2014年6月30日月曜日

テリー・イーグルトン『詩をどう読むか』書評

 『鬣』第42号に掲載された。

 詩を読むことのすごさをはじめて知ったのは、この本にも幾度か名前が取り上げられているが、ウィリアム・エンプソンの『曖昧の七つの型』を読んだときだった。バルザックの中編『サラジーヌ』をばらばらに分解し、一文ごとの働きを分析、分類したロラン・バルトの『S/Z』にも圧倒されたが、こちらの場合、とりあえず物語は先に進み、結末はわかっているので道を見失って途方に暮れることはなかった。ところがエンプソンの場合、一歩踏み込むやすでに藪のなかで、確かにここに曖昧さがあり、それがどういった種類のものなのか、説明されていることは理解できるのだが、いったん説明を離れて詩を読み返してみると、なんだかすでにあやふやになっており、その曖昧さが他の曖昧さとどんな関係にあるかとなるともはや見当さえつかないのだった。題名だけ見ると、元素の周期表のような整序された世界が提示されると思えたのだが、案に相違して目の前にあるのは精密だが用途のわからない機械のようなものだった。詩を読むことにおいても、精緻になり、洗練されればされるほど猛々しさがあらわになるような種類の文章のあることを知った。

 私がイーグルトンを読むたびに期待するのはこうした猛々しさであり、なにかいつも裏切られたように感じる。この本はかつてあった(それこそエンプソンやその先生たちの時代)精読に基づいた文学批評が「滅びゆく伝承の技」となっていることを危惧した著者が、詩を読むことの入門書として書いた本ということになっている。しかし、あながち啓蒙書とばかりも言えないのは、満遍なさよりは周到な選択が働いているからである。やや意外なことだが十七世紀の形而上詩人や未来派やダダ、シュルレアリスムの影響を受けて活動した前衛詩人、ナンセンス詩などには冷淡である。また、それほど意外ではないが、コールリッジ、ポオ、スウィンバーン、ワイルド、世紀末のマイナー・ポエットと続く流れにはほとんど言及されない。スィンバーンの詩が引用されて、「すべて頭だけで捏ね上げたものだ」「はではジェスチャーだらけだが、中身は何もない。」(ジョン・ダンの詩でも似たようことが言われる)と痛罵されるのだが、中身が何もないところからも詩ができあがってしまうのはなぜか、という少なくとも私などには十分興味のある詩の問題は素通りされる。つまり、本来ポレミックである部分が啓蒙の名のもとに回避されているように感じられる。しかし、啓蒙の部分については非常にわかりやすく、入門書として過不足ない。特に前半の理論的な部分はありがちなように、妙な専門用語が振り回されることもなく明晰である。それだけに、この明晰さでこれまで耳にしたことがないようなことを聞いてみたい、と再び新たな希望がわいてくる。            

2014年6月29日日曜日

ブラッドリー『論理学』45

 第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

 §19.II.単称判断の第二のクラスにおいて(§7)、我々は、一般的に、我々が知覚しているわけではない空間や時間にあらわれるものについて言明し、そのあらわれについて、内容の分析によって得られるのとは異なったもので述べる。もし私が「この壁の向こうには庭がある」と言ったら、知覚を超えているゆえにこの判断は総合的である。「昨日は日曜日だった」、「ウィリアムは英国を征服した」、「来月は六月だ」といった文では、単に与えられたものを分析しているのでないのは確かである。総合判断では常に推論が存在し、観念内容が我々に与えられた感覚的性質に結びつけられている。別の言葉で言えば、我々は常に構築をしており、それは観念に基づき、知覚には間接的にしか基づいていない(第二巻を見よ)。

 もしそうなら、これ以上進むことはできないように思われる。主語が知覚にあらわれる実在であるとすれば、過去と未来の出来事、目の前にない別の空間、感覚に捉えられていない性質がどのように対象に結びつけられ、それを形容すると考えられるのだろうか。この問題の解決については既に一瞥しておいたが、ここで示したいと思うのは次のことである。総合判断においても、究極的な主語はいまだ実在である。それは束の間のあらわれとは違うが、総合判断はこの瞬間において与えられるものと関わる限りにおいて可能となる。過去と未来の出来事という観念は、現在の知覚を基にして投影される。それらは、この点においてのみ、真実であることが望まれる実在に出会うのである。

 「しかし過去と未来も実在であるに違いない」、と反対される読者がいるかもしれない。多分そうであろうが、我々の問題は、私の心で観念の総合がなされるとき、それらに与える実在性をどこでどうやって手に入れたらいいのか、ということにある。現前がなければ私はどう判断すればいいのだろう。過去と未来をお気に召すように実在だとしてもいいが、所与のものに直接間接的に関わるのでなければ、それにどうやって私は接し、観念を差し向ければいいのだろうか。過去の実在、また(私の知る限りでは)未来の実在においても、それらが直接に現前する、そして私が接していない空間、知覚していない性質についても同じことを主張するのは可能だということは私もわかっている。こういう具合にすれば、疑いなく、我々は難問を処分し、事実上そこにいかなる問題も存在しなくなるわけであるから、どんな問題も非常にたやすいものとなる。

2014年6月28日土曜日

幸田露伴『七部集評釈』36

今日は妹の眉かきに行  野水

 漢の張敞の故事などを引いて解釈するのはここではあてはまらない。妹とあるので、夫婦閨房の痴態ではないことは論ずるまでもない。

 眉を描くのは、青い黛でその人の顔の輪郭に似合って美しく見えるように描くもので、眉の形にはいろいろある。「春の日」の奈良坂の巻に、「内侍の選む代々の眉の図」という句があり、上代宮中の宮女のあいだのことであるのはいうまでもない。

 前句はこのしろを貰うような田舎の修験層めいたものの言葉であるのを、ここではしかるべき身分にあるものの実のことと取り、星孕むなどという普通ではない言葉に目をつけて、実際に栄え貴いあたりのこととみなし、妹にいくつもの星が宿るような幸せがあるようにと祈る者の、眉は分けても大切なので美しく似合うように描いてやり、君の御覚えもめでたいようにしようと、様々なことに心得あるものが妹のもとへ行く。

 眉の作り方には、一には開元御愛眉、これは楊貴妃の眉の形を学んだものだろう、二に小山眉、三に五岳眉、四に三峯眉、五に垂珠眉、六に月稜眉、七に分稍眉、八に涵烟眉、九に仏烟眉、十に倒暈眉、そのほかにもあるだろう。何についても中国のことを尊んで学んでいたころには、化粧のことも普通の者には知るところではなかった。だとすれば、いい歌の一首も読めるであろう、あわれを知っているような顔をした某の僧のうちに秘めたものを、世相の実際はこうしたこともあると、まさにあるはずのないようなことを却ってこういったものである。またこれを僧としないで、陰陽師などにするのも、無難なものとして理解される。

 いずれにしろ、平安朝の糜爛した頃のありさまの面影を見せて、辛辣刺すようで当たりにくい句だというべきである。験者では浮蔵、歌僧には道命のような、女を犯し弄んではばからず、室町末流の兼好にいたっては、公然と仏祖が弾劾したものを称讃し、また後には、真言宗に立川流のような邪教が成立して、世俗で秘密に耽溺されていることを煽った。僧だとしても妹の眉を描くとはどういうわけだろうか。およそ世の中で僧、医者、呪い師、祝儀不祝儀に関わるものほどくせ者が多い。この句、荷兮の前句を一転し得ていて絶妙である。

 旧註に、昨日は叔父が大納言に出世し、今日は妹が内裏にあがると聞いて眉を描きに行き、明日は何々とこの頃は一門の内に幸いが続いたので、我が身も望みが叶ってきっと御胤を宿したろうと、他の喜びを知って自分の身の上を思いやるさまだとするのは従いがたい。妹の眉を描くことはあり得るが、眉かくとのみあるのを内裏にあがる喜びに加えて、自分もまた孕むとするのは理解しがたい。眉を描くのは内裏へあがる者だけがすることではなく、また妹が貴いからといって自分も星を孕むというのも心得がたい。

 また一説に、姉妹が同じように宮仕えしていて、姉は君の御胤を宿るようにと祈るのに対し、妹はまだ世の中のこともわかっておらず、なんの心遣いもないので眉なども描いてやる体だというのも従いがたい。姉妹が同じように務めることもないことではないが、この解に従うと、前句との付けが非常に薄く、また、眉かきに行くという「行く」の一語が落ち着かず、妹の局に姉自らが行くのか判別しがたい。また、妹のの「の」の字を主格の「の」文字として所有格の「の」文字としないで、妹が眉をかきに行くと解するのは、全体がぼんやりして却って意味が通じるようでもある。しかしこの場合も「ゆく」の一語の落ち着く場所がない。町の髪結いに髪を結ってもらうように、眉を描いてもらいに行くということがあるかどうか、非常に疑わしい。

2014年6月27日金曜日

二種類の日記――ノート15

 『鬣』第42号に掲載された。

 デヴィッド・マッソンが編集した十四巻ある著作集のうちの三巻が当てられ、しかもそのなかには、必ず代表作としてあげられる『英吉利阿片服用者の告白』と『深き淵よりの嘆息』が含まれているのだから、自叙伝はまずトマス・ド・クインシーの主著といっていいだろう。だが、自伝がそれを書く者の波瀾万丈の一生、彼が経験した冒険や珍奇な経験を描きだすことを主眼とするなら、ド・クインシーの自伝は少々物足りなく思えるだろう。たとえば、カサノヴァの『回想録』やフランク・ハリスの『我が生と愛』のように、嘘か本当かわからないエピソードが途絶えることなく繰りだされて、それを呆然と見守るしかないといった経験はド・クインシーでは得られない。また、ヘンリー・ミラーの一連の作品のように、行くとして可ならざるはないかのように、ものを食べ、友人と会話し、あたりかまわず性交し、大量の本を読み、思索し、ユートピアや幻想を夢見るといった猛烈なエネルギーとも無縁である。

 たしかに、ド・クインシーの自伝にも、十七、八歳の頃、一文無しの状態で厳しい寒さのロンドンを放浪し、知り合った少女やまだ年若い娼婦と抱き合うことでかろうじて暖を得たというような印象的な出来事が描かれており、それはド・クインシーがもっとも愛した妹の死と結びついて、ある種特権的な輝きを放っているのだが、それを『英吉利阿片服用者の告白』や『深き淵よりの嘆息』のような単独のものとして作品化された文章から切り離して、三巻に渡る自伝のなかに置いてみると、ある特定の時間と場所で経験されたという固有性は拭い去られて、非人称的な大きなうねりのひとつになっている印象を受ける。

 自伝に限らず、日記や書簡など自分に関することが書かれるとき、おおよそ二つの方向性がある。一方は、そうした自己の固有性を書きとどめることが眼目となる。上記のカサノヴァ、フランク・ハリス、ヘンリー・ミラーもこのタイプに属するだろう。もっともここでいう自己には、ある思想、趣味、性癖などをもち、立ち会う出来事ごとに自らの主張を繰り広げずにはいられないような「特異さ」が必ずしも求められているわけではない。たとえば、石川淳の小説『雅歌』のなかで、語り手が探している村田了阿の日記などは、今日はなんの花が咲き、なんの鳥のさえずりが聞こえたというごく短い記述だけで成り立っているが、その文章から書き手の生活の様式を組み立て直してみると、尋常一様なものではないことが理解されてくる。つまり、自己の固有性とはそのときその場所にあることをおろそかにしないことであり、そのためにそうした作品はその時代の風俗を調べるさいの資料として用いられることもある。

 他方、時間や場所の固有性にさほどとらわれることなく、普遍的な問題に向かうタイプがある。日記というと固有の時間と場所が優先されるように思いがちだが、そうした事柄にまったく関心を払わない日記も珍しくはない。サルトルがジッドの日記についてこう書いている。「昨日、ジッドの日記をまためくっていて、その宗教的な側面に打たれた。これは何よりもプロテスタントとしての自己省察であり、次いで瞑想と祈禱の書である。モンテーニュの『随想録』や、ゴングール兄弟の日記、あるいはルナールの日記などとは何の共通点もない。根本にあるのは罪との闘いだ。そして日記をつけることが、〈悪魔〉と闘うことを可能にするつつましやかな手段の一つ、つつましやかな術策の一つとなっていることがたびたびである。」(傍点原文)(『奇妙な戦争』海老坂武・石崎晴己・西永良成訳)キルケゴールやカフカの日記もまた同様なものに数え上げられよう。

 普遍的な問題に向かうタイプにも、実は二種類ある。ひとつは、普遍性というものが、書き手が生涯を捧げているものと常に結びついている場合である。自己について書き省察することは、より大きな問題に向きあうための方途に過ぎない。ジッドにはプロテスタントとしての罪との闘いが、キルケゴールには神への信仰が、カフカには小説を書くという大きな問題があり、何を書いていようとも最終的にはその問題に行き着かざるを得ない。『告白』を書いてそのジャンルを創始したアウグスティヌスがまさにその原型であり、異境を排し、キリスト教を普及、確立する目的のために若かりし頃の遊蕩や異教信仰について述べることが役立つと思えばこそ自分の経験を書きとどめたのであり、もしそれが目的に不必要なものだと判断されたなら、容赦なく切り捨てられただろう(文学作品としての魅力の大半は失われてしまっただろうが)。

 普遍性を目指すもうひとつのタイプは、特に奉じる信仰や仕事があるわけでもなく、いわば個物から普遍性へと向かうことに興趣をおぼえ、それ自体が目的となっている。身近な例として澁澤龍彦をあげよう。自分について語ることを潔癖に拒否してきた澁澤龍彦だったが、死の十年ほど前からあえてそれを厭わなくなった。もっとも、アクチュアルな問題に首を突っ込んだり、どこで誰と飲んだなどといった日常にまったく関心が払われないことは相変わらずで、もっぱら幼少年時代の思い出だけが文章になることを許されているようだ。各著作にそうした文章は散見されるが、短いエッセイがこの同じテーマでまとめられ一冊の本となっているものに『玩物草紙』と『狐のだんぶくろ』がある。

 しかし、それらの思い出は常に普遍的なもの、ある観念や形而上学的な夢想に結びつくのである。『玩物草紙』のなかからいくつかの例をあげよう。小学校に入学する以前、澁澤はいつも昼食にはパンを食べていたという。食卓にはバターやジャム、コンデンス・ミルクの缶が並べられる。コンデンス・ミルクはメリー・ミルクという商標で、レッテルにはエプロンをかけた女の子が片手に籠を抱えている。籠のなかにはメリー・ミルクの缶がある。もちろんその缶にも籠を抱えた女の子がいるはずであり、籠にはメリー・ミルクの缶があるはずだ。それが無限に繰りかえされる。「この目の前のテーブルの上のミルクの罐のレッテルに、小さな小さなメリーさんが無限に連続して畳みこまれているかと思うと、私は何か、深淵に吸込まれてゆくような気がしたものだった。」と澁澤龍彦はいっている。そして、ココアの箱に描かれた、レースの帽子をかぶった田舎娘が同じココアの箱をもって、ほほえみながらそれを指さしている絵を見て、「無限の観念に最初に触れた」と『成熟の年齢』で書いたミシェル・レリスを引用している(「反対日の丸」)。

  子供は変なアイデアを思いつくもので、「ねえ、日の丸をつくって」と母親に要求したそうだ。日の丸は白地に赤であるから、つまりはパンの全面にコンデンス・ミルクを塗り、その中心に赤いジャムの丸を描くわけである。妹たちに自慢しながら食べていると、やがて妹たちも真似をするようになり、大はやりになった。そこで今度は「反対日の丸をつくって」とこっそり頼むことになる。反対日の丸とは白地に赤くの反対の赤地に白くであり、ジャムの地のうえにミルクの丸を描く。この新機軸で澁澤少年は「得意満面」になる。「『ミルクとジャムのおかげで弁証法の観念を知った』ということにはならないだろうか」と澁澤龍彦は書いている。

  父親から聞いたハレー彗星の話に「形而上学的な恐怖」を感じる(「星」)。動物園にいるナマケモノやオオアリクイといった珍妙な動物をみることから、科学者はまずテーマを決め、そのテーマを証明するためにエヴィデンス(証拠事実)を集めるが、神さまも同じように、ナマケモノやオオアリクイといったテーマに固執して、それを満足させるようなエヴィデンスをかき集めた結果「やむを得ず誕生してきた獣」がナマケモノやオオアリクイではないかと、見事なアナロジーを見せる(「神のデザイン」)。

  「体験」の一篇は、対話体で、これらのエッセイが自分の体験の自己告白ではない、と抗弁している。そもそもなにかを体験するとは、それ以外の体験の可能性を消すことであるから、ひとつの体験はあり得たかもしれないもうひとつの体験を失うことである。そうだとすると、体験の数は誰しも永遠に変らないということになる。日常的な体験というのは、つまりはいくらでも入れ換えがきくもので、もし真の体験があるとするなら、道元の「身心脱落」のように、体験がないところに成立する「強烈な体験」だろう。確かにこれらのエッセイでは「体験」のようなものが語られているが、それらは既に見てきたように、人間関係の機微であるとか、処世上の知恵であるとかが引きだされるような体験ではないのである。

  子供のころ、お気に入りのカフスボタンを誤って呑みこんでしまった事件から「巨大な生きものの腹中に呑みこまれはしないかという、恐怖と魅惑の反対感情を伴った、無意識の感情傾向のことであり、胎内回帰願望の一変種」だというヨナ・コンプレックスを引っぱりだし、ジルベール・デュランの『想像的なものの人類学的構造』を引用して、「呑みこんだ私は、想像界では、呑みこまれた私と等価であったようだ」と結論づける(「カフスボタン」)。

 「あとがき」では、「私には取りたてて玩物の趣味があるわけではなく、ここで扱われているのはむしろ観念、あくまでも私の生きてきた観念の世界であろう。すなわち、私は観念を物のように玩弄することを好む人間らしいのだ」と書かれているが、「玩物」という言葉は「自分のことを語る」と言い換えてもよかっただろう。ド・クインシーの自伝もまた、ある面でこうした澁澤龍彦のエッセイに近しい。妹の死や幼い娼婦との交情、あるいは旅の印象や社交の話であっても、いつの間にかある観念や形而上学的な夢想を語ることに移行するので、自伝のなかに登場するさまざまな人物や場所はあまり明確な輪郭を結ぶことはない。おそらくほとんどの小説がそうであるように、人物や場所の本当らしさというのは、特定のひとつの文章で得られるものではなく、微妙に角度を変えながら丹念に幾度も描かれることによってはじめて得られるものだろうが、物そのものにはさほど興味のない澁澤龍彦のように、少なくとも文章化する上において人物や場所にさほど興味がないド・クインシーは実在感をだすために丹念さを発揮することはない。

 澁澤龍彦との大きな相違は、『玩物草紙』や『狐のだんぶくろ』といった著作が、幼年期の思い出というテーマにおいて新生面を切り開いたとしても、物と観念とを重ねあわせてみるというスタイルは『胡桃の中の世界』や『思考の紋章学』といった主要なエッセイと変わらないのに対し(従って公平に見てこれらの著作を差し置いて『玩物草紙』や『狐のだんぶくろ』を主著だとは言いにくい)、ド・クインシーの自伝は、新たなスタイル、形式を発明し、自家薬籠中のものとした真の意味での主著だと言える。

 こうした観点から連想されるのは、たとえば、幸田露伴の『七部集評釈』のような仕事である。完成度からすれば中国の明初に起きた靖難の役を題材にした叙事詩『運命』や水の江戸が彷彿とする『幻談』をあげるべきだろうが、いいところも悪いところもすべてひっくるめて幸田露伴という作家のすべてが投入されているのが、芭蕉とその門弟たちが残した連句や発句の一句一句に評釈を加えた『七部集評釈』である。そこにはもちろん、露伴の俳句や詩に対する考え方があり、文学観があり、随筆があり、考証があり、史観があり、短い詩句から連想される物語の胚珠があり、露伴が行ってきたあらゆる仕事を詰めこめる伸縮自在の合切袋となっている。同じように、文学、哲学、小説、歴史、神秘思想、経済学などの広範囲にわたる知識を呑みこんで揺るがないのがド・クインシーの発明した自伝という形式であり、そこにおいてこそ逸脱の達人といわれたド・クインシーの面目が躍如している。

2014年6月26日木曜日

ブラッドリー『論理学』44

 第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

§18.「しかし、結局、名前は個的なものの記号で、意味は包括的で普遍的である。それゆえ、名前は記号がもっているような内容をもつことはできない」私は到達したいと思っている結論を示唆するためにわざとこうした反対意見を挙げてみた。ある人間の名前は個的なものの名前で、変化する個物のなかで元の姿を保っており、それゆえ、個的なものに関する判断は完全に分析的であることはない。それは与えられたものを越え、総合的となるので、それをもって単称判断のもう一つの部類に入ることになる。

 固有名詞は、常にある瞬間の現前を越えた意味をもっている。そうした名前が移り変わる知覚を通じて持続する対象をあらわさなければならない、というのは実のところ真実ではない。それが指し示す唯一無比の事物はただ一度だけ、一瞬の現前に限られる出来事であるかもしれない。しかし、その対象は、自らがはじき出された系列への関連が含まれていないとしたら、唯一無比であるとも、特殊性があるとも言えないだろう。単なる意味の分析では、唯一無比であることをもたらす制限関係を決して示すことはできない。

 そして、我々が永続し幾度もあらわれる対象の固有名を取り上げるなら、所与はより高度な意味合いにおいて超越されることとなる。そうした名前の意味は普遍的で、その使用は真の普遍性、個別の瞬間を越えた同一性を含んでいる。というのも、人が個別な人間として認められなければ、自分の名前をもつことはできないだろうし、その認知は文脈が変わっても同一のままであり続けることにかかっているからである。異なったときにおいても同一視できるような属性をもっていなければ、我々はなにものをもそれと認めることはできない。個的なものは、我々がその性質として述べるあらわれが変化しても同一なものであり続ける。それは、真の同一性をもっていることを意味している。固有名とは、実際に実在の世界にある普遍的なもの、観念内容の記号である。

 この仮定、固有名に与えられた働きが擁護しがたいものであるのは間違いない。ここで我々に関わってくるのは、この働きが現前する実在を超越するということである。「ジョンは眠っている」において、究極的な主語はそこに与えられた実在ではあり得ない。というのも、「ジョン」は単なる分析では得られない連続的存在を含んでいるからである。我々は総合判断のクラスに達したわけである。

2014年6月25日水曜日

幸田露伴『七部集評釈』35

我が祈あけがたの星孕むべく 荷兮

 前句をこのしろの供物をいただいて、天に子供を願うさまと見立て、よき一子を得たと喜ぶ様である、と古註では解釈してある。『鶯笠』は、神前に捧げて祈るのではなく、頭に戴き、潔斎断食して台上に立ちつくし、天に祈る様子があり、ただの人ではなく、だからこそ星を孕むとしたのだろう、といっている。いずれの解も笑いを催すような解である。狐の骨を戴いて変化自在の術を得ようと月に祈る、という妄談は聞いたことがあるが、このしろという名だからといって魚を差しあげて子を天に求めるということなどいまだ聞いたことがない。ことに市人ではない人が事々しく台上にこのしろをいただいて、立つ様子を想像してみると、狐に騙され惑わされた愚かな人を絵に見るようで、笑いを禁じ得ない。

 前句の魚を戴いた人を、語の縁によって、子を得ることを欲するものとみるのはいいが、その人が祈って星を孕むことを喜ぶとするから不可解な解釈となる。我が祈りと断ずる語気、星孕むべくとした口調を熟考すれば、箕を戴いた人の祈るのではないことは明らかで、もしその人が祈るならば、「明方の星孕むべく祈るなり」とか「祈りたて」とあるべきで、「我が祈」と句づくりするはずがない。

 これは子が欲しい本人が祈るのではなく、魚をもって願いをする人に対して、田舎の怪しげな修験者か僧などが鼻をうごめかして、私の祈りなどは役に立つまいが、古の人のように星を孕んで、よい子を得るように祈ってみよう、名のある人物は星がこの世に降りてきたものである、などと物々しくほらを吹いて、このしろの田楽に縁のある駄味噌を言い立てる滑稽の様を思うがいい。ここに至って、前句のこのしろをいただく人をたびたび子を亡くした女と見立て、その哀しい過去を繰り返さないように祈ってくれと頼まれた者の広言を吐く様子をつくったものである。法印とも山伏とも明言はされてないが、語気口調によって田舎の小さな祠などに巣喰っている似而非者の姿がありありと見える。

 荷兮の句、演劇っぽいところがあるのが癖である。前に出た「乗物に簾透く顔おぼろなる」という句に、「今ぞ恨の箭を放つ声」と答えたのも、演劇的である。「初雪の巻」で「奥のきさらぎを只泣きに泣く」という句につけた「床更けて語ればいとこなる男」というのも演劇めいている。「炭売の巻」で、「門守の翁に紙衣借りて寝る」に「血刀かくす月の暗きに」と付けたのもまた演劇めいている。これらのなか、「恨の箭」、「血刀」などは付けようが面白く、手柄をあらわしている。特に恨みの箭を放った人は、前句の乗り物に座っている人ではないことは論なく、箭を放ったものがどのような人物であるかは句中にはあらわれないこと、それは、「我祈あけ方の星孕むべく」という句のなかの人が、前句の魚を戴いた人でなく、しかもその人どのような人物であるか句中にはあらわれないのとまったく同じで、それでいてその人物が自ずから見えてくる。

 よく老子を解するためには老子をもってすべしという論が古人にはある。芭蕉を解するには芭蕉をもってすべく、其角を解するには其角をもってすべく、荷兮を解するには荷兮をもってするべきである。恨みの箭、祈りの星、手法は非常によく似ていて、既に彼を解しているものならばこの句を解するにおいて、自分の言葉を待つこともなかろう。ただ引用した句には手柄があり、この句はし損じに近く、演劇の興行、当り不当たりは免れないことであろう。

2014年6月24日火曜日

戦いの感動――文七元結

 『鬣』第42号に掲載された。

『文七元結』は好きな噺だが、感動するのは立川談志のものだけである。古今亭志ん生、志ん朝などでも聞く機会があったが、面白くはあってもそれほど感動に結びつくことはなかった。

左官の長兵衛は腕のいい職人だが、博打にはまった借金で身動きができなくなってしまった。見かねた娘のお久は自分が吉原に身を売って窮状を助けようとする。お久を預かっているという吉原の佐野槌の女将にさんざん意見された長兵衛は、五十両を借り受けて生活を立て直すことを決心する。ところが、吾妻橋を通りかかると、若い男が身を投げようとしている。慌てて止めて、話を聞いてみると、鼈甲問屋近江屋の手代で、店の金五十両を掏られてしまったお詫びに身を投げるのだという。いくら止めても聞かないので、長兵衛は手にしていた五十両を男に投げつけて去ってしまった。一方、近江屋ではいつまでも帰らない手代の文七を心配していた。碁に夢中になった文七は得意先に五十両を忘れてきていたのだ。余分な五十両がでてきたものだから、主人が問い詰めると、文七は橋の上での一件を話した。長兵衛の心意気に感じ入った主人は、酒を買い、お久を身請けした上で五十両をもって挨拶に出向く。長兵衛は文七の親代わりとなり、近江屋とは親戚づきあいをすることになる。文七とお久は夫婦となって元結屋を開いた。

ニーチェはこう言っている。「魂の皮膚――骨が肉に含まれ、皮膚が血管を包んでいるように、人間がある状況を耐えられるようになるのは、魂の諸情動や諸情熱が虚栄心によって包まれているからである。――それは魂の皮膚なのである。」(『人間的、あまりに人間的な』)虚栄心は見栄っ張り、あるいはプライドと言い換えてもいいだろう。

立川談志がプライドに異常ともいえるこだわりを見せていたことはよく知られている。後から入門した古今亭志ん朝が談志を飛び越して真打ちになったときには、辞退しろと迫った。また、録音が残っている手塚治虫との対談では、自分の公的な位置づけに対してなんら頓着していないらしい手塚治虫を不思議がっている。

長兵衛が猶予期限があるとはいえ娘を売った金を見も知らぬ男に与えることについては、どれほど大事な金とはいっても人の命に代えられるものではない、といった理由づけが噺のなかでもなされ、また多くの落語家によって採られている解釈なのだろうが、談志の『文七元結』ではそこが決定的に異なっていると思える。長兵衛は佐野槌へ出向いていくときにも、着ていくものがなく女房のぼろぼろの着物を剥いで身にまとう。本来なら聞くいわれのない女将の小言を神妙な顔で聞かなければならない。女将に言われていつもは威張っている娘に対して礼を言わされる。

つまり、身にまとっているすり切れた着物同様に、長兵衛のプライドも既にぼろぼろになっているのだ。金より命が大切だというのは、長兵衛にとっては一般的な倫理などではなく、生存理由の根本であり、自分に最後に残されたプライドなのである。いくらぼろぼろとはいえ、この着物を脱ぎ捨て魂(大切な娘)を選択しようとすれば、実は魂までも死んでしまうことが本能的にわかっているために長兵衛は金を投げつけるのであり、プライドを生存条件として戦ってきたような落語家が立川談志しかいないために、『文七元結』は談志においてひときわ感動的になるのである。

2014年6月23日月曜日

ブラッドリー『論理学』43

 第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

 §17.固有名の主語に関する奇妙な錯覚が広く行き渡っている。固有名詞には含意がない、あるいは、より一般的な専門用語を使えば、内包がないといわれている。通常の言語においては、それはなにかをあらわすが、何ものも意味しないとされている。

 もしそれが正しいなら、「ジョンは眠っている」といった判断においてなにが意味されているのか理解するのは困難となろう。実際、いかなる帰結も恐れず、ここではジョンという名前がこの文の主語だと語る思想家もいる。こうした人たちの敵になる度胸は私にはとてもないと告白しておく。私の邪魔がなくて喜ばしいと彼らは言うかもしれない。しかし、もし我々がより英雄的ではない解決を受け入れようとし、人間としてのジョンが判断の主語だと仮定し、名前自体はなにも意味しないとするなら、私は名前の目的をまったく認めていないことになる。なぜ名前など無視して、男を指さし、「眠ってる」と言わないのだろうか。

 「しかし、それは男をあらわしている」と答えがあるかもしれない、「彼がそこにいるのだとしても、指さすよりもっとはっきりとしたしるしをつけることになるのだ」と。しかし、それこそが私を悩ませるものである。もし、名前が使われるとき、それによって伝えられる観念が存在するなら、それがなにかを意味する、あるいは、こう言った方がよければ、「含意」があるに違いない。他方、もしなんの観念も伝えないならば、それはある種の間投詞のようなものとなろう。「これ」や「ここ」といった指さすことと観念的に等しいことを言うと、それは確かに意味をもっているが、不運なことにその意味は曖昧で普遍的なものである。なにをとっても、あらゆるものが「これ」にも「ここ」にも当てはまるからである。しかし、ジョンという名が彼を指さすことと観念的に等しいと断言するなら、私はあなたが自分でなにを言っているのかわかっているかどうか疑問に思わざるを得ない。

 「しるし」という語には二つの意味があり、恐らく我々はそれを混同している。それは、区別の手段としてつくられたものかもしれないし、そうした手段の結果つくられたものである場合もある。推察するところ、私には推察する以外ないのだが、ここではしるしは最初の意味にとられているのではなく、従って、彼は他の人間と異なった人物として捉えられておらず、ジョンというしるしのついた人間として見いだされている。しかし、後者の意味をとると、名前というのはそれが記号であるがゆえにしるしであり、しるしと記号とは同一のものとなる。

 さて、記号が意味を欠いていることはあり得ない。もともと任意のしるしとしてつけられたものがその過程において記号となり、それが意味する事物としっかりと結びつくことで、その事物の性質や性格とも結びつくことになったに違いない。もしそれがある程度まで事物を意味しないなら、その事物をあらわすことなど決してできないだろう。それでは、それが指し示すものがわかっている固有名詞がなんの観念ももたない、あるいは偶然のつながりによる観念しかないのだと言うことができようか。観念がすべて取り払われたとしたら、単なる名前とそれがあらわす事物との間にどんな関わりが残されていよう。すべてが一緒に消え去ってしまうだろう。

 あまりに自明なことなのでどう説明していいかわからない。記号の意味は、もちろん、固定される必要はない。それがあらわす事物もまったく一定不変だろうか。もし「含意」が不安的なものであるとしても、「明示的意味」は決して変わらないものなのだろうか。後者が固定されているところでは、前者も(その限度内で)変化しない。「ウィリアム」という言葉がなにを含意するのかなんの観念もないということはあるかもしれないが、そのとき、あなたはその言葉がなにをあらわしているのかほとんど知ることはできないのである。すべての問題は単純な誤りと誤解からきている。

2014年6月22日日曜日

幸田露伴『七部集評釈』34

箕にこのしろの魚をいたゞき  杜國

 鰶を昔から「このしろ」と読み、また鯯も古くから「鯯」と読んできた。本によっては鮗とあるものもあるが、鮗もまたこのしろであり誤りではない。『新撰字鏡』に見えるもので、難ずる者は却って間違っている。字彙字典に見えないからといって俗において通じていることを斥けるのは、心が狭い。

 このしろは子の代に通じる。それによって室の八島の伝説がある。室の八島に翁が住んでいた。ひとりの女があったが、大変美しかったので、国主がこれを召した。翁も女もその命令に従うことを欲しなかったが、罪になることを恐れて、翁は偽ってその女は病んで死んだといい、棺に多くのこのしろを収めて荼毘に付した。このしろを焚く匂いは死体を焼く匂いに似ている。翁と女はともに逃げる、とある。

 また、上古の世に、室の八島に鬼がおり、人の子を奪って食らうことが多かったので、ついにはこのしろを焼いて門に置いた、鬼がきてこのしろを取って人を取らなかったので、それから鮗を子の代という。「下野の室の八島に立つ烟誰が子の代とつなし焼くらむ」という古い歌がある。

 この二伝説の前者は『竹取物語』の匂いがあって、しかもその高貴さと田舎っぽさのさ、富士の高嶺の烟と室の八島の烟とのようで、かぐや姫の物語があってのちにこの物語が出たのではないかと疑われる。

 後のは鬼子母神に石榴を供する話に似ている。いずれにしろこれらの伝説は「つなし」を「このしろ」ということからできたもので、これらのことがあってからつなしをこのしろというようになったのではない。「誰が子の代」の歌はその調べがさして古いとも思えず、却ってこのしろという語は既に古くからあって、『日本書紀』に塩谷鯯魚という人があり、鯯魚は「このしろ」と読める。つなしは大伴家茂の鷹の歌に見える。「誰が子の代」の歌の調べは、塩谷鯯魚、大伴家茂のころより後のものであることは明らかである。

 だとすれば、こうした伝説は事々しく考え論じることはないが、ともかくこのような故事があってそれより転じたことか、田舎などで子の生れては死に、また生れては死ぬことがあるとき、胞衣とこの魚とをともに地に埋めればその子が成長するという俗な呪法がある。これによってこの句を解して、牛がたびたび死ぬので、死なないように魚を埋めて祈るさまだというものもある。うがち過ぎの解釈も甚だしく、支離滅裂で論理をなさない。死んだ後を弔って魚を埋めるということはさらに不可解で、人の子と牛となんの関わりがあろうか。古解には頼りないものが多いが、これは甚だしく通用しがたい解釈である。

 あるいは、牛は生け贄にするものであり、このしろも生け贄に供えると見えるので、だとすれば鬼のためには人を生け贄にした方がいいだろうと解するものもある。この解もまた意味が明らかではなく、何のことを言っているのかよくわからない。また、室の八島の面影だというものもある。室の八島の面影とは、一句だけを見ればそうとってもいいだろうが、どのように前句と続くのか、この解もまた理解しにくい。あるいはまた、室の八島のこととは関係がない、この句はただ籠にこのしろをのせて夕暮れまで売り歩く市人があり、夕風が寒いのに牛を弔うものもあれば、こうした市人もある浮世の様を付けたのだという説もある。この解は淡泊で却って通じているようにも思える。けれども前句の牛の跡吊ふは前々句の琵琶打に対して傍ら付であり、この句で再び草の夕ぐれに立つ人に対して市人を傍ら付けにしたとすれば、付け方に変化がなく、あまりに幼くて、興もなく、習わしにも違えていると前人が評したのももっともなことである。

 あるいはまた、前句を流行病で多くの牛が死んだのを草むらに塚を築いて供養する体と見立て、村人がその経費を持ち寄る様を付けたもので、その浦の漁師たちは各々一籠ずつの魚を持ち寄って、僧へのお布施としたものだというものもある。この解はいいようにも思えるが、多人数の漁師が一籠ずつもって牛塚のあたりに集る様子を想像すると、異様で、笑うべき怪しむべきことである。漁師が布施で魚を用いるのは聞いたことがあるが、牛にこのしろを供えるものでもなく、牛塚のそばで籠の魚をもらっても僧も困ってしまうだろう。前句に夕暮れとあるので、寺中とは思えず、また死んだ多くの牛を田舎の小さな寺に葬るとも思えないので、どちらにせよ野外であるはずだが、そこに魚を持ち寄るのはどうしても受けいれがたい。この解は正しいようにも思えるが、やはり通じがたい。

 室の八島のことはここに引用する必要はない。一籠ずつのこのしろを持ち寄って僧へのお布施とするというのも穿ちすぎている。ここはただ句のままに、簀にこのしろの魚をいただいていると解釈すべきである。市人ではなく、漁師でもなく、ただ前句に死んだ牛の主である。牛仏の牛ではなく、ごく普通の飼い牛を埋めた草むらを通りかかって、唱題か称名をした人である。前句のとむらうという語を重く取って、仏事供養など、牛仏の昔話をいまに移したように扱うことから、解釈が重たいものとなって、箕にこのしろの魚をいただきという軽く、脱然としたこの句のおもむきを忘れてしまうこともわかるが、称名一片もとむらいであり、合掌一年もとむらいであり、心を向けて情をもって思うことはみなとむらいであって、前句の本来は重くこの句の素性は軽いものであることを考えて、前句の弔いとあるのをこの句では軽くとっているのを悟るべきである。

 牛は馬よりも険しい山道に堪えることもあって、山中にも用いられるが、山が海に交わり、海水が山に迫るような海辺の地でも用いられることが多く、房州紀洲の島などに少なくない。このことを知れば、この句は解するまでもない。魚を戴くとあると漁夫とし、とむらうとあればすぐに僧が読経するように読んでしまうために、漁夫が牛を飼い、僧がもらったこのしろに困ってしまうといったような解を産むにいたる。

 また箕は元来農家の用具で漁師の道具ではない。牛もまた運搬や耕すために用いる家畜で、草を刈ったり釣りの役に立つことはなく、ただこのしろの一語があるためにこの句を漁夫のことにするのは、早計即断と言うべきである。句のままに解すれば、箕をもっているのは、むしろ漁師ではない風情が見え、ほと遠くない浜辺からこのしろを買って道行くものが、日が暮れ始め闇が目に付き始めたとき、自分の牛が死んだのを埋めた地のそばを通って、南無阿弥陀仏と弔ったものである。

 このしろは魚のなかでも尊いものではなく、牛馬の捨て場は村はずれにあるものなので、よくこの句を味わえば、人、場所、時、情、絵のようにあらわれでて、村のおもむきや野景のいいようのないさびしさ、眼前にある心地がする。詩を解するのは、理を追って得るべきではない、感じて会得するべきである。この句が前句の人のありさまをあらわしたものであることは疑いがない。俳味が十二分にある面白い句である。連句のことをいうものは試みに考えてみたまえ。この箕をいただけるのは男か女か、と。

2014年6月21日土曜日

西方浄土に珠をはしらせ――俳句

 『鬣』第40・41号に掲載された。

管ゝに晦日狐の声を聞き

縁日の茗荷法師の虚仮の行

座頭市が三途の川で瀬踏みをし

贋の記憶 負われた背中で酒をのみ

仏に会えば仏を殺す幇間(たいこもち)

こけつまろびつ桃尻流の行軍術

爛々たる雪仏のいる光堂

天神祭無筆の犬がべうと吠え

2014年6月20日金曜日

ブラッドリー『論理学』42

 第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

§16.更に一歩進んで、「この鳥は黄色い」、「あの石が落ちていく」、「この葉っぱは枯れている」といった判断を取り上げても、なんの変わりもない。文法上の主語としてある観念は、確かに、非限定的な参照、指示の記号以上のものである。状況から一部分を区別するばかりでなく、それを性格づけ、性質を与えている。しかし、先にそうしたように、主語ということで観念ではなく、現前する事実を意味するならば、今回もその真理は変わらない。「この鳥」ということでシンボル化される単なる観念を我々は述語によって言い立てようとしているのではない。「この鳥」によって区別され、性質づけられる事実に向けて、述語である「黄色」は向けられている。本当の主語は知覚されたものであり、その内容を我々の分析が「この鳥」と「黄色」に分け、そのまとまりにある観念的諸要素を我々が間接的に叙述する。

 同じことは、多様な分析判断のどんな場合にも当てはまる。文章を複雑にしてみよう。「乳搾りの娘に乳を搾られている牛は向こうの山査子の木の右側に立っている」この判断には、一つではなく幾つもの事柄があり、その関係も一つではすまない。それでも、それは、現実的な主語であり、真の実体である現前する状況の一部であり、この複雑な文は間接的にそれについて言明している。もしこのことを否定するなら、どこで線引きをし、判断のどの点において観念が感覚される事実に取って代わり、真の主語となるのか示してもらいたい。そして、言明を観念に関するものに限るがいい。牛と山査子の木と乳搾りの観念要素をとり、それを好きなように観念的に結びつけてみるがいい。そして、結びつけ終わったら、事実の前に立ち、この事実は判断のうちにははいらないのだろうか、と自問してみるがいい。事実を前にし、反省してみれば、観念だけを扱っていたのでは、言明から自分が意味していたことを抜き取る結果になるとわかるだろう。§20でこの点に立ち戻ることになるが、ここではよくある誤りを見てみることにしよう。

2014年6月19日木曜日

幸田露伴『七部集評釈』33

牛のあと吊ふ草の夕ぐれに  芭蕉

 古註に、これは『大和物語』の面影だと言っているのは良くない。『大和物語』に同じ女(南院の今君で、右京のかみむねゆきの女)巨城が牛を借りて、また後に借りにやったのに、奉った牛は死んでしまったといった。返事に
  我が乗りしことをうしとや消えにけむ草にかゝれる露の命は、とあった。句には牛とあり、跡吊ふといい、草といい、歌には牛とあり、消えにけむとなり、草とあるので、いかにも縁なきことはないようだが、このことの面影としては前句との係りがなく、付け方がはっきりしないので、漠然として捉えどころがない。

 この句はその歌とは関係しない。これは『栄花物語』の牛仏の面影である。同物語望月の巻に、「この頃(万寿二年)聞くところによれば、逢坂の方の関寺というところに、牛仏があらわれて、沢山の人が参り見た。この頃この寺は大きな御堂を建てて弥勒をつくり奉った。神木や大木をこの牛だけで運び上げた。哀れな牛だとだけ寺の聖は思っていたが、寺の近くに住む人が牛を借りて、明日使おうとして置いておいたその晩の夢に、我は迦葉仏である、この寺の仏をつくり堂を建てさせようとして、過ごしてきたが、ただ人はどのように使うべきものか、と見たので、起きて、こうした夢を見たといって拝み騒いだ。牛は黒く小さくて愛らしいものだった。繋いでなくても去ることはなく、普通の牛には似ていない。入道殿(関白道長)をはじめ奉って、世の中の人々に参らぬものはなく、様々なものを奉った。ただ帝東宮の宮々だけが訪れなかった。この牛仏、何となく悩ましげな様子が見え、亡くなってしまうだろうと人が参り、聖は御姿を描こうと描いた。こうしたことがあったとき、西の京の大層貴い聖の夢に、迦葉如来当入涅槃、諸仏薩埵当得結縁とだけみえたので、多くの人が参り、歌を詠む人もおり、和泉(式部)
  聞きしより牛に心を掛けながらまだこそこえぬ逢坂の関。多くのことが聞えてくるが、同じことなので書かない。日頃、この姿を書かせて、六月二日に眼を入れようとしたが、その日になって、御堂を牛が見巡り歩いて、元のところに帰ってきて、やがて死んでしまった。像に眼を入れるときがきて死んでしまったのは、哀れでもあり、めでたいことでもある。聖は非常に悲しんで、そこに埋葬し、念仏して、七日ごとに経仏供養をした。のちには、それを描いた像を内でも宮でも拝ませた。こうしたことがあったので、本当の迦葉仏はこの同じ日に隠れてしまった。いまはこれらの弥勒供養していたこの聖も急ぐことになった。誰も草を取って参っているもののなかに、お参りしないものがあれば、罪深いものだと定められた。」とある。

 これで「牛の跡吊ふ草の夕ぐれ」の一句は自ずから明瞭なものになり、とくに吊ふ草の夕ぐれと続く句づくりの力があるさまが人の眼を射て、にの文字ただひとつに無量の味があることを思わせる。

 琵琶の道の祖師であるかのような蝉丸の宮も逢坂山の住居の跡にあり、関寺の門内にある牛の塔も逢坂山のなかにあり、両者は近い。蝉丸の古跡も牛仏の古跡もともに同じところにある。よって前句の琵琶弾く人を逢坂山の蝉丸の宮へ詣でるものと見なし、その同じ夕ぐれにこちらは結縁の草を取って牛仏へ詣でるものが、自分はこうだが、彼はこうだと、同じとき同じ境遇にあるが相違し背を向け合っているものを、にの一文字で、眼と眼を互いに見て、心と心を互いに感じさせる、そこに言葉にもできず捉えることもできない情趣や興味があるというべきである。

 にの一語には、指定の意味があることはもちろんだが、また反撥の意味があることも見過ごすべきではない。釈迦に説法、月夜に提灯というように、また花に嵐、月に雲というように、また、帰らしやんすかこの雨に、というように、みな指定から一転して反撥の意味合いを含んでいる。『猿蓑』灰汁桶の巻、「あぶらかすりて宵寝する秋」という句に、「新畳敷ならしたる月影に」とある「に」の字をよく味わえば、月が鮮やかなのに宵寝する人をどう思っているかの風情があることを見てとれる。に文字で句を止めるのを軽率に行なうべきではない、と旧伝にあるのもゆえなきことではない。

 この句の「に」などは、味わうほどに味がある。ただ単に指定の「に」だとすると、何丸の解のように、牛仏へ参る群衆のなかに、木槿をかざした琵琶打は蝉丸の宮へ詣でたる人であった、と一転しただけに過ぎない。また反撥の意味を強く含めて解すれば、曲齋がいうように、牛仏を拝もうとするものが、蝉丸の宮へ参る狂客を見おろして、ああ罪深い人だと歎く、という具合になる。曲齋は過ぎたところがあって、何丸は及ばないところがある。芭蕉の意図は、必ずしも曲齋が解いたようにはならないとしても、また何丸の解釈したように、ただ一転して琵琶打を奪ったのみでもない。感慨を言葉の外にあらわし、情状を眼の前に映す、これが「に」文字の妙だといえる。別に禅の十牛図の意味をもって解するものもある。従いがたい。

2014年6月18日水曜日

夢から身を守る法――泉鏡花『春昼』

 『鬣』第40・41号に掲載された。

  
鈴木清順の映画『ツィゴイネルワイゼン』が内田百閒のいくつかの短篇から成りたっているように、その次の作『陽炎座』は泉鏡花のいくつかの作品からできている(脚本はどちらも田中陽造)。しかし、基本的な骨組みとなっているのは『陽炎座』ではなく、『春昼』である。もっとも舞台は映画とは違って金沢ではなく、鎌倉と逗子の中間あたりの湘南地方となっている。

この小説が書かれた当時(明治39年)健康を損った鏡花は逗子に移り住んでいた。小説中「散策子」と呼ばれている男は名前の通り特に目的もなく歩いている。畑仕事をしている爺さんにすぐそこの屋敷に大きな蛇が入っていったことを教える。爺さんは自分はその家の者ではないが、顔なじみであるし、東京から来た女性ばかりの所帯であることはわかっているから、すぐ伝えに行こうと答える。爺さんと別れた散策子は久能谷の観音堂にたどりつく。そこで数多く張られた巡拝の札を見ていると、ある柱に懐紙の切れ端に女文字で「うたゝ寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき」という小野小町の歌が書かれ「玉脇みを」という名前が添えて張られていた。観音堂の出家と話しているうちに、その歌が張られた由来を聞かされる。玉脇みをとは、先ほど蛇が入ったことを教えた屋敷の主で、大財産家の細君であるという。観音堂の庵室に逗留していた男がこの細君を一目見て恋に落ちた。細君の亭主というのはひょんなことから金を手に入れた成金で、細君はあまり幸福な境遇とはいえないらしい。

鏡花の通例としてこの恋に落ちた男と玉脇の妻とのあいだに実際にどれほどの交渉があったのかまったくわからないのだが、ある晩、男が堂の裏手の方から笛太鼓、囃子が聞えたのに誘われたように山のなかに入っていくと、いつか平地に出て、うずくまった何者かが拍子木を叩くと、山腹に見えたところに幕が開き、舞台には玉脇みをと背中合わせに坐っている自分自身の姿があった。その後、男は海に入って死んでしまう。続篇の『春昼後刻』は出家の話を聞いた散策子が実際に玉脇みをに会い、みをもまた海に身を投じて死んでしまう、といういわば解決篇のようなものだが、それだけに夢ともうつつともつかない玄妙な雰囲気を失っているようにも感じられる。

『春昼』の夢幻的な性格はどこからきているのだろうか。ひとつには出家から話を聞くという入れ子状の叙述方法にある。鏡花にはしばしばあることで、たとえば、『草迷宮』という中篇は幼いころ死に別れた母親の手毬唄を知る幻の女性を求めて化物屋敷にとどまり続ける若者の話なのだが、様々な人物が周辺的また枢要な事情を語り継いでいき、主人公の若者が実際に行動するのは全体の三分の一にも満たない。つまり語りの構造こそが迷宮になっている。『春昼後刻』の冒頭で、夢は目覚めれば夢だが、目覚めなければ現実となってしまうと散策子が述懐する場面があるが、夢こそは最強の入れ子であろう。

さらに、恋に落ちた男の聞いた笛太鼓と囃子がある一方、散策子のいまの時点にも停車場の落成式の賑やかな音が聞えてくる。どんな男だったんです、と散策子が聞くと、出家はちょうどあなたのような方で、と答える。散策子のいまもまだ目覚めていないだけの夢なのかもしれないと思われてくるのである。男と玉脇みをは現実もまた所詮夢に過ぎないと、死んでしまう。おそらく、他人から話を聞くという形式は現実を夢の力から守るためのホメオパシー療法というべきものなのだ。迂闊に現実に向かうともうひとりの自分を見て、夢と現実の区別がつかなくなる。

2014年6月17日火曜日

ブラッドリー『論理学』41

 第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

§15.B.次に、主語が表現されている分析判断に移ろう。述語の観念内容はここでは、主語としてあらわされる別の観念を指し示している。しかし、先の場合と同じく、この場合も、究極的な主語は観念ではなく、現前する実在である。それに向けて、二つの観念の内容とその関係が帰せられる。観念内容の総合はあらわれているものの(a)全体か、(b)部分かの述語とされる。

 (a)「いまがそのときだ」、「すべてがもの悲しい」、「いまは真っ暗だ」というような判断においては、ある観念が先行する部分の語られていない指示対象をあらわすものとなっている。しかし、どの場合も、主語は同じである。確かに、観念が実在と述語の間に介在し、主語の場所を占めてはいる。しかし、少し考えてみれば、こうした文の主語は現前したものであることがわかろう。直接的な主語は、単純なものであれ関係を具体化したものであれ、所与の実在全体を指し示す記号である。

 (b)呈示される事実が感覚される状況の全体ではなく、その一部分でしかないとき、我々は更に進むことになる。「あそこに狼がいる」、「これは鳥である」、「ここに火がある」というときの「あそこ」、「これ」、「ここ」は確かに観念であり、疑いなく判断の主語をあらわしている。しかし、それらを調べてみればすぐに、再び我々は実在に向けての指し示し、今度は非限定的で総体的な実在ではなく、区別され指示された実在への指し示しを見いだす。それらの観念が判断の真の主語なら、黙って指を指すことも同じくそうであろう。

2014年6月16日月曜日

幸田露伴『七部集評釈』32

巾に木槿をはさむ琵琶打  荷兮

 巾は元の意味は小さいきれであり、ゆえに手を拭うものを手巾といい、すなわち手拭であり、食器を覆うものを巾羃といい、すなわちいまの俗語の布巾である。髪を隠すものも巾といい、すなわち頭巾であり、露を受けるもの、髪を覆うものがそれである。ここで巾というのは、字通りに採れば髪を覆うもので、頭巾も巾の一種なので頭巾の上略と考え、蝉丸の像などがかぶった頭巾と心得るべきである。

 木槿は俗に木はちすというもので、花に紫白紅があり、小さな樹で藩の籬にするものであって、人家に少なくない。琵琶はひとつには琵琶を弾ずる人、二つには琵琶をつくる職人である。

 打つという語の意味は甚だ多く、そのなかにものをつくりだすという意味がある。饂飩を打ち、蕎麦を打つというのは、打ってつくりだすものではないが、打つといい、手打ちとさえいう。鍛冶をかぬちというのは金打のつづまったもので、刀をつくるのも刀を打つという。これは打ってつくるものである。仮面をつくるを面を打つといい、その職人を仮面打という。これは彫ってつくる。綿を打つのは弓の弦を撃って弾くためにか、その職人も綿打という。ここでも仮面打などのような言葉の使い方をしていると心得、琵琶をつくる職人と解釈すれば難はない。

 しかしそれでは一句の意味が通じにくい。琵琶を弾くものを琵琶打という例もあるので、論ずるまでもないと思われるが、太鼓、小鼓、羯鼓(台において両面を打つもの)などとは異なり、弾くことを打つとは言いがたいように思われるので、躊躇される。『源平盛衰記』妙音院太政大臣師長西国へ流罪のくだりに、「琵琶を据えて撥を取り、弦を打ち鳴らした」とあるのを引いて、琵琶を弾ずるを打つといっても難がないとする古註は、証拠の挙げ方が強引で、頼るべきではない。

 字としての打を論ずると、打火などのだと同じ用い方で打曲という言葉もあり、打曲は曲を演奏することである。もし木槿を挿むではなく、巾に木槿を挿琵琶打とあれば、汝揚王の故事の本拠となる文中に打曲の字が見られることから、その字を用いたと解釈して、巾に木槿を挿み琵琶打く(ひく)と読むことも可能だが、古来の諸本みな「挿む」とむの字が厳然としてあるので、琵琶打の一語はどうしてもなにかするものの名詞として読まざるを得ない。とすればいささか無理はあるが、琵琶打は琵琶を弾ずる人と解するのも一解である。

 木槿は理由もなくここにでてきたわけではない。唐の南卓の『羯鼓録』に、「汝南王璡は寗王の子であり、容姿に優れ、藩邸でも傑出していたが、玄宗に特に鍾愛され、自ら教え導いた。またその賢明で悟ること早く、音楽に優秀なことをしって。遊行にも従わせ、一刻も手放すことがなかった。かつて絹の帽子をかぶって曲を打した。帝自ら紅の木槿を摘んで、帽子の上の笡に置いた。どちらも滑り落ちてしまい、長らく技術を磨いた。遂に舞山光一曲を奏して花を落とすことはなかった。貞大いに喜び、笑って金を与え、誇って真に花奴にして、資質は明敏、肌と髪は光って細く、人には非ず、必ず神仙の流れを汲むものだろう、といった」とある。

 笡は魚を追い込む網代のように真っ直ぐに薄い竹を編んだもので、廂帽のようなものだろう。玄宗は音楽に精通し、特にその性質が俊邁であり、琴を好まず、羯鼓のように焼けつくような響きの明らかなものを喜んだという。花奴は璡の幼いときの名である。そのことをもとにして、蘇東坡が李公択詩をつくって戯れた奉答の詩に、「汝陽はまことに天人のようで、絹の帽子に紅槿をつける」という句もある。羯鼓は、宋璟が言うところによれば、頭は青山峰の如く、手は白雨点の如くなるをよく奏するものとした。頭は動かず、手は急であることをよしとしたのである。汝南が帽子の上の花を落とさないでいたことに、玄宗が大いに喜んだのももっともだろう。

 この句この故事を踏まえてつくったことは疑いないが、おおよそ楽器のなかで打つというのは鼓のたぐいで、方響なども打つというべきだが、大琴は鼓すといい、琴、箏、琵琶、阮咸琵琶などは弾ずというのが普通で、巾を木槿にはさむは、例の俳諧で差支えないが、琵琶打は読むものを迷わす。琵琶を弾ずる人を琵琶法師というが、それも平家琵琶以後のことであり、琵琶を弾じたる人を琵琶なんとかと賤しく呼んだことも聞いたことがない。

 結局琵琶打の一語が耳に疎いために、妥当は解釈を得られない。だが、一句は汝南王璡の故事に基づいてつくったことは明らかだというべきである。汝南王の紅の木槿はは帽上の極めて滑りやすいところに置かれ、それを髪の巾にはさむとし、汝南王のように端然と弾くほどの妙技があり、頭をどれほど振っても花の落ちぬようにとの心構えのおかしさを俳諧とした。また汝南王が打ったのは羯鼓であり琵琶ではなかったのを、琵琶としたのはこれもまた俳諧の作為で、また実際に羯鼓はあまりわが国では用いられず、琵琶は風雅の人の間で行なわれたものなので、このようにつくった。

 帽子を巾に、羯鼓を琵琶に、妙技の面影を凡庸な技の戯れとするのは、すべてこれ俳諧の作為で、前句の詩仙堂のすべて唐めいた月見の会に、琵琶弾くものがあって、坐客の一人が、汝南王の故事を思いだして、戯れにその頭上に木槿の花を挿したが、弾くものはそのままに曲を奏する、そこを「木槿を挿む琵琶打」といったもので、一句の中心は木槿にあり、木槿は詩仙堂の籬などにあったのだろう。月としては木槿は夏だが、俳諧には秋の季のものとして用いている。この句前句は詩仙堂に雅人の観月の会をするものと見て、秋の句を承け、木槿に唐めいた一座の興趣をあらわした。

2014年6月14日土曜日

ブラッドリー『論理学』40

第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。


§14.しかし、これは先走りである。現在我々が明確にしたい結論とは、実在のあらわれるいまここは不連続で別個の瞬間に限定されるものではない、ということである。それは我々が直接に関係をもつ連続的内容の部分である。調べてみれば、いまここの向こうに溶け込む縁にも、最初に与えられたもののなかにも流れのとどまるところはない。ここのなかにはここと向こうがある。時間における変化の絶え間ない進行のなかで、視点を最小限にまで狭めることはできるが、静止を見いだすことはなかろう。あらわれとは常に消え去り往く過程であり、我々が現在と呼んでいるこの過程の持続には定まった長さなどない。

 もっと進めば、このような考察で我々が踏み迷うことはなかろう。さほど遠くない時期にこの問題には再び戻ることになるだろうが、いまは以前に述べた(§7)判断形式についてよりよい見地から再び議論をせねばならない。

2014年6月13日金曜日

元素記号でいろはにほへと――俳句

『鬣』第39号の掲載された。

花の城降りの道に牛の牢

先(せん)の世の晩秋の夜の狸汁

一面の養殖金魚の唐衣

易経や日に三度目の風呂を立て

春のおでかけ 九変化して書く酔郷記

蔵でのむ柚の香のする濁り酒

夏の夜は繻子天鵞絨の波に溺れて

目張りには『宗門改め航海記』

2014年6月12日木曜日

幸田露伴『七部集評釈』31

日東の李白が坊に月を観て  重五

 李白は酒客であり詩仙である。「李白一斗詩百篇」という詩句も名高いので、前句を酉水一斗盛り尽くすと取って、月を賞しつつ飲み明かすさまを付けたという古解には従いがたい。うがち過ぎの解釈というべきである。日東の李白は石川丈山であり、丈山の詩仙堂を訪ねた山素堂の六言の詩の句に、「先に日東李杜を尋ね、中華仙顔と静かに対す」とあるのからきたいう江戸の成美の説は成り立つが、挙げた出典の肝心なところを逃し末を取っている。

 丈山の詩集『覆醤集』の上巻に、丈山と朝鮮中直大夫詩学教授権侙と応酬した詩があり、当時権侙は丈山の詩を読んで、「古人は楊伯起を関西の先生としたが、君を日東の李杜とするのも妄言ではない」と賞讃したことは、同書の野三竹の序文、並びに松昌三の序文に見られる。権学士は菊軒と号し、寛永十四年の朝鮮使節一行中の詩客だった。素堂の詩句もこれに基づいただけである。

 酉水の陋劣な解釈は論ずるにたらぬが、ただ前句の調べも唐風のものなので、唐土三十六詩仙を描いてそれを祭り、自分もまた日東の李杜と言われた丈山の昔の住まいである詩仙堂を取り上げて、そこで月を賞し夜を更かすと付けただけのことである。李白と言ったのは李杜といってはこの場合面白くないからである。日東の詩仙堂に月を賞するとしたのは、詩仙堂十二景のなかに「池の畔で月を望む」があり、丈山の詩に「小池の小楼の垣根で、涼しい夜を悠々とす」の章が同書に見え、その句中の小楼というのはすなわち嘯月楼であることも、同書に「癸未の秋静軒とともに我が嘯月楼に登る」の詩があるのをみてもわかる。凹凸のある場所にある楼、山上の月に四方は明るく、この句はこの句で面白く、前句との係りもまた面白く、難がなく伸びやかである。

2014年6月11日水曜日

ブラッドリー『論理学』39

第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

 §13.しかし、こうした込み入ったことはそのままにしておかなければならない。(言ってみれば)知覚にあらわれる実在は単一の瞬間にあらわれるのではないことを知ることで満足しなければならない。しばらく立ち止まり反省してみるなら、我々がどれだけ迷信にがんじがらめにされているかがわかるだろう。我々が実在を求めるとき、我々は空間と時間のなかでそれに出会う。絶えまのない変化の連続的な要素が我々の前にあるのが見いだされる。我々は観察と区別を始め、その要素は出来事の系列になる。そこで我々は大ざっぱに事を済ませてしまいがちである。実在する出来事には現実の鎖が存在し、この鎖がどのようにしてか我々を過去に送り、あるいは我々がそれに添って進み、環のところまで来るとその装置は止まり、それぞれの環を我々の「ここ」と「いま」として迎え入れるかのように語ってしまう。だが、我々はいまここにない残りの環が同じように存在していると信じているわけではなく、そうであれば、鎖についても確かなことは言えないこととなる。そして、いまここにある環も確固とした実体ではない。それを観察だけしてみるなら、その部分がいかようにも分割できる流動的連続で、いくつかの他のいまによって区切りをつけなければいまとはならない。

 あるいは、我々は、自分がボートに座り、時間という流れをくだり、岸には扉に数字のついた家が並んでいる、という具合に考えているように思える。ボートから下り、19の扉をノックし、再びボートに乗ると、突然20の前にいるのがわかり、前と同じことをして21に進む。その間にも、過去と未来のしっかりとした列が我々の前にも後ろにも拡がっている。

 もし本当になんらかのイメージをもつことが必要なら、次のようなものの方が悪くはないだろう。完全な暗闇のなか流れの上に吊され、流れを見下ろしているのだと想像してみよう。流れには岸がなく、水面は浮遊物で覆われいっぱいになっている。我々の正面の水面には明るく照らされた場所がありその範囲をたえず広げたり狭めたりしていて、流れに過ぎ去っていくものを我々に示している。明るく照らされたこの場所が我々のいまであり、現在である。

 もう少しこのイメージに乗っ取って進み、後の結論を先取りすることができる。照らされた場所と完全な暗闇があるだけではない。上流と下流双方に向いた青白い光が、我々のいまの前と後ろを照らしている。この青白い光は現在の光がもとになっている。我々の頭の後ろにはいまを照らしだす光を反射するなにかがあって、それが過去と未来に、よりぼんやりとした光を投げかけている。この反射の他は完全な暗闇である。光のなかでは、我々の真下に来るに従い明るさが徐々に上がっている。

 このイメージでは、抜け目なくしようとするなら、二つのことをつけ加えられる。第一に、現在の光が我々の背後から発し、光を反射するものもそれを用いていることは可能である。どちらが正解かはわからないが、いまが過去と未来に投げかける光の源であることを我々は知っている。我々が唯一知っているのは浮遊物の流れだけなので、その映像がなければ過去と未来は消え去ってしまうだろう。それに、見失ってはならないもう一つの点がある。いまの明るさと、過去と未来の青白い光には相違がある。しかし、この相違にもかかわらず、我々は流れとそこに浮んでいるものを一つのものと見ている。相違を乗り越えている。過去、現在、未来における要素の連続性を見ることで我々はそうしているのである。そのため、異なった明るさであっても、浮いているもの、別の言葉で言えば、内容の同一性によってつながりが生まれ、流れとそれが運ぶものが我々にとって一つのものとなり、我々が見ているほとんどのものが自律的ではなく、他の力を借りた形容詞的なものであることを忘れさえすることになる。いまここを越えた時間と空間が現在がそうである意味においては、厳密には存在していないことは後に見ることになろう。それらは直接に与えられるのではなく、現在から推論される。光があたっているいまこことは、それらを超越し、我々の乗り越えるべきものが依拠している実在のあらわれであるがゆえにそう推察される。

2014年6月10日火曜日

世紀末と食について――ノート14

 『鬣』第39号に掲載された。

 モース・ペッカムは、十九世紀の哲学者や文学者たちが投げだされた、あらゆる権威が破綻してしまった状況を地獄よりもたちの悪い荒野にいることに例えている。というのも、「地獄には少なくとも秩序と意味があるからである。価値が欠けていることは、神とともにある価値の存在があることを意味している。地獄は非価値の場所ではない。そこにあることは苦痛でしかないかもしれないが、居場所があるには違いない。罪は美徳の存在を意味しているが、荒地には美徳も罪も存在しないのである。」(『悲劇的ヴィジョンを越えて』)

 荒野にいる者たちは、そこから脱出する道を求めてさまよい歩く。美徳も罪もない荒野で向かう方角を決め、歩きつづけることは、一方ではその動機づけを維持するための、ある意味病的とも言えるかもしれない観念の固着を生みだし(こちらの方向で正しいはずだ)、他方ではさまよい歩かざるを得ない状況に対する悲しみや絶望感が吐露されることにもなろう。しかし、美徳も罪もない場所での悲しみや絶望感は、いかにそれが真正なものであろうとすぐに風化してしまうことになる。そこには対抗して提示されるような新たな価値がないからである。

 吉田健一がヨーロッパの十九世紀を衰弱の世紀とし、この世紀の精神をもっとも典型的に象徴するロマン主義を批判するのは、こうした風化した観念が生の実質を蝕み、取って代ってしまったからだった。悲しみや絶望感とはいっても、それを克服することによって生の実質を取り戻すためのリアルな障碍なのではなく、単なる符丁に過ぎない。したがって、言葉つきこそ深刻だが、上っ調子の抵抗感のないものとしてロマン主義は特徴づけられる。

   併し観念だけを観念的に用ゐて他の言葉に力を持たせることは出来ない。或る言葉の権威に寄り掛かるのは言葉といふもの全体に対して鈍感になることで、もし例へば絶望といふ言葉はどこにどう使つてもそれだけの働きをするものといふ態度を取るならばそれと他の種類の言葉を区別する必要を認める理由も失はれて、それならば花が咲いても家の窓から明りが差してもそれもたださう言つた景物に過ぎなくなる。又さういふ言葉の使ひ方をすれば詩では調べがいいといふやうなことでそれを読むものが運んでいけて散文でも一般に或る風に受け入れられてゐる観念を別なもの、或はもつと正確には言葉として扱つて生かすことを避けさへすれば読者に背かれる心配がない。かうして反逆の文学などといふものではなくて浪漫主義の文学の特徴は抵抗がないといふことにあり、科学と政治で一種の画一主義に走つた十九世紀のヨオロツパは文学の面でも別に神経を苛立たせるものを見出さなかつた。
                    (『ヨオロツパの世紀末』)

 こうしたロマン主義の軽薄さを鮮やかに反転させたのがポオやボードレールということになる。ロマン主義中心の文学観によれば、彼らはロマン主義的なテーマを集大成し、形式的な完成にまで導いたということになろうが、吉田健一(あるいはこの点では彼に決定的な影響を与えたと言えるヴァレリー)にとっては、ポオやボードレールはロマン主義の延長線上にあるのではなく、まったく異なった定位を示したのである。彼らは、荒野を固定観念をもってさまよい歩くこともなければ、悲しみや絶望を歌い上げることもしない。はじめて荒野で生きることを選択したのである。悲しみや絶望の代用品として集められていたロマン主義テーマは、実際にそれを生きることでまったく異なった意味合いをもつことになる。

    もしボオドレエルの詩に苦悶や絶望があるならば我々は正常な人間として辟易する筈であり、それがあるとも見られるのはボオドレエルが自分の周囲に、或はこれは全く同じことであるが、自分の精神のうちにさうしたものがあつたので丁度花の下に立つた西行のやうにそれを材料に使つて言葉を探したに過ぎない。彼は馬の腐り掛けた死骸まで自分の愛人に宛てた詩に織り込むことが出来て、それを読んで我々の精神も彼のに支へられてたじろがない。(同前)

馬の腐りかけた死骸は、悲しみや絶望感の比喩でもなければ言い換えでもなく、なにはさておき馬の腐りかけた死骸であり、そうした正確な目を働かせることがとりも直さず生の実質を保証する。荒野で生活することを決意した人間たちが生の実質、吉田健一の著作の題名でいうなら『時間』や『変化』を、観念に惑わされることなく正確に認識しはじめたのが十九世紀末だということになる。吉田健一の文章ではおなじみの酒を飲むことや食べることもまた生の実質の枢要な部分を形づくるものだと言えよう。


 アメリカの料理エッセイストM・F・K・フィッシャーは1937年のエッセイ集の序文で広く食について書かれた本を六種類に分類している。現在でもおおよそ状況は変わっていないのではないだろうか。

  食べることについて書かれた本には二種類ある。ブリア=サヴァランを真似しようとしたものとそうでないものである。前者は彼の機知を奇抜さに、愉快な逸話を退屈な思い出に変える。後者は繊細であるべきところで粗雑で、射貫くような観察よりは無愛想な統計を選ぶ。
    また、なにを食べるかについての本がある。こちらにも二種類あり、前者はレシピが書かれたものである。未消化な事実の寄せ集めであり、非常に実用的で、濡れてもいいような表紙やグレービー・ソースのような色の紙を使ってあり、分量や食物の評価からはじまり、病弱な者への配慮で終わっている――かくも衛生学にこだわることの奇妙さよ!それらは通常ドイツ、イギリス、あるいはアメリカのものである。
    他方は、簡潔で、クリーム色や光沢のある紙を使った非実際的な装幀であり、当世風の版画による挿画まである。それらは食卓のよろこびについての機知あふれる哲学からはじまり、自分の妻が寝取られているかもしれないと感じている裕福で年老いた銀行家が、妻を知る七人の紳士を招いて催す内々の夕食でのメニューで終わっている。それらは通常フランスの本である。粘液質な前者とは異なり、実用性には劣るが、より楽しいものとなっている。
    もうひとつ、非常に興味深い主題、誰が食べるかについても二種類の面倒な別形がある。前者は、熱心な出版社によって少なくとも半年に一度はカタログの「回想」の部分にそっと載せられるような本である。そのページはよく知られた名前の重みでよろめき、もみくしゃになっており、トリュフ、シャトーディケム、フィナンシエール・ソースの鶉などのうっとりするような香りが各章から立ちのぼっている。あなたはモンテ・カルロのバルコニーに無頓着な気取りをもって座り、三人の王子、一人の億万長者と差し向かいで話し、ロンドンで愉快な祝杯をあげる、彼女に神のご加護があらんことを! あるいは、黙々と食べ続ける閣僚たちでいっぱいになったジョージ王朝風のダイニング・ルームで、繰り返されることで世紀末のエピグラムとなった気の利いた言葉が取り交わされる。このジャンルは非常に衰えている――だがよく売れると言われている。
    誰が食べるかについてもう一種類の本は、時折、より不快に感じられることもあり得る。それは通常、二、三人の自称グルメによって書かれている。オックスフォード近くの趣のある古い宿屋やらカンヌ近くの趣のある古い宿屋に立つ著者の写真が載せられる。生真面目、かつ厳正な権威によってボルドー対ブルゴーニュの問題、バルザックをいつ飲むべきかが論じられ、葡萄酒、酒手、カクテルの野蛮さについての恐怖などあらゆる疑問について見事な確信をもって回答する。言うまでもないだろうが、それらの著者は若く、知的な楽しみや歓楽には事欠かず、自転車で食べ歩きをしている。(『食べることの技芸』)

 「なにを食べるかについての本」二種類のうち前者は、料理の手順やできあがりがいちいち写真で再現提示される大量に出まわっている類のレシピ本があてはまるだろう。後者は実用性では及ばないが、より楽しく、食についての哲学や機知が感じ取れる玉村豊男や小泉武夫の著作などがあてはまろうか。

 「誰が食べるか」に関する二種類の本の前者については、日本では少なくとも明治以降には社交界がなく、自伝を書くという伝統も確立されていないために、著名人とさまざまなソースの匂いが入りまじってそれを描いた人物が生きた時代の香気を立ちのぼらせる類の本にはめぼしいが、内田百閒、小島政二郎、東海林さだおの食にまつわる文章などは、特に物珍しいものが食べられているわけではないのに、彼らにしかありえようのない食に対する実存的な姿勢が見事にあらわされている。後者は、ミシュランであるとか、山本益博であるとか、またラーメン店やB級グルメを食べ歩くタイプのガイド本があてはまる。

 「食べること」について書かれた二種類の本というのが、実は一番わかりにくい。ブリヤ=サヴァランを真似しない「無愛想な統計を選ぶ」本とは、さしずめ、『味覚の生理学』というブリヤ=サヴァランの本の題名を文字通りに受け取り、機知や逸話なしにもっぱらヴィタミンの効用や栄養について「科学的に」取り扱う本があげられる。それではブリヤ=サヴァランを真似るとはどういうことなのだろうか。ブリヤ=サヴァランの本は従来『美味礼賛』という邦題で知られていたが、原題は『味覚の生理学』という素っ気ないもので一八二六年というロマン主義とその楯の両面である実証科学(いまや科学だけが信頼できる価値であり、すべてを科学に還元してしまおうとする強迫観念に至る)の最盛期に刊行された。とはいえ、この著作は空疎な観念とも、食にまつわるすべてのことを科学に還元してしまおうとするような生硬さからも一線を画している。というのも、この本の大きなテーマのひとつは、食にまつわる快楽を探求することにあるからである。味覚というものは、諸感覚のなかでもっとも多くの楽しみを与えてくれると述べたうえで、ブリヤ=サヴァランは食の快楽を次のように列挙する。

     一 食べる快楽は、節度をもって楽しめば疲労を伴わない唯一の快楽である。
     二 この快楽にとって時機・年齢・境遇の区別はない。
     三 それは少なくとも一日一回かならずやってくる。たとえそれが一日に二度三度となろうとも大して不都合なことにはならぬ。
     四 それはすべての他の快楽とまじることができる。他の快楽がない場合はわれわれを慰めてもくれる。
     五 その印象は他の快楽の印象よりもながもちするし、また意志に依存する度合が高い。
     六 食事しながら感じるのは、名状しがたいある独特の安逸感である。ものを食べることによって、われわれは消耗を回復し命を延ばしているのだ、と本能的に意識するところからこの安逸感は生じてくる。(松島征訳)


 快楽というのは個人的になり、倒錯しがちなものなのだが、バルトも言うように、ブリヤ=サヴァランはなぜか「健康な」合理性のうちにとどまっている。

2014年6月7日土曜日

幸田露伴『七部集評釈』30

秋水一斗漏れ盡す夜ぞ  芭蕉

 秋水という語の用例によれば、秋のときに出る水をいう。『荘子』秋水篇の秋水のようなものである。秋水揚波、秋水帆漲、みな同じことである。また秋は水の清むものなので、透徹した水も秋水という。劉禹錫の詩の句に、「秋水清く力なく、寒山暮れて思い多し」とあり、杜甫の詩の句に、「大児九齢にして色清徹し、秋水神となり玉骨となす」というようなものである。刀剣を詩などで秋水というのもその冷たい光を擬してのことである。また、ただ秋の河、池、沼などの水をいうこともある。杜荀鶴の詩の句に、「秋水に鶯飛び紅蓼おそし」のようなものである。

 だが、器のなかの水を、秋だからといって秋水というのはあまり妥当ではなく、おそらくはその例は稀である。ただし細心でよく考えの行き届いた芭蕉のことだから典拠があるかもしれない。また、秋、水、一斗漏盡夜ぞ、を和訓で読むべきか不明である。句意は洩れた壺から水が漏れ尽くす秋の夜の長さをいったものである。

 漏は時間を計る器で、水が出ることからその名を得た。『説文』に「銅をもって水を受け、昼夜百刻でまた漏れる」とある。一壺の水が他の壺に入る。水を受ける壺の上に銅の人を作り、それに刻みのついたものを持たせる。下に笹の舟を置いて、水が増せば舟が浮び、刻みが上がる。黄帝が作ったのが伝えられて近世に至り、わが国には天智天皇が太子であったときからあった。昼夜あわせて百刻、冬至には昼四十刻、夜六十刻、夏至には昼六十刻、夜四十刻、刻とは笹の届く刻み目である。斗は水を入れる壺を指したもので、升斗の斗と拘泥することはなく、なかが窪んでものを受けるものはみな斗と称する。

さてこの句、秋水の一語が少々妥当ではなく、前句に夏の季語である時鳥があることから、前人非常に苦しんで解釈も様々である。秋水は酒である、季節を四方に配すれば秋は西で酉の位置である、秋水は酉水で、酒である、漏れ尽くすは盛り尽くすで、一斗の酒を夜宴に尽くしたものであるという説もある。前句に謎の字があり、後句に酒客の李白の名があることからこうした解釈を下したのだろうが、牽強付会もきわまれりというところである。秋水は酉水との説は甚だしき妄陋による悪解愚解、むしろ芭蕉を戯れ殺すというべきだろう。

 あるいは、水時計の漏れ果てる暁まで時鳥を待ったが鳴かないので、お前は哀れな歌にも詠まれ詩にも作られる鳥であるのに、人の哀れを知ってせめて一声だけでも鳴くべきものだと、長い夜を待つ侘びの恨みをいう様であり、季語からいえば夏の夜にするべきなのを、長く待ったありさまを伝えようと秋を付け、無理をいう様子を見せたのにおかしみがあるという説もある。これもまた受けいれがたい。無理をいう様子を見せたというが、そうであれば芭蕉は夏の夜を強いて秋の夜としたことになり、いかに俳諧だとはいえ、真に時鳥を待っていながら、まだ宵で明けていない夏を長い夜が続く秋と欺くことになんでおかしいことがあろう。これは曲齋が、前句を哀れさの詩に用いるホトトギスと考えて、こうした解釈を下したのだろう。

 秋水は酉水だという説、夏を強いて秋にしたのだという説いずれも従うべきではない。これはただ秋の夜長を守り明かしたことをいったもので、前句の謎というのを捉えてそこに句を付けたものである。謎には字謎や詩謎があり、その種類が非常に多く、軽い文事の戯れとして我が国にも後奈良院謎合せのようなものがある。秋水一斗漏れ尽すというところにその場所の上品な様子がわかり、その人の卑しくないことも見て取れる。「金吾夜を禁ぜず、玉漏相催す莫れ」という程の宮廷ではなくとも、普通の農家や職人の家ではない。文雅の謎を解きつ解かれつすることは品位ある家の秋の夜長はふさわしいことで、眼を合わせて想像すれば情景が浮かぶ。

 前句においては時鳥は現実の時鳥で鳴いたが、この句では時鳥は謎のなかのものである。謎を解くと時鳥となるそうした謎の時鳥である。こうした取り扱いの技があって夏期の句に秋の句を付けても無理がない。いかに詩は理屈には関わらないといっても、長く待つ様子をあらわすのに夏を秋とするようなことはなく、また前句に謎の一字があるとしても、秋水は酉水だというような陋劣な易者めいた句を芭蕉があえて作るはずがないのも明らかである。

2014年6月6日金曜日

ブラッドリー『論理学』38

第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

 §12.現在が分割することのできない変化のない時間の一部で、ここといまは間断のない原子的なものだと仮定するのは間違っている。言葉のある意味において、現在は時間ではない。そこには過程がなく、変化の流れのなかにある一点である。それは流れを線引きすることであり、精神を継起している一つの出来事と別の出来事との関係に固定することである。この意味において、「いま」とは「と同時である」ことをあらわしている。それは存在を意味するのではなく、時間の系列における位置を意味している。実在は、原子的瞬間において与えられるという意味で現前しているのではない。

 我々が現前を実在と同一視するときに意図しているのはもっと別のことである。実在とは私が直接に接するもので、時間のどの部分でも、変化の連続的な流れのどの部所でも、私がそれに直面しているなら現前している。知覚に与えられたものは、たとえそれが私の手のなかで変化するにしても、それを私が知覚している限り、いまここにある。そして、この知覚において、私が特別に注意を向けている側面や部分は、また別の意味において、残りの内容よりもいまここにある。現前とは実在が私に直接にあらわれるこの持続によって満たされることである。現前としてはあらわれないと考えられるので、小さかろうが大きかろうが、出来事の継起には部分があり得ない。

 ついでに、「現前」という言葉に我々が見いだした意味の違いとその関連をおさらいしておこう。(i)時間における二つの出来事は、私の系列において同時に与えられているなら、お互いにいまである。(ii)実在は時間系列にあらわれるので、その系列に現在であり存在するものを見いだそうとする努力が原子的ないまという虚構をつくりだす。(iii)もし実在が決して時間のなかに存在することができず、そこにあらわれることができるだけだとしたら、私に接する系列の部分が私の現在になる。(iv)このことは、現前が実は時間の否定であり、決して系列において適切に与えられることはないという考えを示唆する。

2014年6月5日木曜日

主人公が積極的につくりだす迷宮――安部公房『密会』



 「鬣」第39号に掲載された。

『密会』は、ある夏の朝、呼んだおぼえのない救急車がいきなり乗りつけ、妻を連れ去るというカフカ的な状況からはじまる。安部公房がリルケとともにカフカの影響のもと文学的出発をしたことはよく知られている。

だが、同じくある朝突然に毒虫に変身する、あるいは逮捕されるカフカの主人公が不得要領ながらもおかしな状況をなんとか打開しようとするのに対し、『密会』の主人公は、むしろ、おかしな状況をよりややっこしく、面倒なものにしていると言った方が実状に近い。

妻が運び込まれた病院が特定され、病院の外に出ていないことがほぼ確実となったとき、男は妻を見つけだすために直接的な手段をとることはしない。つまり、病院を隅から隅までまわって見つけようとはしない。運び込まれた外来待合室から妻がふっつりと姿を消すには共謀者が必要であり、あるいはそれは当直の若い医師で、不倫が行なわれているのではないかと疑われるや、目立たない用務員の服に着替えてその医師を見張るのだが、細かい部分では必要以上に論理性にこだわる男は、なぜ妻が若い男と密会をするのに救急車で病院に乗りつけるといったまわりくどい方法をとらねばならないかについては一向に疑問を感じないのだ。

結局、その医師は関係がなかったようなのだが、そこで軌道修正がなされるわけではない。病院では患者と外部の者との密通が多く、性的不能である副院長は彼らの性衝動に興味をもち、盗聴器をいたるところにしかけている。男はその録音記録にアクセスすることを許される。だが、それがどれだけ迂遠な探索方法であるかは、一時間分を聞くのに七時間かかることでもわかろう。しかも、その進捗具合をノートに書きつけることまで承知し、そのノートでこの小説は構成されている。要するに、勃起しているペニスの感覚を電気信号に変え、大脳につなぐことでオルガスムを得る実験をし、切断した他人の下半身をつなぎ合わせて馬人間となった副院長や、骨が流体化して重力の作用で縮んでいく溶骨症という奇病を患っている少女と同じく、男もこの奇妙な世界の立派な住人なのである。

結局、途中から妻の行方を追うことよりは、副院長の性的玩弄物になるであろう少女を救いだすことに目的は移り、闇のなかで、溶けてしまった骨のまわりに幾重にも肉や皮をたるませた原形をとどめない少女を愛撫することでこの小説は終わっていく。

「ここは自分を信用して、兎を閉じ込めたのが、他に逃げ道のないシルクハットだったことを飲込んで欲しい」という一節があるが、カフカよりは論理をイメージに変換するルイス・キャロルに近い小説だと言えるかもしれない。あるいは、初期の安部公房作品に特徴的であったリリシズムが顕著なこと、裏底に気泡バネを仕込んだジャンプ・シューズや馬人間、人間関係神経症や溶骨症など、実際にはないがその存在を実感できる喚起力をもち、いったんそれを受けいれさえすれば論理的に機能する細部などは安部公房が愛したボリス・ヴィアンを連想させる。

2014年6月4日水曜日

幸田露伴『七部集評釈』29

あはれさの謎にも解し時鳥  野水

  解しは解けしか解きしかはっきりしないし、句意もいささか朦朧としている。強いて解すれば、この句こそ場外夷にある者のことをいうもので、時鳥を聞くものには別離の悲しみがあると『西陽雑俎』、『華陽風俗記』などに見られるように、昔から言い伝えられたことなので、夷にある者に郷里のことがしきりに思い起されて、土地の風習に従い烏賊の甲の占いをしてみていつ帰れるのかと思ったのだが、そんな折りに時鳥を聞いて、やんぬるかな、この鳥の声を耳にしたわが身の末はどうなるものかと歎いている。

 時鳥は蜀帝の魂が化したという伝説もあり、死出の田長ともいわれる、それこれを思い合わすべきである。だとすればおそらくは誰にも「解けし」と読むべきである。ただし曲齋はこの句の確かな解釈をしないままに、いつものいま伝えられている諸本は再版をもとにして原本をもとにしていないというという自説により、「謎にも解し」は原板の誤読にもとづくもので、はじめは「あはれさの詩にも作し時鳥」とあったことに間違いはないといっている。「謎にも解けし」なら「にも」の二字に問題はないが、「詩にも作りし」ならその「にも」には歌にもよみ、詩にも作ったものだという意味に解釈すべきである。詩にも作ったというなら、時鳥のホケキョと泣くことを思い合わせるべきである。歌では時鳥はその声の清らかさを称讃されることが多く、従って待つの意味までもたせられることがもあるが、中国の詩においては、時鳥の雲間の一声は、故郷を思い旅情に耐えがたくするようにつくられたものが多い。時鳥の鳴く声は中国では"puh-joo-kwei-kh'eu"つまり帰去にしかずと聞かれるので、旅の途中にこれを耳にすると、詩情が動き、悲しみが発するのもまた自然なことである。曲齋の説も一応は納得される。だが、いまだ必ずしも認められないのは、後句との係りが捉えにくいからである。この句と次の芭蕉の句は再考三考すべきであり、武断して解を下しても益するところはない。

 こうした解をしたあとに新たな解を得た。この句の大体の意味は私が前に解したものとして間違いはないが、なお少し足らないことがある。これは画工の毛延寿に賄をしなかったために胡主に嫁入りすることになった王昭君のことを打ちかすめて作ったものである。

 昭君のことは『西京雑記』巻二にでていて知られているが、昭君が胡地に入ったのちはきっと憔悴して、花のような顔も衰えただろうと、白楽天も「いまかえって画中の中に似たり」と言った。これに基づいて、心敬は、「絵にかける女や姿かはるらん」という前句に「知らずえびすの国に入る人」とつくった。また連歌する人のために編まれた『連集良材』に、昭君のことを記して、同題で詠んだ歌、「足引の山がくれなるほとゝぎすきく人も無き音をのみぞなく」というのを挙げている。この歌は誰の歌かわからない。ただし、『拾遺集』巻十七、陸奥国下りてのち、時鳥の声を聞いて、実方朝臣の、「年を経て深山隠れの時鳥きく人も無きねをのみぞなく」という歌と少々異なるだけである。実方朝臣の方は時鳥に自分の身の上を重ねて詠んだことは間違いないが、『連集良材』には誰かが昭君を詠じた歌としてあげてあるので、連歌俳諧に親しんでいた貞亨のころの作者が『連集良材』に載っていることを思えていて、前句の「烏賊は夷の国の占方」といったのに、心敬が「知らずえびすの国入る人」と返した句にちなんで、同じ昭君のことを詠んだ「山がくれなる時鳥」の歌を打ちかすめて、「あはれさの謎にも解けし」と作ったのである。これで一句や前句との係り、余すところなく分明である。

2014年6月2日月曜日

ブラッドリー『論理学』37

第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

 §11.我々は実在が、少なくとも我々の知る限り、現前しているに違いない、と自然に考えている。もし私が直接それと行き合うことがなければ、私はそれを決して確かめることはできない。結局、私が感じるもの以外には実在ではあり得ず、私は自分に触れるもの以外は感じることができない。しかし、再び言うが、現前するものを除いては、私と直接に触れ合うことはできない。それがいまここにないなら、私との関わりはない。

 「現前が実在である」、このことは疑いようのないことに思える。では、それゆえにつかのまのあらわれは実在であると我々は言うべきだろうか。それは間違いであろう。もし実在を単一の「ここ」、あるいは単一の「いま」(この意味において個物である)に限定したものとするなら、我々は処理することのできない問題をもてあますことになろう。というのも、普遍的判断の真理という難問を別としても、単独例を越えるあらゆる命題を失う脅威に脅かされるからである。実在が一瞬の現象に過ぎないなら、総合判断も同時に追放されなければならない。時間における過去や未来、私が直接に知覚していない場所は、「いま」、「ここ」を形容するものとして述語化され得ない。こうした判断はすべて、明らかに存在していないものを存在する性質とする、あるいは、実在をまったく非実在的である系列の一員として位置づけるゆえに誤りとなろう。

 しかし、多分、我々はこの結論を避けることができると感じている。とにかく、前提については確信しており、それをあきらめることはできない。「実在はここにあるもの、いまあるものに限られる」しかし、これが正しいとすると、我々は「いま」、「ここ」ということでなにを理解しているのか知っていると思っていいのだろうか。というのも、時間と拡がりは連続的な要素のように思える。こことは他のここがまわりを取り囲んでいる一つの空間である。いまはたゆみなく流れ、現在から過去へと永久に過ぎ去っていく。

 現在と呼ばれる時間を孤立させ、過去でも未来でもなく、移り変りもないいまある瞬間を固定することでこの難点を避けることができるかもしれない。しかし、ここで我々は希望のないジレンマに落ち込むことになる。持続が全くなくなり、この瞬間が時間ではなくなるか、あるいは持続があり、時間の一部であり、その内部に移り変りが認められるか、である。

 実在のあらわれるいまが完全に切り離されたものであるなら、排除によって特徴づけられたこの現象は、見かけはどうあれ、自律的ではなく、実在ではないと言うことができる。この反対意見はともかく、いまここにも幾ばくかの拡がりがなければならない、というジレンマがある。空間や時間のどの部分も究極的な要素ではない。あらゆるここは幾つものここからできあがっており、あらゆるいまは幾つものいまに分解することができる。かくして、原子的ないまは時間の一部として姿をあらわすことはあり得ない。しかし、もしそうなら、どんな形ででも、それがあらわれることはあり得ない。他方、現実の時間がそうであるように、あらわれに持続があるとするなら、そのなかには継起があり、単一のいまのあらわれではなくなってしまうだろう。これらのことから明らかなのは、瞬間的なあらわれは我々が探し求めている主語を与えてはくれないだろう、ということである。



2014年6月1日日曜日

鞄のなかには砂漠の模型――俳句


思いでの松の廊下の手水鉢

王の庭闘鶏場の霜柱

初暦脳のなかにも血が通い

蓮根や光の渦が吸い込まれ

すじかいのすっぽん屋でのむ燗の酒

初夢の茶番は源平盛衰記

冬深し土俗学者がキリシタン坂

くるぶしと赤い蹴出しが橋を越え