『鬣』第44号に掲載された。
三道楽(どら)煩悩といえば、男の欲望が向かう三つの対象、酒、女、博打のことを指す。もともと、道楽というのは特にそうした欲望への耽溺を意味していたわけではなく、「其道ヲ学ビテ、耽リ楽シムコト。」、また、仏教においては、「道ヲ解シテ、自ラ楽シムコト。」(『大言海』)をいう。
道楽と耽溺は似て非なるものである。酒飲みが、数々の失敗を経て自分の酒量、ペース、盃の上げ下ろしなどを会得していくように、耽溺を通過することのない道楽は信用できないが、欲望に溺れっぱなしでは道楽にはほど遠い。その結果、道楽者には、欲望を受け入れる雅量と、欲望一色で眼を血走らせることのない抑制が相まって、ある種のしなり、たわみが生まれる。そして、道楽がより玄妙さをますと、より印象的な言葉で極道と呼ばれることにもなる。極道は、法と欲望、一般常識と自分たち固有の原理のあいだの境界線を、まさしくたわみをもって引きなおすことで貫禄を示すのだ。
暮尾氏とは数回お目にかかっただけで、日常生活のことなどはまったくあずかり知らないのだが、道楽者に特有の柔軟さと剛直さを感じ取ることができた。柔和で含羞の色を浮かべた笑顔を脆さと取り違えてはならない。いかにも強面の、触れなば斬らんと殺気だった者たちが所詮多少強く押されればポキリと折れてしまう弱さと裏腹なのに対し、柔和さは力を吸収し他へ逸らす強さと一体なのである。また、そうでなければ、秋山清、金子光晴、伊藤信吉といった一癖も二癖もある人物たちと長いつきあいをすることもできなかっただろう。
俳句にはスタイルがあり得るのだろうか。散文や、あるいは少なくとも詩であるならば、その人物にしかない言いまわし、息づかい、つまりは身体性がでることもあるだろう。だが、息づかいを感じ取り、独特な言いまわしや考え方のパターンを盛り込むには俳句という詩型では短すぎることが多い。
もちろん、伝記的な背景を知ったうえで、句境がよりまざまざと理解されることはあるだろうし、敗戦や震災などの大きな出来事については、共有するものが大きいだけ、独特の発想が見やすいということはあろう。しかし、俳句の主要な現場である日常においては、よほど特徴的な語彙やテーマがない限り、固有の人間性が句に刻み込まれることはないだろう。たとえ特徴的な語彙やテーマを開拓したとしても、多くの場合、それは単なる意匠にとどまるのである。
江戸時代にまでさかのぼればまた別である。俳句は漢詩や和歌と同じように、ある種生活の記録であり、余沢でもあった。生活と無関係につくられるものではなく、生活の余剰から生じる贅沢なものだったので、俳人たるものは余剰を生みだすべく生活の充実にいそしまねばならなかった。
暮尾氏の俳句に見られるのはこの贅沢さである。生活と別に俳句の、詩の、散文の場があるのではなく、生きることの余剰が自ずから句や詩の形をとっている。個々の句は、詩や散文と同様に、暮尾淳という人間の広がり全体の上に等級づけられることなく展開している。
生きることの余裕が道楽への道を開くとすれば、暮尾氏の俳句もまた、道楽というにふさわしい。それだからというわけでもないだろうが、この句集には三道楽煩悩のうちの酒、女が頻繁に登場する。
泥酔を知らぬ男と飲む葉月
んの字は酔うほど虫に喰われたり
連泊や欠伸くさめの茶碗酒
いやどうもデンキブランを注ぐ老女
花火散るやけどの海よジン五杯
脳味噌の骨折ありけり梯子酒
人見知りたそがれ酒場の顔と顔
亡きひとの花梨酒飲みて屁を二つ
二杯目のアブジンスキーで揺れは来て
原爆忌ワンパイントのギネス飲む
脳染める赤いワインのエロスかな
冷酒や気づけば暗い海の際
期せずしてというべきか、三道楽煩悩は三つの世界を形成し、互いに補完し合っている。そして、暮尾氏の句集は、道楽者の階梯を経巡っている。
第一に、酒が現出するのは一人称の世界である。必ずしも文法的な人称に限定されるわけではなく、一なるもの、二なるもの、それ以外の三なるものと言い換えた方がいいかもしれない。
一人称とはいえ、もちろん、酒はひとを集め、この上なく楽しい時間を与えもすれば、陰惨な修羅場にもなるのだが、あくまでそれは人間関係が生みだすものであり、酒にとっては本質的なものではない。
酩酊を繰り返し描いた吉田健一の酒宴が、一を聞けば十を知る参加者ばかりのユートピアであったことを思い返してもよい。そこで繰り広げられるのは対立者のいない一種の独白であり、酒という一人称の世界は、行くとして可ならざるはないかのように、広がっていく。
詩作でのように、過去と現在、こことあそこが野放図に通底することはないが、この句集でも酒はここにはないものを招き寄せる。酒がなければ、「やけどの海」や「暗い海の際」出会うこともなかっただろうし、「脳味噌の骨折」や脳をエロスに染めることはなかったに違いない。また、「茶碗酒」、「デンキブラン」、「ジン」、「アブジンスキー」、「ギネス」、「赤いワイン」「冷酒」といった酒の種類が、それぞれの連想を伴っており、ある種人格に相当するものを有しているため、ともすれば、句中の人物がこれらの酒を飲んでいるのか、酒がこれらの人物を寸借しているに過ぎないのかわからなくなるのだ。
しかしながら、ボードレールによれば、大麻はもともとそれを服用する人間がもっている感覚や思考を拡大強化しても、その人物がもっていない啓示、幻覚、夢などをもたらすことはないという。あくまでも拡大鏡であって魔法の鏡ではないのである。酒も同じであろう。時間や場所のなかをどれだけ自由に遊弋できたとしても、それがまったく新たな経験をもたらしてくれるわけではない。確かに、酒は思わぬ出来事を招き寄せるが、出来事を意味あるものとして受け止めるのは本来あった感受能力であり、酒の力ではないのだ。そこで酒の及ばない世界として女が登場する。
女が現出するのは二人称の世界である。
霧の街ダミアを歌う女あり
星溶かす海を泳ぐと言う女
大女ふと立ち上がる夏波止場
春雷や青い女とキャベツ食う
あばずれのはなうた恋しおんな坂
桜より本卦を待つと言う女
日和山おんなと見ている凪の海
蚊を打ちて何事もなしいろおんな
雪見酒ふきのとう味噌いろおんな
いろおんな楕円の球がその胸へ
生あくび朝餉の女のほつれ髪
機背負い残暑の街を行く女
酒の場合であれば、欠伸くしゃみから屁、脳の骨折まで飲めばてきめんに効果があらわれた。そして、そのように卑俗な事柄に帰着させるというのは、暮尾氏の句の大きな特徴のひとつとなっている。
ところが、暮尾氏の女はそうした卑俗化を免れることのできる存在である。叙情的で、艶歌のしたたるような艶っぽさがこの世界の特徴である。女は不和や齟齬によって傷つけあったり、本心を忖度して駆け引きをする相手ではなく、叙情的な世界に否応なく引きずり込む不壊の存在なのである。
三道楽煩悩のうちで、酒や女のように『宿借り』にはっきりした姿をあらわさないのが賭博であるが、もともと賭博が作物の出来や、天候、吉凶などを占う宗教的儀式であったことを思うと、賭博とは世界を幻視する力のことであり、この句集の大きな要素を形づくっていることがわかる。そもそも道楽が道を楽しむことである以上、酒、女、賭博にはそれぞれの世界があり、道楽者とは言い方を変えれば、世界を構成できる者のことである。
落語を見てみるといい。道楽とは『よかちょろ』のように、無意味な遊びを捻りだす、あるいは『二階ぞめき』のように、自宅の二階に吉原を立ちあげることのできる構想力と切り離せないものなのだ。
稲妻と夜の稜線媾合す
蓑虫や地球の林傾きぬ
蜘蛛の糸地球のへりを吹かれ行く
台風のよがる夜空のあばれ川
マンホール逢魔が時の水の音
蟻の目に涙見ているあのねのね
レバ刺しや死んだ男を招く猫
大雷雨大充電の夜の薔薇
奈良漬や巨艦は冥い海の底
満月やいまもむかしの赤いみち
夏空やトンネルのなかの県境
居酒屋の卓の下から犬がワン
賭博とは、また、未来というまったく未知の世界に賭けることでもある。ヒュームを持ちだすまでもなく、この世界が一瞬ののちにもいまと同じ条件で存在している根拠は何一つない。その意味で、賭とは別の世界へよしみを通じることなのである。犬や猫といった、おそらくは我々とは別の世界に生きているに違いない小動物たちがしばしば姿をあらわすのも驚くにはあたらないだろう。
『宿借り』という題は象徴的である。この世を仮の宿と見なす暮尾氏は、異世界へよしみを通じるばかりではなく、そこに身を投じ、読者にその手触りを感じさせてくれるようにも思われるからである。もはやそこには人称も三道楽煩悩もなく、不気味でもあれば切なくもあり、薄気味悪くもあればノスタルジックでもある定かならぬものが、生々しい脈動でわだかまっていることだけが察せられる。そうした絶唱三句をあげるとすると、すなわち、
冬の空冬のニヒルが降りてくる
どうすべえぼつぼつぼちらさようなら
連れ立ちてなんじゃもんじゃを探しけり