2014年6月2日月曜日

ブラッドリー『論理学』37

第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

 §11.我々は実在が、少なくとも我々の知る限り、現前しているに違いない、と自然に考えている。もし私が直接それと行き合うことがなければ、私はそれを決して確かめることはできない。結局、私が感じるもの以外には実在ではあり得ず、私は自分に触れるもの以外は感じることができない。しかし、再び言うが、現前するものを除いては、私と直接に触れ合うことはできない。それがいまここにないなら、私との関わりはない。

 「現前が実在である」、このことは疑いようのないことに思える。では、それゆえにつかのまのあらわれは実在であると我々は言うべきだろうか。それは間違いであろう。もし実在を単一の「ここ」、あるいは単一の「いま」(この意味において個物である)に限定したものとするなら、我々は処理することのできない問題をもてあますことになろう。というのも、普遍的判断の真理という難問を別としても、単独例を越えるあらゆる命題を失う脅威に脅かされるからである。実在が一瞬の現象に過ぎないなら、総合判断も同時に追放されなければならない。時間における過去や未来、私が直接に知覚していない場所は、「いま」、「ここ」を形容するものとして述語化され得ない。こうした判断はすべて、明らかに存在していないものを存在する性質とする、あるいは、実在をまったく非実在的である系列の一員として位置づけるゆえに誤りとなろう。

 しかし、多分、我々はこの結論を避けることができると感じている。とにかく、前提については確信しており、それをあきらめることはできない。「実在はここにあるもの、いまあるものに限られる」しかし、これが正しいとすると、我々は「いま」、「ここ」ということでなにを理解しているのか知っていると思っていいのだろうか。というのも、時間と拡がりは連続的な要素のように思える。こことは他のここがまわりを取り囲んでいる一つの空間である。いまはたゆみなく流れ、現在から過去へと永久に過ぎ去っていく。

 現在と呼ばれる時間を孤立させ、過去でも未来でもなく、移り変りもないいまある瞬間を固定することでこの難点を避けることができるかもしれない。しかし、ここで我々は希望のないジレンマに落ち込むことになる。持続が全くなくなり、この瞬間が時間ではなくなるか、あるいは持続があり、時間の一部であり、その内部に移り変りが認められるか、である。

 実在のあらわれるいまが完全に切り離されたものであるなら、排除によって特徴づけられたこの現象は、見かけはどうあれ、自律的ではなく、実在ではないと言うことができる。この反対意見はともかく、いまここにも幾ばくかの拡がりがなければならない、というジレンマがある。空間や時間のどの部分も究極的な要素ではない。あらゆるここは幾つものここからできあがっており、あらゆるいまは幾つものいまに分解することができる。かくして、原子的ないまは時間の一部として姿をあらわすことはあり得ない。しかし、もしそうなら、どんな形ででも、それがあらわれることはあり得ない。他方、現実の時間がそうであるように、あらわれに持続があるとするなら、そのなかには継起があり、単一のいまのあらわれではなくなってしまうだろう。これらのことから明らかなのは、瞬間的なあらわれは我々が探し求めている主語を与えてはくれないだろう、ということである。



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