第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。
§17.固有名の主語に関する奇妙な錯覚が広く行き渡っている。固有名詞には含意がない、あるいは、より一般的な専門用語を使えば、内包がないといわれている。通常の言語においては、それはなにかをあらわすが、何ものも意味しないとされている。
もしそれが正しいなら、「ジョンは眠っている」といった判断においてなにが意味されているのか理解するのは困難となろう。実際、いかなる帰結も恐れず、ここではジョンという名前がこの文の主語だと語る思想家もいる。こうした人たちの敵になる度胸は私にはとてもないと告白しておく。私の邪魔がなくて喜ばしいと彼らは言うかもしれない。しかし、もし我々がより英雄的ではない解決を受け入れようとし、人間としてのジョンが判断の主語だと仮定し、名前自体はなにも意味しないとするなら、私は名前の目的をまったく認めていないことになる。なぜ名前など無視して、男を指さし、「眠ってる」と言わないのだろうか。
「しかし、それは男をあらわしている」と答えがあるかもしれない、「彼がそこにいるのだとしても、指さすよりもっとはっきりとしたしるしをつけることになるのだ」と。しかし、それこそが私を悩ませるものである。もし、名前が使われるとき、それによって伝えられる観念が存在するなら、それがなにかを意味する、あるいは、こう言った方がよければ、「含意」があるに違いない。他方、もしなんの観念も伝えないならば、それはある種の間投詞のようなものとなろう。「これ」や「ここ」といった指さすことと観念的に等しいことを言うと、それは確かに意味をもっているが、不運なことにその意味は曖昧で普遍的なものである。なにをとっても、あらゆるものが「これ」にも「ここ」にも当てはまるからである。しかし、ジョンという名が彼を指さすことと観念的に等しいと断言するなら、私はあなたが自分でなにを言っているのかわかっているかどうか疑問に思わざるを得ない。
「しるし」という語には二つの意味があり、恐らく我々はそれを混同している。それは、区別の手段としてつくられたものかもしれないし、そうした手段の結果つくられたものである場合もある。推察するところ、私には推察する以外ないのだが、ここではしるしは最初の意味にとられているのではなく、従って、彼は他の人間と異なった人物として捉えられておらず、ジョンというしるしのついた人間として見いだされている。しかし、後者の意味をとると、名前というのはそれが記号であるがゆえにしるしであり、しるしと記号とは同一のものとなる。
さて、記号が意味を欠いていることはあり得ない。もともと任意のしるしとしてつけられたものがその過程において記号となり、それが意味する事物としっかりと結びつくことで、その事物の性質や性格とも結びつくことになったに違いない。もしそれがある程度まで事物を意味しないなら、その事物をあらわすことなど決してできないだろう。それでは、それが指し示すものがわかっている固有名詞がなんの観念ももたない、あるいは偶然のつながりによる観念しかないのだと言うことができようか。観念がすべて取り払われたとしたら、単なる名前とそれがあらわす事物との間にどんな関わりが残されていよう。すべてが一緒に消え去ってしまうだろう。
あまりに自明なことなのでどう説明していいかわからない。記号の意味は、もちろん、固定される必要はない。それがあらわす事物もまったく一定不変だろうか。もし「含意」が不安的なものであるとしても、「明示的意味」は決して変わらないものなのだろうか。後者が固定されているところでは、前者も(その限度内で)変化しない。「ウィリアム」という言葉がなにを含意するのかなんの観念もないということはあるかもしれないが、そのとき、あなたはその言葉がなにをあらわしているのかほとんど知ることはできないのである。すべての問題は単純な誤りと誤解からきている。
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