2014年6月27日金曜日

二種類の日記――ノート15

 『鬣』第42号に掲載された。

 デヴィッド・マッソンが編集した十四巻ある著作集のうちの三巻が当てられ、しかもそのなかには、必ず代表作としてあげられる『英吉利阿片服用者の告白』と『深き淵よりの嘆息』が含まれているのだから、自叙伝はまずトマス・ド・クインシーの主著といっていいだろう。だが、自伝がそれを書く者の波瀾万丈の一生、彼が経験した冒険や珍奇な経験を描きだすことを主眼とするなら、ド・クインシーの自伝は少々物足りなく思えるだろう。たとえば、カサノヴァの『回想録』やフランク・ハリスの『我が生と愛』のように、嘘か本当かわからないエピソードが途絶えることなく繰りだされて、それを呆然と見守るしかないといった経験はド・クインシーでは得られない。また、ヘンリー・ミラーの一連の作品のように、行くとして可ならざるはないかのように、ものを食べ、友人と会話し、あたりかまわず性交し、大量の本を読み、思索し、ユートピアや幻想を夢見るといった猛烈なエネルギーとも無縁である。

 たしかに、ド・クインシーの自伝にも、十七、八歳の頃、一文無しの状態で厳しい寒さのロンドンを放浪し、知り合った少女やまだ年若い娼婦と抱き合うことでかろうじて暖を得たというような印象的な出来事が描かれており、それはド・クインシーがもっとも愛した妹の死と結びついて、ある種特権的な輝きを放っているのだが、それを『英吉利阿片服用者の告白』や『深き淵よりの嘆息』のような単独のものとして作品化された文章から切り離して、三巻に渡る自伝のなかに置いてみると、ある特定の時間と場所で経験されたという固有性は拭い去られて、非人称的な大きなうねりのひとつになっている印象を受ける。

 自伝に限らず、日記や書簡など自分に関することが書かれるとき、おおよそ二つの方向性がある。一方は、そうした自己の固有性を書きとどめることが眼目となる。上記のカサノヴァ、フランク・ハリス、ヘンリー・ミラーもこのタイプに属するだろう。もっともここでいう自己には、ある思想、趣味、性癖などをもち、立ち会う出来事ごとに自らの主張を繰り広げずにはいられないような「特異さ」が必ずしも求められているわけではない。たとえば、石川淳の小説『雅歌』のなかで、語り手が探している村田了阿の日記などは、今日はなんの花が咲き、なんの鳥のさえずりが聞こえたというごく短い記述だけで成り立っているが、その文章から書き手の生活の様式を組み立て直してみると、尋常一様なものではないことが理解されてくる。つまり、自己の固有性とはそのときその場所にあることをおろそかにしないことであり、そのためにそうした作品はその時代の風俗を調べるさいの資料として用いられることもある。

 他方、時間や場所の固有性にさほどとらわれることなく、普遍的な問題に向かうタイプがある。日記というと固有の時間と場所が優先されるように思いがちだが、そうした事柄にまったく関心を払わない日記も珍しくはない。サルトルがジッドの日記についてこう書いている。「昨日、ジッドの日記をまためくっていて、その宗教的な側面に打たれた。これは何よりもプロテスタントとしての自己省察であり、次いで瞑想と祈禱の書である。モンテーニュの『随想録』や、ゴングール兄弟の日記、あるいはルナールの日記などとは何の共通点もない。根本にあるのは罪との闘いだ。そして日記をつけることが、〈悪魔〉と闘うことを可能にするつつましやかな手段の一つ、つつましやかな術策の一つとなっていることがたびたびである。」(傍点原文)(『奇妙な戦争』海老坂武・石崎晴己・西永良成訳)キルケゴールやカフカの日記もまた同様なものに数え上げられよう。

 普遍的な問題に向かうタイプにも、実は二種類ある。ひとつは、普遍性というものが、書き手が生涯を捧げているものと常に結びついている場合である。自己について書き省察することは、より大きな問題に向きあうための方途に過ぎない。ジッドにはプロテスタントとしての罪との闘いが、キルケゴールには神への信仰が、カフカには小説を書くという大きな問題があり、何を書いていようとも最終的にはその問題に行き着かざるを得ない。『告白』を書いてそのジャンルを創始したアウグスティヌスがまさにその原型であり、異境を排し、キリスト教を普及、確立する目的のために若かりし頃の遊蕩や異教信仰について述べることが役立つと思えばこそ自分の経験を書きとどめたのであり、もしそれが目的に不必要なものだと判断されたなら、容赦なく切り捨てられただろう(文学作品としての魅力の大半は失われてしまっただろうが)。

 普遍性を目指すもうひとつのタイプは、特に奉じる信仰や仕事があるわけでもなく、いわば個物から普遍性へと向かうことに興趣をおぼえ、それ自体が目的となっている。身近な例として澁澤龍彦をあげよう。自分について語ることを潔癖に拒否してきた澁澤龍彦だったが、死の十年ほど前からあえてそれを厭わなくなった。もっとも、アクチュアルな問題に首を突っ込んだり、どこで誰と飲んだなどといった日常にまったく関心が払われないことは相変わらずで、もっぱら幼少年時代の思い出だけが文章になることを許されているようだ。各著作にそうした文章は散見されるが、短いエッセイがこの同じテーマでまとめられ一冊の本となっているものに『玩物草紙』と『狐のだんぶくろ』がある。

 しかし、それらの思い出は常に普遍的なもの、ある観念や形而上学的な夢想に結びつくのである。『玩物草紙』のなかからいくつかの例をあげよう。小学校に入学する以前、澁澤はいつも昼食にはパンを食べていたという。食卓にはバターやジャム、コンデンス・ミルクの缶が並べられる。コンデンス・ミルクはメリー・ミルクという商標で、レッテルにはエプロンをかけた女の子が片手に籠を抱えている。籠のなかにはメリー・ミルクの缶がある。もちろんその缶にも籠を抱えた女の子がいるはずであり、籠にはメリー・ミルクの缶があるはずだ。それが無限に繰りかえされる。「この目の前のテーブルの上のミルクの罐のレッテルに、小さな小さなメリーさんが無限に連続して畳みこまれているかと思うと、私は何か、深淵に吸込まれてゆくような気がしたものだった。」と澁澤龍彦はいっている。そして、ココアの箱に描かれた、レースの帽子をかぶった田舎娘が同じココアの箱をもって、ほほえみながらそれを指さしている絵を見て、「無限の観念に最初に触れた」と『成熟の年齢』で書いたミシェル・レリスを引用している(「反対日の丸」)。

  子供は変なアイデアを思いつくもので、「ねえ、日の丸をつくって」と母親に要求したそうだ。日の丸は白地に赤であるから、つまりはパンの全面にコンデンス・ミルクを塗り、その中心に赤いジャムの丸を描くわけである。妹たちに自慢しながら食べていると、やがて妹たちも真似をするようになり、大はやりになった。そこで今度は「反対日の丸をつくって」とこっそり頼むことになる。反対日の丸とは白地に赤くの反対の赤地に白くであり、ジャムの地のうえにミルクの丸を描く。この新機軸で澁澤少年は「得意満面」になる。「『ミルクとジャムのおかげで弁証法の観念を知った』ということにはならないだろうか」と澁澤龍彦は書いている。

  父親から聞いたハレー彗星の話に「形而上学的な恐怖」を感じる(「星」)。動物園にいるナマケモノやオオアリクイといった珍妙な動物をみることから、科学者はまずテーマを決め、そのテーマを証明するためにエヴィデンス(証拠事実)を集めるが、神さまも同じように、ナマケモノやオオアリクイといったテーマに固執して、それを満足させるようなエヴィデンスをかき集めた結果「やむを得ず誕生してきた獣」がナマケモノやオオアリクイではないかと、見事なアナロジーを見せる(「神のデザイン」)。

  「体験」の一篇は、対話体で、これらのエッセイが自分の体験の自己告白ではない、と抗弁している。そもそもなにかを体験するとは、それ以外の体験の可能性を消すことであるから、ひとつの体験はあり得たかもしれないもうひとつの体験を失うことである。そうだとすると、体験の数は誰しも永遠に変らないということになる。日常的な体験というのは、つまりはいくらでも入れ換えがきくもので、もし真の体験があるとするなら、道元の「身心脱落」のように、体験がないところに成立する「強烈な体験」だろう。確かにこれらのエッセイでは「体験」のようなものが語られているが、それらは既に見てきたように、人間関係の機微であるとか、処世上の知恵であるとかが引きだされるような体験ではないのである。

  子供のころ、お気に入りのカフスボタンを誤って呑みこんでしまった事件から「巨大な生きものの腹中に呑みこまれはしないかという、恐怖と魅惑の反対感情を伴った、無意識の感情傾向のことであり、胎内回帰願望の一変種」だというヨナ・コンプレックスを引っぱりだし、ジルベール・デュランの『想像的なものの人類学的構造』を引用して、「呑みこんだ私は、想像界では、呑みこまれた私と等価であったようだ」と結論づける(「カフスボタン」)。

 「あとがき」では、「私には取りたてて玩物の趣味があるわけではなく、ここで扱われているのはむしろ観念、あくまでも私の生きてきた観念の世界であろう。すなわち、私は観念を物のように玩弄することを好む人間らしいのだ」と書かれているが、「玩物」という言葉は「自分のことを語る」と言い換えてもよかっただろう。ド・クインシーの自伝もまた、ある面でこうした澁澤龍彦のエッセイに近しい。妹の死や幼い娼婦との交情、あるいは旅の印象や社交の話であっても、いつの間にかある観念や形而上学的な夢想を語ることに移行するので、自伝のなかに登場するさまざまな人物や場所はあまり明確な輪郭を結ぶことはない。おそらくほとんどの小説がそうであるように、人物や場所の本当らしさというのは、特定のひとつの文章で得られるものではなく、微妙に角度を変えながら丹念に幾度も描かれることによってはじめて得られるものだろうが、物そのものにはさほど興味のない澁澤龍彦のように、少なくとも文章化する上において人物や場所にさほど興味がないド・クインシーは実在感をだすために丹念さを発揮することはない。

 澁澤龍彦との大きな相違は、『玩物草紙』や『狐のだんぶくろ』といった著作が、幼年期の思い出というテーマにおいて新生面を切り開いたとしても、物と観念とを重ねあわせてみるというスタイルは『胡桃の中の世界』や『思考の紋章学』といった主要なエッセイと変わらないのに対し(従って公平に見てこれらの著作を差し置いて『玩物草紙』や『狐のだんぶくろ』を主著だとは言いにくい)、ド・クインシーの自伝は、新たなスタイル、形式を発明し、自家薬籠中のものとした真の意味での主著だと言える。

 こうした観点から連想されるのは、たとえば、幸田露伴の『七部集評釈』のような仕事である。完成度からすれば中国の明初に起きた靖難の役を題材にした叙事詩『運命』や水の江戸が彷彿とする『幻談』をあげるべきだろうが、いいところも悪いところもすべてひっくるめて幸田露伴という作家のすべてが投入されているのが、芭蕉とその門弟たちが残した連句や発句の一句一句に評釈を加えた『七部集評釈』である。そこにはもちろん、露伴の俳句や詩に対する考え方があり、文学観があり、随筆があり、考証があり、史観があり、短い詩句から連想される物語の胚珠があり、露伴が行ってきたあらゆる仕事を詰めこめる伸縮自在の合切袋となっている。同じように、文学、哲学、小説、歴史、神秘思想、経済学などの広範囲にわたる知識を呑みこんで揺るがないのがド・クインシーの発明した自伝という形式であり、そこにおいてこそ逸脱の達人といわれたド・クインシーの面目が躍如している。

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