2014年6月19日木曜日

幸田露伴『七部集評釈』33

牛のあと吊ふ草の夕ぐれに  芭蕉

 古註に、これは『大和物語』の面影だと言っているのは良くない。『大和物語』に同じ女(南院の今君で、右京のかみむねゆきの女)巨城が牛を借りて、また後に借りにやったのに、奉った牛は死んでしまったといった。返事に
  我が乗りしことをうしとや消えにけむ草にかゝれる露の命は、とあった。句には牛とあり、跡吊ふといい、草といい、歌には牛とあり、消えにけむとなり、草とあるので、いかにも縁なきことはないようだが、このことの面影としては前句との係りがなく、付け方がはっきりしないので、漠然として捉えどころがない。

 この句はその歌とは関係しない。これは『栄花物語』の牛仏の面影である。同物語望月の巻に、「この頃(万寿二年)聞くところによれば、逢坂の方の関寺というところに、牛仏があらわれて、沢山の人が参り見た。この頃この寺は大きな御堂を建てて弥勒をつくり奉った。神木や大木をこの牛だけで運び上げた。哀れな牛だとだけ寺の聖は思っていたが、寺の近くに住む人が牛を借りて、明日使おうとして置いておいたその晩の夢に、我は迦葉仏である、この寺の仏をつくり堂を建てさせようとして、過ごしてきたが、ただ人はどのように使うべきものか、と見たので、起きて、こうした夢を見たといって拝み騒いだ。牛は黒く小さくて愛らしいものだった。繋いでなくても去ることはなく、普通の牛には似ていない。入道殿(関白道長)をはじめ奉って、世の中の人々に参らぬものはなく、様々なものを奉った。ただ帝東宮の宮々だけが訪れなかった。この牛仏、何となく悩ましげな様子が見え、亡くなってしまうだろうと人が参り、聖は御姿を描こうと描いた。こうしたことがあったとき、西の京の大層貴い聖の夢に、迦葉如来当入涅槃、諸仏薩埵当得結縁とだけみえたので、多くの人が参り、歌を詠む人もおり、和泉(式部)
  聞きしより牛に心を掛けながらまだこそこえぬ逢坂の関。多くのことが聞えてくるが、同じことなので書かない。日頃、この姿を書かせて、六月二日に眼を入れようとしたが、その日になって、御堂を牛が見巡り歩いて、元のところに帰ってきて、やがて死んでしまった。像に眼を入れるときがきて死んでしまったのは、哀れでもあり、めでたいことでもある。聖は非常に悲しんで、そこに埋葬し、念仏して、七日ごとに経仏供養をした。のちには、それを描いた像を内でも宮でも拝ませた。こうしたことがあったので、本当の迦葉仏はこの同じ日に隠れてしまった。いまはこれらの弥勒供養していたこの聖も急ぐことになった。誰も草を取って参っているもののなかに、お参りしないものがあれば、罪深いものだと定められた。」とある。

 これで「牛の跡吊ふ草の夕ぐれ」の一句は自ずから明瞭なものになり、とくに吊ふ草の夕ぐれと続く句づくりの力があるさまが人の眼を射て、にの文字ただひとつに無量の味があることを思わせる。

 琵琶の道の祖師であるかのような蝉丸の宮も逢坂山の住居の跡にあり、関寺の門内にある牛の塔も逢坂山のなかにあり、両者は近い。蝉丸の古跡も牛仏の古跡もともに同じところにある。よって前句の琵琶弾く人を逢坂山の蝉丸の宮へ詣でるものと見なし、その同じ夕ぐれにこちらは結縁の草を取って牛仏へ詣でるものが、自分はこうだが、彼はこうだと、同じとき同じ境遇にあるが相違し背を向け合っているものを、にの一文字で、眼と眼を互いに見て、心と心を互いに感じさせる、そこに言葉にもできず捉えることもできない情趣や興味があるというべきである。

 にの一語には、指定の意味があることはもちろんだが、また反撥の意味があることも見過ごすべきではない。釈迦に説法、月夜に提灯というように、また花に嵐、月に雲というように、また、帰らしやんすかこの雨に、というように、みな指定から一転して反撥の意味合いを含んでいる。『猿蓑』灰汁桶の巻、「あぶらかすりて宵寝する秋」という句に、「新畳敷ならしたる月影に」とある「に」の字をよく味わえば、月が鮮やかなのに宵寝する人をどう思っているかの風情があることを見てとれる。に文字で句を止めるのを軽率に行なうべきではない、と旧伝にあるのもゆえなきことではない。

 この句の「に」などは、味わうほどに味がある。ただ単に指定の「に」だとすると、何丸の解のように、牛仏へ参る群衆のなかに、木槿をかざした琵琶打は蝉丸の宮へ詣でたる人であった、と一転しただけに過ぎない。また反撥の意味を強く含めて解すれば、曲齋がいうように、牛仏を拝もうとするものが、蝉丸の宮へ参る狂客を見おろして、ああ罪深い人だと歎く、という具合になる。曲齋は過ぎたところがあって、何丸は及ばないところがある。芭蕉の意図は、必ずしも曲齋が解いたようにはならないとしても、また何丸の解釈したように、ただ一転して琵琶打を奪ったのみでもない。感慨を言葉の外にあらわし、情状を眼の前に映す、これが「に」文字の妙だといえる。別に禅の十牛図の意味をもって解するものもある。従いがたい。

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