は記号を使おうとするだろう。我々は目の前にある事実が「この」事実であると認める限りにおいてその観念を用いることができる。しかし、そうした用法は所与を越えでることはない。主語について、主語が消え去ってしまった述語を当てはめる。それには事実の内部における識別が働いており、識別されたものは所与から切り離すことはできないので、所与と識別されたものは主語のまま残っている。それゆえ、観念の付加は主語になにもつけ加えはしない。別の事実の内容から観念を移し替えることができるとしても、その働きは不必要でまったく無効なものだろう。

 そしてそれは可能でもない。既に見たように、それは唯一無比の事実を二ついっぺんに目の前に置こうとする試みである。我々が「これ」で意味しているのはその内容を照らしだす現前の排他的な側面で、この特異な内容について我々は観念を用いる。この観念をどこであっても真でありうる意味として扱うことは我々の目を別な内容に移すこととなろう。両者が同一であるとともに唯一無比でなければならないことから生じるジレンマについては詳述する必要はない。

2014年7月20日日曜日

小判を生む闇――井原西鶴


『西鶴諸国はなし』の一篇、「大晦日はあはぬ算用」は『一代男』『一代女』『五人女』などに続いて西鶴の諸作のなかでもっとも知られているものと言えるかもしれない。浪人の原田内助は薪や油に事欠くほどの貧乏暮らしで、大晦日の支払いも乗りこえられそうにない。そこで、たびたびなので忸怩たるところではあるが、医者をしている女房の兄に無心をする。先方も見捨てがたく思ったのか、十両に「貧病の妙薬、金用丸、よろづによし」と上書きをして貸してくれた。これで年が迎えられると喜んだ内助は、自分の幸運を少しでも分けようと、酒の用意をし、仲間の同じく貧しい浪人たち七人を誘った。酒の席で、上書きともども金をあやかりものだと一同にまわした。ところがしまう段になると一枚足りない。事を荒立てまいとした内助は、支払いをしたのを忘れていたと取りなすのだが、たしかに十枚あった、銘々身の証しを立てるべきだと着物を脱ぎはじめる者もある。やがてひとりの男が、因果なことに自分はここに一両もっている、たしかにこの一両は昨日小柄を売ってこしらえたものだが、証拠があるわけでもない、と腹を切ろうとする。そのとき、丸行灯の影から、ここにあった、と小判が投げだされた。だが、そのすぐあと、奥にいた内助の女房が小判がありました、重箱の蓋に煮物の汁でくっついていました、といってきた。

十枚の小判が九枚になり、十一枚になったわけである。余分な一両を自分のものだと言いだす者はいない。そこで内助は、一升枡のなかに小判を入れて、お帰りの際持ち帰ってください、とひとりずつ送りだした。あとでみると、一両はなくなっていた。

この一篇が西鶴のなかでも知られたものだと思われるのは、幾度か翻案されているからである。たとえば、真山青果の戯曲『小判拾壹両』がある。もっとも大きな相違は、原作では漠としているが、ここでは綱吉の時代のこととされていること、また、内助の浪人仲間の息子、杢之助が武家の徹底的な批判者としてあらわれることである。彼は生類憐れみの令に乗じて、犬小屋を建てて儲けようとしている。「侍だとて、もの食ふ口を持つ上は、先祖の手柄を茶話にして寝てゐて食はれる筈はないのだ。それとも高慢云ひたければ、先づ減らない腹を用意してござれ。当時の武士はあらかた知行泥棒だ。」と言い放って内助にも金儲けの協力を迫るのである。そしてこの杢之助が、一両も持ち帰ってしまうのだ。

また、太宰治が『新釈諸国噺』の冒頭の一篇、「貧の意地」でこの作の翻案をしている。この一篇は内助の性格造形に趣向が凝らされており、九両が十一両になるや、余った一両だけでなく、十両のほうも持ち帰ってくださいと言いだすような男なのだ。「気の弱い男というものは、少しでも自分の得になる事に於いては、極度に恐縮し汗を流してまごつくものだが、自分の損になる場合は、人が変ったように偉そうな理屈を並べ、いよいよ自分に損が来るように努力し、人の言は一切容れず、ただ、ひたすら屁理屈を並べてねばるものである。極度に凹むと、裏のほうがふくれて来る。つまり、あの自尊心の倒錯である。」といかにも太宰的な人物が描かれている。しかしながら、両者の趣向は、まさしくその趣向において原作のおもむきを損っているように思われる。

というのも、西鶴の一篇のなんともいえぬ妙味は、武士に対する批判も内助の性格の特異性も窺われないところにあるからだ。真山青果全集の解題で綿谷雪は杢之助の武士批判を「正に杢之助の口を借りてする西鶴自身の説破にほかならない」と書いているが、そんなに単純なものだとは到底信じられない。武士という奇妙な人種の生態を冷静に見守る西鶴の眼が感じられるだけであって、そこには批判も憧憬もまったく感じられない。

そもそも西鶴の一篇では、仲間の浪人たちの描きわけなどはまったくされていない。したがって、もちろん、誰が一両を暗闇から投げだしたかの手がかりなどはまったくなく、一両は個人がどうこうであるより武士という階級、生存のあり方から生みだされたものと感じられることになる。それは成文化された倫理でもないので、闇のなかから投げだされるよりほかない。なにとも知れぬ闇から小判が生まれるという妙な事態にこそ西鶴の感受性は反応したのであり、それは各国の綺譚や怪異を記す諸国噺という形式にもかなっている。

2014年7月19日土曜日

幸田露伴『評釈冬の日』初雪の巻4

鶉ふけれと車引きけり  荷兮

 鶉の啼くのをふけるという。細川幽齋に、いい鶉の値を問うと五十両だといわれたので「立寄りて聞けば鶉のねも高しさても欲にはふけるもの哉」という狂歌がある。ふけるの語の意味、これによって知るべきである。車引きけりは、搢紳公家などが牛舎をひくことである。

 一句の意味は、鶉を聞きに出かけた貴人の車が向かった先で、鶉啼けよ、と草深い郊外を御簾をかけた牛車がのどかにひかれるさまをいったものである。「と」の字の働きで、静かに注意深く車をひかせているのが明らかになっている。前句を都外れの野の景色と見なして、一転したのは、いつもの荷兮の劇的な趣向で、趣があるともいえる。

2014年7月18日金曜日

ブラッドリー『論理学』51

 §25.しかし、その類似性にもかかわらず、それは通常の観念とは非常に異なっている。思いだしてもらいたいが、観念はシンボルとして使用される(第一章)。「馬」という観念には(i)私の頭のなかのイメージの存在、(ii)その全内容物、(iii)その意味がある。別の言葉で言えば、我々は常に(i)それがあるということ、(ii)それがなんであるか、(iii)それがなにを意味するか、を区別している。最初の二点は事実に関わっている。三番目のものは事実には属さない普遍的なものであり、存在との関わりなしに考えられ、実際の判断では他の主語に差し向けられることもある。

 「これ」という観念は顕著な相違点をもっている。現前する実在として区別し、与えられたものの知覚や感じ、そこにおける現前に注意を向けることが我々の語の意味として認められる。現実に目の前にあるものの内容には一切目を向けずに、それを観念的に熟視するのである。

 しかし、判断をしようとするとき、別の存在から切り取った形容をどうやって当てはめられようか。ここにおいて我々は行く手を阻まれる。というのも、そうしてつくられた判断はどんなものでも間違っているに違いなからである。他の事実は、それがあること自体で与えられたものを変えることなしに現前することはあり得ない。それは与えられたものをより広い現前の一要素に格下げするか、存在から完全に与えられたものを取り去ってしまう。所与は消え去り、それは観念も持っていってしまう。我々はもはや観念をもっていないので観念を叙述することはできないか、あるいは、まだもっているなら、それを支えているものが、我々が示したいと思っている他の事実を排除することになる。

2014年7月17日木曜日

涅槃会までは梅ばかり見て――俳句

 『鬣』第43号に掲載された。

薬喰い弓矢八幡誓うまで

噂の娘銀紙細工の剣を呑み

芋の葉の露に見られるまるみかな

帝国は菫の色に衰亡す

溶ける月独身者の日だまりに

モノクロのメトロポリスの比翼塚

吊り橋は模造記憶のパノラマに

星間は焚書坑儒の香りがし

2014年7月16日水曜日

幸田露伴『評釈冬の日』初雪の巻3

野菊までたづぬる蝶の羽折れて  芭蕉

 句は言葉通りで解する必要もなく、明らかである。ただ、発句は初雪で冬、脇も霜で同じく冬、第三句は野菊で秋だが、美しい園の菊ではなく野菊までといい、蝶も元気ではなく羽が折れているといっているので、前句との写りあい自然で無理がなく、各句各々独立しており、その間に景色、情調の微かな感触が通じていてよい趣を出しているのをみるべきでる。

 曲齋がこの句は前句を霜のなかにある墓と見なして付けたというのは解釈がいきすぎている。また何丸は、この句は「槿花発飯台、秋虫入文門」という古語によっているというが、無駄な解釈である。前句の朝顔は槿の花ではない。またその古語というものも奈良平安の頃の人の句であるか、必ずしも良いものとはいえず、芭蕉がそれによったとしてもそれによって芭蕉が光るわけではない。「岩もとすゝき冬や猶見む」に「野菊まで尋ぬる蝶の羽折れて」と付けた古連歌があるという。偶然であろう。

2014年7月15日火曜日

ブラッドリー『論理学』50

 §24.ここで我々は厄介な問題に行き当たる。読者は我々のこれ性についての考え方を受け入れることに同意してくれただろう。我々の用語では空間や時間における相対性、別の言葉で言えば個別性しか意味することができず、内容を越えでることがないことには同意してくれよう。そして、我々は普遍的でしかない観念をもつことになる、という結論を受け入れることだろう。しかし、「これ」を使うことで、我々はもう一つの観念をつけ加えるだけだと異議を唱えるかもしれない。我々は現前する実在との直接の接触という観念をもち、この観念が「これ」で意味されているものであり、我々の分析判断において主語となる観念を性質づけるものである、と。

 確かに、そういうことであれば、事実への参照は、不可避的にそして常に判断からはこぼれ落ちてしまうだろう、と我々は答える。再び我々は支えを失い、仮言的以上には進めなくなる。しかし、提起された問題を捨て去るには及ばない、というのもそれは、微妙な反省を必要とするが興味深いことに導いてくれるからである。「これ」という観念は、他の大部分の観念とは異なり、判断におけるシンボルとして使用することはできない。

 第一に、我々が観念をもっていることは確かである。実際、我々はそれを否定することはできないし、否定する際にも実際には観念を使ってしまっている。系列における排除の観念、これ性の他にも、我々はまた実在への感覚による直接的な関係についての観念をもっており、そうであるなら我々は「これ」をもつことになる。我々は決してなくなることのないこの直接の現前から現前という観念を抽象することができる。そして、現前は、内容に関わることではなく、あらわれの性質とも呼びがたく、内容の変化の只中で同一な、内容とは分けられ区別されるようなものと認められるのである。かくして、観念的に固定された「これ」は普遍的なもののなかでも普遍的なものとなる。

2014年7月14日月曜日

一句燦々

 『鬣』第43号に掲載された。


二階からひとりで見たる猫の恋  釣壺

 加藤郁也編著による『近世滑稽俳句大全』(読売新聞社)で見つけた句である。貞門から幕末まで、広く六千句以上を集めたこの本のなかでもっとも印象に残ったものなので、句そのもののできなどを越えて、よほどどこか感応する部分があったのだろう。

 元禄十年に刊行された玄梅撰による『鳥の道』という俳書の序にあるものらしい。本そのものをみてはいないので、どんな文脈に置かれた句なのかはわからないが、句そのものは平明で特になにも言うことはない。

 ごく自然に冬のあいだにかたまった身体の芯をほぐす春ののどかさを感じることもできる。また、『春色梅児誉美』の丹次郎が差し覗いているかのような無気力で退廃的な世界を思い描くこともできよう。しかしまた、森鷗外の『百物語』や芥川龍之介の『孤独地獄』にみられるような、人間の色恋沙汰などには倦み果ててしまった者の倦怠のまなざしとも受け取れる。強烈な官能によってぼかされた意識とは対照的な、「血糸の通つてゐる、マリシヨオな、デモニツクなやうにも見れば見られる」(『百物語』)冷ややかな傍観者の目である。百物語を催した飾磨屋は怪談が始まると、さっさと二階に引き上げて寝てしまうのだが、その二階はいかにも猫の恋をひとりでみるにふさわしい場所であるように思える。

 私は熱狂的な猫好きではないのだが、ここはやはり猫でなければならぬところである。ブレヒトのコイナー氏はこんなことを思う。

 「コイナー氏は猫が好きでなかった。猫は人間の友でないような気がしたのだ。だから彼の方でもまた、猫の友ではなかった。『もし猫とわたしが共通の利害関係にあるのなら』と彼は言ったものだ、『それならわたしだって猫の敵対的な素振りに知らん顔していられるんだがねえ』」
    (『コイナー氏一言集』 矢川澄子訳)

 共通の利害関係がある人間同士ならその意図は明らかであり、飾磨屋がそうしたように、いくらでも無視することができる。共通の利害関係がないにもかかわらず我々の生活に関わってくるのが猫であり、それゆえ知らん顔もできない、その距離感は二階から見る距離に近しいだろう。同じ距離感を保っていると感じられる私の好きな大田南畝の「猫賦」の一節もあげておこう。


 「腮に逸物の毛をかくし、眼に六の時をきざむ。あら玉のとしのはじめは、若水に手水をつかひて、七くさ爪をとぎ侍るも、妻こふ比の心まちにや。」

2014年7月13日日曜日

幸田露伴『評釈冬の日』初雪の巻2

霜にまた見る朝かほの食 杜國

 または復であり、まだではない。朝顔の食は、花の酒、露の宿などというようなもので、興のある 言葉づかいで、強いて問い詰めるべきではない。朝非常に早く食べる飯ということである。見は朝顔にかかり、食にはかからない。

 前句を、夜直の勤務を終えて初雪の降りかかるなかを帰ると見て、さて家に入って食卓に向かうと、猫の額ばかりの小さな庭の朝顔がいまは霜枯れしているのを見て感を得たさまをいう。この句をそのように解せずに、前句に対して逆つけにしたものとし、そうではないとするものもある。出勤に非常に早く食事する者が露に溢れた朝顔を見ながら箸を取ったのはいいが、霜でその花が凋れているのを見ながら袖寒い曉の膳に向かう感慨があると解する。これでも理解できる。あるいは逆つけしたとみる方が正解かもしれない。そうであれば、またはまだの誤りである。まだは前句の「も」に対する。芭蕉が其角に送った「朝顔に我はめし食ふ男哉」の句など思い寄せて解釈するのはやり過ぎである。

2014年7月12日土曜日

ブラッドリー『論理学』49

 §23.我々に与えられるすべてのもの、あらゆる心的出来事、感覚であろうが、イメージであろうが、反省であろうが、感じ、観念、情動であろうが--現前することのできるあらゆる可能な現象--それらは「これ」と「これ性」の双方をもっている。しかし、その唯一無比、特異性の性質は前者からくるもので、後者からくるものではない。もし我々が存在と内容とを区別し(第一章§4)、一方に存在するということ、他方にそれがなにであるかを置くと、これ性は内容に分類されるが、これはそこには属さない。それは私の直接的な関係、感覚される現前における実在の世界との直接の出会いの単なる記号に過ぎない。私はここでは「これ」がどうやって存在と関わっているのか、それがどれだけ実際の事実を有しており、どれだけが単なるあらわれに過ぎないのか、現実に存在するのか、私にとってだけ存在するのか、については問わない。そうしたことを別にしても、少なくとも我々が実在との接触において唯一無比を見いだすこと、それ以外の場所では見いだせないことは十分確実である。現前とともにあらわれ、我々が「これ」と呼ぶ特異性は与えられたものの性質ではない。

 しかし、他方、これ性は内容に属し、空間や時間におけるすべてのあらわれの一般的な性格である。これ性は、もし望むなら個別性と呼んでもいい。我々に与えられるものは、第一に、空間や時間における他の現象との複雑で細部にわたる無数の関係によって取り囲まれ巻きこまれている。内的な性質においてその区別をし、ある程度進めることはできるが、窮め尽くしたと確信することは決してできないだろう。そして、空間や時間における構成要素の内的関係は再び非限定的なものとなる。我々は決してその底にまでたどり着くことはできない。この細部は否応なく我々にあらわれる。我々はそれを隈なくあるがままに知覚しているように思うが、それをつくりだすことも変更することさえない。この細部がこれ性をつくりあげている。

 しかし、空間や時間におけるそうした個別性、そうした排除的性質は、結局の所、一般的な性格に過ぎない。それは内容であり、存在を与えるものではない。それはある性質を示しても、事物は逃してしまう。これから抽象されるのは単なる観念であり、これを離れては、周知のように観念は唯一無比に達することはできない。出来事が有するこれ性をどれだけ積み重ねても、系列のようにまったく同じ出来事の存在を排除するわけではない。そうした排他性はすべて種類分けに属するもので、その種類分けだけではそれだけのものでそれとはなり得ない。

 我々が与えられたものを分析し、主語として「これ」を置くようなあらゆる判断では、真の主語は観念ではない。「これ」を使うことで、我々は観念を使用しており、観念は普遍的であるし、そうでなければならない。しかし、我々が意味し、表現しようとして失敗するのは、唯一無比なものとして与えられた対象を指し示すことである。

2014年7月10日木曜日

ド・クインシーのこと――ノート16

 『鬣』第43号に掲載された。

 フランス革命以前のイギリスでは、年に百ポンドの収入があれば、贅沢さえしなければまずまず堅実で快適な生活が送れたという。ド・クインシーの父親は、六千ポンドの遺産でもって社会に出た。無駄遣いさえしなければ、一生過ごせるという意味では大金であるが、あくまでそれはひとりで生活するという前提であって、家族がいる、それに応じた住居が必要になる、一定の地位の人たちと社交する、子供たちに教育を受けさせる、などと考えだすと、安穏と過ごしていけるだけの金額ではない。ある銀行家は、まさしく六千ポンドが、危険に満ちた遺産としては究極的なものだと言ったそうである。つまり、安楽と独立を保証するには少なすぎ、怠惰への誘惑として働くには充分だというわけである。ド・クインシーの父親は、質素で静かな生活を好んでいたそうで、贅沢への誘惑はさほどなかったようだが、二十六歳前後で結婚し、妻に結婚前と同じ生活を送らせるためには自分の財産では足りないことをすぐに理解し、貿易商を始めた。

 ド・クインシーは、もっとも満足できる社会あるいは家庭を成り立たせるものを最高の作法と結びついた英国中流階級の道徳だと言い、作法を母親から、道徳を父親から受け継いだことを感謝している。ド・クインシーのもっとも早い時期の教養を形成したのも父親の影響が大きいと言えるかもしれない。父親は一冊の本を書いており、内容はイングランド中部地方の旅行記である。旅行記なだけに一貫したテーマがあるわけではないが、主要な目的は二つあり、ひとつは旅行の道筋の主要な邸宅にある絵画や彫刻の評価をすること、もうひとつは、そのころ急速な発達を遂げていた運河や工場などに置かれた機械の技術に目を向けることだったという。こうした関心のありかを示すかのように、自宅にはイタリア絵画の収集品がいたるところに置かれていた。もっともそうした収集は商人のあいだでは一般的なことであって、よりすばらしい収集品をもつ者も数多くいた。その気前のよさと優雅さにおいて、ヴェネチア商人に比較されるが、彼らのように外面的な光輝にこだわることはない。召使いを数多く雇うこともないし、馬車をもつこともそれほど一般的ではなかった。一方、協会は相当数あって、定期的に会報を出版していた。哲学協会に属するなかには、その学問において百科全書派に伍する者もいた。このような環境は、日本で言えば、信長や秀吉の時代の堺の商人のことを思えばいいだろう。支出の点からいうと、貧しい貴族を大きく上回ることも珍しくはなかった。とはいえ、こうしたことが父に特有のことではなく、一般的なことだったのだとわざわざ断っているところを見ると、このような文化圏は急速に失われていったものと見える。

 蔵書について言えば、イギリスとスコットランドの文学が過去から現在にかけて揃えられていた。地方の旅行記と地誌のかなり完全な収集があった。外国語の書物はなかった。イギリス文学ほど豊穣なものがあるときに、他国の文学を(研究のためではなく、楽しみのために)求めることは衒いでしかないだろう、とド・クインシーが言うのは、いささか悔しくはあるが否定できない。他の商人仲間同様、田舎に住んで、夜、盛り場に行くこともなかった。劇場に行くときはいつも家族を連れて行き、それは五年に一度程度だった。本、大きな庭、温室が日々の楽しみのためにあった。温室はその大きさからいっても家の主要な場所で、ド・クインシーはそこで子供時代を過ごした。

 彼ら商人たちがもっとも尊重した詩人は田園生活をうたった十八世紀後半のウィリアム・クーパーだった。「英国の田舎の家庭、その永い冬の夜、火の周りを取り囲んだソファ、窓にかかった厚いカーテン、紅茶のテーブルに『沸き立って大きな音を立てているポット』、新聞と長い議論――議会を支配するピットとフォックスに法曹界のアースキン――これらすべては彼らの特定の時代、特定の場所の反映である。田園的な風景の特徴はクーパーが経験した英国であり彼らが経験したものでもある。そこで、そうした特徴のうちに彼らは自分たちと同じ地点から物事をみる同国人にして同時代人を認めたのである。」とド・クインシーは書いている。サミュエル・ジョンソンは複雑な感情をもってかなりの尊敬を集めていた。荘厳で、整然とし、人工的で、大袈裟でさえある文を好む者は彼の言葉づかいを喜んで受け入れ、母国語の自然な優美さと生気を尊重する者は反対した。当時の家には音楽はほとんどなかった。また、学問については過度に尊敬が払われていた。

 こうした家庭で子供時代を過ごす幸福についてド・クインシーは次のように書いている。

我々のこの幸福は高すぎるものでも低すぎるものでもなかった。よい作法、自負心、簡潔な品位の範型を見ることができるほど高く、孤独の甘美さを味わえるほどには身分が低いのである。かなりの財産、健康のため、知的修養のため、優雅な楽しみのための特別な手段が十分にありながら、他方、その社会的な等級についてはなにも知らずにいた。なにかがないことでみすぼらしさに消沈することはないし、特権を熱望して忙しない思いをすることもなく、我々は恥をもつような理由もなかったし、誇りをもつような理由もなかった。


 「自分が生まれたときの光景を見たことがあると言ひ張つてゐた」という『仮面の告白』の三島由紀夫ほどではないが、ド・クインシーもまた、二歳以前の思いだすといつまでも痛みを感じるような二つの出来事の記憶があるという。第一に、お気に入りの乳母についての恐ろしいほど壮麗な驚くべき夢である。第二に、クロッカスかなにかの花が咲きはじめたときに感じられた深い悲哀の感情である。その当時、死をなんら経験していなかったにもかかわらず、「草木や花の毎年の復活は、私にはなにかより高い変化への記念或は示唆として、それゆえ死の観念に結びつくものとして感じられていた」という。花が咲くことと悲哀の情が結びつくことは、散る花に無常を感じるのとはまったく異なっていて面白い。確かに花が咲くことは、葉や茎だけを見ていてはまったく予想することのできない唐突な出来事であって、別な秩序が介入したことを感じさせる。そしてこの世界を生の世界と捉えるなら、別の秩序とは死の世界に他ならない。

 もともとこうした感受性をもっていたド・クインシーは、その後実際の死に直面することとなり、そこで受けた傷は生涯癒えることはなかった。まず、家族構成について記しておこう。八人兄弟で、ド・クインシーは五番目である。1.ウィリアム。ド・クインシーより五歳以上年上。2.エリザベス。3.ジェーン。生まれて四年目に死んだ。4.マリー。5.ド・クインシー。6.リチャード。ピンクと呼ばれていた。後に、海軍将校候補生になった。7.二番目のジェーン。8.ヘンリー。父親の死後生まれた子供で、オックスフォードのブレイノーズカレッジに属し二十六年目の年に死んだ。六人以上が生きて揃ったことは一度もなかった。

 ド・クインシーは三人の姉を遊び相手とし、いつも彼女たちと一緒に寝、貧困や苦難や乱暴さとは切り離された静かな庭にいた。幼年時代にド・クインシーが直面した死は、そうした楽園からの失墜も意味していたのである。最初に訪れたのは二歳年上のジェーンの死だった。ジェーンが三歳半、ド・クインシーが一歳半で、まだ死は理解されないものだった。同じ時期に母方の祖母も死んだが、病気のために隔離されていたので、交渉もほとんどなく、事故によって傷ついた美しい川蟬の死のほうにより心を動かされた。

 しかし、ジェーンの死に関しては恐ろしい印象を残した出来事があった。それはジェーンの死の直前、たまたま一日か二日彼女のもとに遣わされた女性の召使いが、病気の子供のむずがりが原因であったろうが、彼女を乱暴とは言えないまでもがさつに扱ったという噂が立ったことにある。このことがド・クインシーに与えた影響はとてつもないもので、「人生の評価を塗り替えるような、永続的で革命的な力を私に及ぼし続けた」ものだったという。暴力とは無縁な静かな庭にいた彼は、乱暴さやがさつがこの世に存在することをはじめて知ることになったのである。小学生のころの記憶さえほとんどない私には、二歳以前の出来事が決定的な重みをもって記憶されることなど想像の埒外だが、あるいはそれだけ私が安穏な生活を送ってきた証左なのかもしれない。

 いずれにしろ、ジェーンの死は彼女が消え去ったということでしかなかった。悲しいには違いないが、戻ってくることを信じてもいた。クロッカスが再び花を咲かせるように、ジェーンも帰ってくるだろうと思っていた。しかし、第二の死、エリザベスの死はそういうわけにはいかなかった。エリザベスがもうすぐ九歳に、ド・クインシーがもうすぐ六歳になろうとするころのことである。エリザベスはお気に入りの女中の父親の家でお茶に呼ばれることを許されていた。ある夏の日曜の午後、お茶から帰るときには、暑い日の暮れ方ということもあって草地には靄がでていた。その日から彼女は病気になった。医者を特別な存在と見なしている子供は、そんな状況にも不安を感じないものである。横になり呻き声をあげている彼女を見ることは悲しかったが、一夜明ければもと通りになっているはずだった。それが間違いであることがわかった瞬間、彼女が死を迎える運命にあることを理解したときに、「まったくの無条件な苦痛」が幼いド・クインシーに襲いかかる。「思い起こされることはみな混沌に巻き込まれてしまう」彼にとって、すべてはあっけなく終わったと言うしかない。

 ド・クインシーはなぜ死が夏にもっとも哀切なものと感じられるかについて考察している。ひとつは「夏の生命の過剰なまでの繁茂と墓の凍りつくような不毛性との敵対関係」に由来している。この二つが争うことで、どちらの力も高まっていく。

 第二に、より抽象的に導かれることであるが、楽園の日々に、三人の姉たちと暖炉を囲んで座り、物知りの乳母に沢山の挿絵のついた聖書を読んでもらっているときの記憶にさかのぼる連想がある。

 気候の違いもあってか、聖書の主要な出来事は夏に関連しており、そこには永遠に続く夏があるかのようだった。なかでもキリスト受難直前のエルサレム入城を記念する棕櫚の日曜という名はド・クインシーを戸惑わせる。それは夏の華やかさと平安を示しているが、受難が近いことも意味している。エルサレムは地球のオムパロス(臍)、あるいは物理的な中心だと空想される。地球の姿を知ってしまえば馬鹿げたものとなる空想だが、地球ではなく、地球に住む者、人類にとってエルサレムはオムパロスであり、絶対的な中心となっている。というのも、そこでは、我々の所とは反対に、死すべき運命が足下に踏みにじられている。だが、まさにその理由によって、そこでは死すべき運命が最も憂鬱な穴痕を開けてもいる。そこでは、人間は翼をもって墓から飛翔する。しかしまた神的なものが深淵に飲み込まれもする。

 それゆえ夏は、繁茂と不毛の対立関係のためばかりでなく、聖書の場面と出来事によって死と入り組んだ関係を持つものであるために死との関係を持つのである。

2014年7月9日水曜日

幸田露伴『評釈冬の日』初雪の巻1

          思へども壮年未だ衣振はず
初雪の今年も袴きて帰る  野水

 左太沖の詩に「被褐出閶闔、高歩追許由、振衣千仞岡、濯足万里流」とある。被褐懐玉は徳を包み世を避ける意味で、『孔子家語』に出ている。閶闔は洛陽城西門のこと。許由は朝廷に位があったが、退いて山のなかで畑を耕していた。振衣濯足は『楚辞』に出ている言葉だが、左太沖は面白くそれを用いて、ここでは官位に執着しないで宮廷を出て、山と水ばかりの自由な境遇をうそぶいているところを歌っている。

 野水の前書きと句の意味は、これを知っていれば自ずから明らかである。袴きて帰るは、洛陽城を出ることに基づき、その反対である。嘆息の情が満ち満ちているのが言わないことの裏にみられる。しがらみを脱して、風雅に遊ぶことを願っても、願うことは長いが意図はいまだ遂げられず、今年も初雪がちらつく美しい景色に対して、小さな袋などをもって、公的私的なしがらみを逃れ得ないで市中のわが家に帰ることよ、と述べたものである。

 だが、野水のこの句と前書きは、左太沖の詩句を引いてつくったというよりは、それよりあとのひとではあるが杜少陵の詩の句を引いたというべきだろう。詩の意味はもとより同じである。野水は名古屋大和町備前屋左治右衛門という。町年寄りなどを務めたという。

2014年7月8日火曜日

ブラッドリー『論理学』48

§22.観念の総合に判断を求めようとする試みは、再び出口のない状況に我々を追い込んだ。どれだけ希望が薄かろうが、我々は、判断は、一瞬間に限られるものではない現前において直接に出会われる実在、時間と空間においてあらわれる実在へ向けて観念内容を指し向けることである、という教義に立ち戻らなければならない。時間的な出来事であること、空間における現象であるといった性質によってではなく、与えられたものであることによってそれは唯一無比のものとなる。それが唯一無比であるのは、ある性質をもっているからではなく、それが与えられたものであるためである。我々の系列は、直接に接触点をもつのだろうと、あるいは間接的に接触点と連続したところで接するのだろうと、実在と関連をもつことによって排他的なものとなる。多分、これを次のように、つまり、実在であるのはただ「これ」だけで、観念は「これ性」に関する限りは十分うまくいくが、決して「これ」を与えることはできない。恐らくこれは難解な物言いであり、勇気と忍耐力を持って戦っていかねばならない困難を告げている。

2014年7月7日月曜日

花を咲かせる甘美さ――野坂昭如『骨餓身峠死人葛』

 『鬣』第43号に掲載された。

玄界灘を臨むもっとも険しい峠が骨餓身峠と呼ばれる。いかにもおどろおどろしい名前だが、小説の世界を存外正確にあらわしているかもしれない。というのも、精神と肉体の分離や相克はよく扱われるが、ここにあるのはむしろ、骨が身に餓え、身が骨に餓えるような、人間的な実存というよりは存在そのものの不安定さだからである。

この峠に葛作造という風来坊の抗夫が居つき、炭層を掘りあてる。鉱区申請して許可を受けたのが大正の初めのことで、長男長女の二人の子供をもち、元締めとして豊かな生活を送るようになった。炭鉱では事故や炭塵を吸い込んで胸を侵されて死ぬ者などもあり、死人は林のなかに埋葬され、その卒塔婆には必ず根無し葛に似た寄生植物がまといつき、山の者はそれを死人葛と呼んだが、名前に似ぬ可憐な白い花を咲かせるのだった。作造の長女たかをはこの花を好み、庭に植えたがったが、父親はきつく叱った。白い花は死人の身を養分にして咲くもので、いわば骨と花とのあいだで身のやりとりが行われるのであって、花と人間とが共存して存在として完成することは決してないのである。

人間は人間としての地位を失い、植物の世界に参入することによってのみ可憐な花を得ることができる。そしてこの小説もまた、無道徳な植物の世界に入っていく。節夫とたかをの兄妹は貧しかったときのまま手足を絡ませて添い臥していたが、死人葛を移植することをきっかけに交わるようになる。この近親相姦は甘美だが、その甘美さは、性的幻想が満足させられることからくるものではなく、人間としての地位や実存が崩壊するときの眩暈を伴った甘美さである。

「節夫は、ふと自分の体に、死人葛のつるがからみつき、わが血肉を養いとして、みるみる花をたわわに咲かせる幻想が浮かび、それはたとえようもない悦楽に思えた。あの、はなす時にブツブツとちいさく音をたてたつるの吸盤の、わが肌のいたるところにとりついて、血を吸いとる、つるの毛細管の中を一筋の赤い色が、つっと走り、みるみるわが体の、痩せおとろえ、やがて肉もそげおち、渋皮まるめた如きみにくい姿とかわりはて、つるはあたらしい養い求め、自分を見捨てる」とあるとおりである。

その後、二人の交わっている姿を発見した作造が節夫に取って代わり、たかをは作造とのあいだにできた娘さつきと交わる、と性別を超えた近親相姦の環が続いていくのだが、それは炭鉱という閉じられた世界が人間のものから植物のものへと滑り落ちていく過程なのである。敗戦後も朝鮮戦争のころまでは活況を呈した炭鉱だったが、やがて不況を迎え、寂れていく。

そして、たかをが長となった集落では、炭鉱を維持することなどまったく配慮されなくなり、ただ死人葛の白い花を絶やさないことが目的となっていく。女は見境なく男と交わり、葛の栄養となり花を咲かせるための子供を産むことだけが仕事になる。最後にはその手間ももどかしいかのように、全員が殺し合いに参加し、人間のいない完全な存在の世界に帰っていくことで小説は終わる。

2014年7月6日日曜日

幸田露伴『七部集評釈』38

廊下は藤のかげつたふなり  重五

 一句は穏当で難なく、藤の花の美しく、春の日が柔らかに射したる廊下の様がめでたくのどかで、うるさく解するまでもない。これで一巻が終わるが、最終の句を揚句という。揚句の様は、必ずしも拘泥する必要もなく、稀には陰惨な情景をもって終わることもないではないが、一巻がこれで終了するので、この句のように平らかに和らいだ姿で終わるのを多くする習いである。

2014年7月5日土曜日

ブラッドリー『論理学』47

 §21.時間的空間的排他性がその内容を唯一無比なものとするという意味で、空間と時間が「個別化の原理」だとするような誤った考えは(もしもっているなら)捨て去らねばならない。「出来事」について語ることで、実在や堅固な個物に降り立ち、雲をつかむような普遍的形容の領域を去るのだと思うのは錯覚である。空間と時間ということで我々は実際にはなにを意味しているのだろうか、そして、差異をつけて表現するにはどうしたらいいのだろうか。時間の系列、複合的空間という観念には、唯一無比であることが一つの意味として含まれている。というのも、各部分は互いを排除し合うからである。しかし、系列が一つの連続した全体としてとらえられ、その成員間の関係が系列の統合によって固定されない限り、部分は排除し合わない。この統一がなければ、回帰してきたときの点と最初に与えられたときの点とが区別できないことになる。そして、こうした統合というのは、どこまで互いの排除を否定することになるのだろうか、とどこまで行っても自問することになる。

 しかし、この問題をやり過ごしたとしても、ある系列の相互排除が絶対的な唯一無比を生みだすわけでないことは明らかである。系列という観念には、内的にはもとの系列と切り離すことのできない無数の系列が存在しないとほのめかすようなものはなにもない。観念を越えようとはせずに、ある系列を、他の可能な系列から区別し、記述によって確定性格づけることがどうすれば可能であろうか。「これ」といっても、「これ」はこれの領域以外では排除を行なわないから無駄なことであるし、「私の」といっても、あなたのものと私のものとが衝突するのは私のものにおいてだけであるから、これも無駄なことである。その外側では無関心で、「私の」という表現はある世界と別の世界を区別したりはしない。もし系列そのものに注意を払い、その外側を見ず、その性格だけを考えることに限るならば、そこに含まれているものは無数の主語の共通の財産であり、それぞれの世界に存在し享受されており、なにものによっても占有されていない一般的所有物となるだろう。

2014年7月4日金曜日

酔いはさめねどまた陽はのぼる――俳句

 『鬣』第42号に掲載された。

追憶の層 ビールの泡がはじく夏

葡萄酒の赤裸の心 酒的唯物論

あやしやな梅割りだけが誘う場所

ホッピーと煮込み 残るいのちの味噌の味

ウィスキーの酌みかわしおる夜の声

新宿の玉子渡世のギムレット

盃はくらげなす酒の大海に

亡霊よきらめく酒が影をのみ

2014年7月3日木曜日

幸田露伴『七部集評釈』37

綾一重居湯に志賀の花漉きて  杜國

 旧解が多々あって、その是非を急には定めがたい。ある本には、志賀の山水を家風呂に汲みいれて、浮いた落下を綾ですくい取る様子だとある。家風呂を居湯といった例があるか、まずそれが疑わしく従いがたい。ある本には、居湯の御所は大塔宮の旧跡で志賀にあるとしている。大塔宮と妹の眉を描くのとなんの縁があるのか、理解できず、従いがたい。『大鑑』の説では、居湯は釜のない風呂桶であり、桶の上に漉し輪というものを置いて塵芥を取るものであり、禁中のおもむきを見るべきだと。貴人が入浴するとき、火を焚くところと接しない桶のなかに湯を湛えて用いることは実際にあることである。だが、それを居湯といった例はまだ聞いたことがない。たとえ居湯というとしても、綾や羽二重で湯にあたって崩れた花びらを漉すことにどんな風情があるだろう。また前句との係りもわからない。この花を漉してから妹の眉を描くのか、あるいは前句の美人にかしずいた後のことなのか、解釈しても解釈しかねる部分が残る。

 『婆心録』の説では、自分の務めである湯を漉し終わり、異なる詰め所にいる妹の眉をかきに行き、今日はなにかと忙しいなどと語る様の逆付だとある。『婆心録』の解に従えば、この句はもちろん姉の上にかかり、前句も眉をかきに行くのも姉の上にかかり、そのまた前の明け方の星孕まんとするのも姉の上にかかり、三句みな一人のこととなるのは、『婆心録』もまた極端すぎる。眉かく句を中にして、前後の句がみな同じ人にかかるのは、連句の規則としては通常あることではなく、なぜ曲齋はこうした解をして自ら疑うことをしなかったのか、他の解釈を得ることができなかったので、やむを得ずこの解にたどりついたのかどうか。特に旧刻の『七部集』の居湯にヲリユと傍訓が付けてあるのを再版の間違いとして斥け、すゑ湯と読んで、何丸の説に依拠したのは口惜しいことである。すゑ湯という語は他の書物には見られない。

 居風呂は居風炉桶を略したもので、風炉を桶にはめこんだことからできた名であり、座薬をすゑぐすりというように、すゑの意味を理解するべきである。すゑ湯という語は、用例はあるが理解できない。居湯にとくに傍訓をしたものは、きっとすゑ湯などとあて読みして居風呂の雅言だと思うものがあろうかと心配したのだろう。傍訓をしたものは、特に根拠もなく妄想を巡らせたのだろう。ただし「をり湯」という語も居湯という字面もまだ見たことがない。だが、すゑ湯という語はないが、「おり湯」という語は中古には確かにあった。

 思うに、「をり湯」は「おり湯」の誤りであり、居湯は下湯の当て字でもあろうか。俳書の文字は必ずしも正確厳密ではなく、『猿蓑』の越人の句、「茶の花や惚れる人無き霊聖女」とあるのも明らかに霊昭女の昭を聖と誤っている。また、おとをの誤用は中古以来のことで、いわゆる定家仮名遣いに従うものはををおとし、おををとして、正しいとしていたので、いまの基準で昔を咎めることはできない。

 今は入浴することを湯浴みというが、もとは湯浴みは湯あびで、『枕草子』などにも湯あびと明記され、温泉で病を治すにも、昔は身を浸すことよりも柄杓で湯を注ぎかけることを主としたことは、いまもなお古風を守っている湯葉では必ず柄杓を備えていることでもわかることで、『竹取物語』に「筑紫へ湯あみ」と書いてあることからもこの語の用い方を推察すべきである。水浴びは水をあびることであり、湯あみは湯をあびることである。用い方が変じてからは湯あみといえば湯に浸ることのようになったが、昔の使い方は既に述べたようなものだったので、中古には「下り湯」という語が生じ、下り湯は湯壺湯桶に下りることである。『保元物語』為朝が捕らえられるくだりに、「古き湯屋を借りて、常に下り湯をぞしける」とある。下り湯はあるいは居り湯なのかもしれないが、下り湯であればおり湯であるべきで、居湯にをり湯と傍訓したのはこの言葉を用いたものと思われる。

 さて、旧本の傍訓を、曲齋のように根拠もなく斥けて、また根拠もなく強いて「すゑ湯」と読むことをしないで、おとをの相違はあるが、旧に従って「おり湯」と読めば、解釈も非常に容易で、一句も華やかでよろしく、光輝を生じるかのようである。まして、京阪地方ではおり湯という言葉はいまも稀に使われることがあるという。とすればこの句の「綾一重居湯に志賀の花漉て」は、前句の妹の居るあたりのありさまで、綾で囲った下湯のところに綾一重なので志賀の花の影が見える様子である。

 湯に幕を張るのは今でこそしないが、昔は多いことで、温泉地にはいまも幕の湯という言葉さえ残っているところがあるほどである。志賀の花を詠んだ歌が多いのは歴代の撰集にも明らかで、人の知るところである。漉は字書に滲とあって、本来は水の滲むことだが、ここでは花の綾の囲いのなかに入ることをいっているのは明らかで、一重という語も理由なく使われたものではないのを知るべきである。「漉て」とあって送り仮名がなければ、「漉して」と読まず、「すきて」と読む人もある。「冬の日」初雪の巻の「窓に手づから薄葉を漉」は薄葉をすきである。漉の字がすくとも訓ずることから、すきてと読んで透きての意味だとするのも間違いではなく、綾一重の一重の語の特に生彩があるのを感じる。煩わしい論には及ばない。ただ『大鑑』にあるように漉きてと読んで、すくひての意味に解釈するのは間違っている。幾度となく読みあげて味わってみれば、前句との係り、この句の心、自ずから理解されるだろう。

2014年7月2日水曜日

ブラッドリー『論理学』46

 第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

 §20.しかし、私が宛てて書いているような人たち、安易な直観を嬉しく思わない人たちは、この難点を感じ、再び一度は捨て去られた異端に立ち戻り、総合判断では、主語が実在ではあり得ない、と言うかもしれない。それは観念でなければならず、観念のつながりには真理がなければならない。ここでは繰り返しの労を厭わず、こうした考えに誘われることで我々はどこに連れて行かれるのか、見ておくのがいいだろう。

 「この前の火曜日には雨が降った」と言うとき、我々は特定のこの前の火曜日を意味しており、それ以外ではない。しかし、もし我々が観念を持ち続けるなら、我々は自分が言おうとした意味を言えない。観念を使っては、どう曲解しようとも、普遍的でないような主張をすることはできないだろう。時間における出来事、特殊だと言われるようなものについても、我々は観念を使用することから逃れることはできない。あなたが記している出来事はたった一度のことだが、それについて語ることは想像的なものであれ現実のものであれ、無数の出来事に当てはまる。観念にとどまっている限り、現在に言及して、「この日の直ぐ前の火曜日」などと言っても無駄なことである。前に見たように(§8)、分析判断においても、我々には同じように救いがない。実在は観念によっては到達することができない。具体的、特殊なものに近づこうとするには、より抽象的に、まったく非限定的なものへと進むしかない。「これ」、「いま」、「私のもの」はみな普遍である。そして、「これではなくこれ」といった無益な繰り返しを使っても、それがあなたが言おうとしている意味に近づくことはなかろう。判断が観念を結びつけることでしかないなら、判断は個的なものとは関わらないことになる。