2014年6月7日土曜日

幸田露伴『七部集評釈』30

秋水一斗漏れ盡す夜ぞ  芭蕉

 秋水という語の用例によれば、秋のときに出る水をいう。『荘子』秋水篇の秋水のようなものである。秋水揚波、秋水帆漲、みな同じことである。また秋は水の清むものなので、透徹した水も秋水という。劉禹錫の詩の句に、「秋水清く力なく、寒山暮れて思い多し」とあり、杜甫の詩の句に、「大児九齢にして色清徹し、秋水神となり玉骨となす」というようなものである。刀剣を詩などで秋水というのもその冷たい光を擬してのことである。また、ただ秋の河、池、沼などの水をいうこともある。杜荀鶴の詩の句に、「秋水に鶯飛び紅蓼おそし」のようなものである。

 だが、器のなかの水を、秋だからといって秋水というのはあまり妥当ではなく、おそらくはその例は稀である。ただし細心でよく考えの行き届いた芭蕉のことだから典拠があるかもしれない。また、秋、水、一斗漏盡夜ぞ、を和訓で読むべきか不明である。句意は洩れた壺から水が漏れ尽くす秋の夜の長さをいったものである。

 漏は時間を計る器で、水が出ることからその名を得た。『説文』に「銅をもって水を受け、昼夜百刻でまた漏れる」とある。一壺の水が他の壺に入る。水を受ける壺の上に銅の人を作り、それに刻みのついたものを持たせる。下に笹の舟を置いて、水が増せば舟が浮び、刻みが上がる。黄帝が作ったのが伝えられて近世に至り、わが国には天智天皇が太子であったときからあった。昼夜あわせて百刻、冬至には昼四十刻、夜六十刻、夏至には昼六十刻、夜四十刻、刻とは笹の届く刻み目である。斗は水を入れる壺を指したもので、升斗の斗と拘泥することはなく、なかが窪んでものを受けるものはみな斗と称する。

さてこの句、秋水の一語が少々妥当ではなく、前句に夏の季語である時鳥があることから、前人非常に苦しんで解釈も様々である。秋水は酒である、季節を四方に配すれば秋は西で酉の位置である、秋水は酉水で、酒である、漏れ尽くすは盛り尽くすで、一斗の酒を夜宴に尽くしたものであるという説もある。前句に謎の字があり、後句に酒客の李白の名があることからこうした解釈を下したのだろうが、牽強付会もきわまれりというところである。秋水は酉水との説は甚だしき妄陋による悪解愚解、むしろ芭蕉を戯れ殺すというべきだろう。

 あるいは、水時計の漏れ果てる暁まで時鳥を待ったが鳴かないので、お前は哀れな歌にも詠まれ詩にも作られる鳥であるのに、人の哀れを知ってせめて一声だけでも鳴くべきものだと、長い夜を待つ侘びの恨みをいう様であり、季語からいえば夏の夜にするべきなのを、長く待ったありさまを伝えようと秋を付け、無理をいう様子を見せたのにおかしみがあるという説もある。これもまた受けいれがたい。無理をいう様子を見せたというが、そうであれば芭蕉は夏の夜を強いて秋の夜としたことになり、いかに俳諧だとはいえ、真に時鳥を待っていながら、まだ宵で明けていない夏を長い夜が続く秋と欺くことになんでおかしいことがあろう。これは曲齋が、前句を哀れさの詩に用いるホトトギスと考えて、こうした解釈を下したのだろう。

 秋水は酉水だという説、夏を強いて秋にしたのだという説いずれも従うべきではない。これはただ秋の夜長を守り明かしたことをいったもので、前句の謎というのを捉えてそこに句を付けたものである。謎には字謎や詩謎があり、その種類が非常に多く、軽い文事の戯れとして我が国にも後奈良院謎合せのようなものがある。秋水一斗漏れ尽すというところにその場所の上品な様子がわかり、その人の卑しくないことも見て取れる。「金吾夜を禁ぜず、玉漏相催す莫れ」という程の宮廷ではなくとも、普通の農家や職人の家ではない。文雅の謎を解きつ解かれつすることは品位ある家の秋の夜長はふさわしいことで、眼を合わせて想像すれば情景が浮かぶ。

 前句においては時鳥は現実の時鳥で鳴いたが、この句では時鳥は謎のなかのものである。謎を解くと時鳥となるそうした謎の時鳥である。こうした取り扱いの技があって夏期の句に秋の句を付けても無理がない。いかに詩は理屈には関わらないといっても、長く待つ様子をあらわすのに夏を秋とするようなことはなく、また前句に謎の一字があるとしても、秋水は酉水だというような陋劣な易者めいた句を芭蕉があえて作るはずがないのも明らかである。

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