2014年6月17日火曜日

ブラッドリー『論理学』41

 第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

§15.B.次に、主語が表現されている分析判断に移ろう。述語の観念内容はここでは、主語としてあらわされる別の観念を指し示している。しかし、先の場合と同じく、この場合も、究極的な主語は観念ではなく、現前する実在である。それに向けて、二つの観念の内容とその関係が帰せられる。観念内容の総合はあらわれているものの(a)全体か、(b)部分かの述語とされる。

 (a)「いまがそのときだ」、「すべてがもの悲しい」、「いまは真っ暗だ」というような判断においては、ある観念が先行する部分の語られていない指示対象をあらわすものとなっている。しかし、どの場合も、主語は同じである。確かに、観念が実在と述語の間に介在し、主語の場所を占めてはいる。しかし、少し考えてみれば、こうした文の主語は現前したものであることがわかろう。直接的な主語は、単純なものであれ関係を具体化したものであれ、所与の実在全体を指し示す記号である。

 (b)呈示される事実が感覚される状況の全体ではなく、その一部分でしかないとき、我々は更に進むことになる。「あそこに狼がいる」、「これは鳥である」、「ここに火がある」というときの「あそこ」、「これ」、「ここ」は確かに観念であり、疑いなく判断の主語をあらわしている。しかし、それらを調べてみればすぐに、再び我々は実在に向けての指し示し、今度は非限定的で総体的な実在ではなく、区別され指示された実在への指し示しを見いだす。それらの観念が判断の真の主語なら、黙って指を指すことも同じくそうであろう。

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