2014年6月12日木曜日

幸田露伴『七部集評釈』31

日東の李白が坊に月を観て  重五

 李白は酒客であり詩仙である。「李白一斗詩百篇」という詩句も名高いので、前句を酉水一斗盛り尽くすと取って、月を賞しつつ飲み明かすさまを付けたという古解には従いがたい。うがち過ぎの解釈というべきである。日東の李白は石川丈山であり、丈山の詩仙堂を訪ねた山素堂の六言の詩の句に、「先に日東李杜を尋ね、中華仙顔と静かに対す」とあるのからきたいう江戸の成美の説は成り立つが、挙げた出典の肝心なところを逃し末を取っている。

 丈山の詩集『覆醤集』の上巻に、丈山と朝鮮中直大夫詩学教授権侙と応酬した詩があり、当時権侙は丈山の詩を読んで、「古人は楊伯起を関西の先生としたが、君を日東の李杜とするのも妄言ではない」と賞讃したことは、同書の野三竹の序文、並びに松昌三の序文に見られる。権学士は菊軒と号し、寛永十四年の朝鮮使節一行中の詩客だった。素堂の詩句もこれに基づいただけである。

 酉水の陋劣な解釈は論ずるにたらぬが、ただ前句の調べも唐風のものなので、唐土三十六詩仙を描いてそれを祭り、自分もまた日東の李杜と言われた丈山の昔の住まいである詩仙堂を取り上げて、そこで月を賞し夜を更かすと付けただけのことである。李白と言ったのは李杜といってはこの場合面白くないからである。日東の詩仙堂に月を賞するとしたのは、詩仙堂十二景のなかに「池の畔で月を望む」があり、丈山の詩に「小池の小楼の垣根で、涼しい夜を悠々とす」の章が同書に見え、その句中の小楼というのはすなわち嘯月楼であることも、同書に「癸未の秋静軒とともに我が嘯月楼に登る」の詩があるのをみてもわかる。凹凸のある場所にある楼、山上の月に四方は明るく、この句はこの句で面白く、前句との係りもまた面白く、難がなく伸びやかである。

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