§16.更に一歩進んで、「この鳥は黄色い」、「あの石が落ちていく」、「この葉っぱは枯れている」といった判断を取り上げても、なんの変わりもない。文法上の主語としてある観念は、確かに、非限定的な参照、指示の記号以上のものである。状況から一部分を区別するばかりでなく、それを性格づけ、性質を与えている。しかし、先にそうしたように、主語ということで観念ではなく、現前する事実を意味するならば、今回もその真理は変わらない。「この鳥」ということでシンボル化される単なる観念を我々は述語によって言い立てようとしているのではない。「この鳥」によって区別され、性質づけられる事実に向けて、述語である「黄色」は向けられている。本当の主語は知覚されたものであり、その内容を我々の分析が「この鳥」と「黄色」に分け、そのまとまりにある観念的諸要素を我々が間接的に叙述する。
同じことは、多様な分析判断のどんな場合にも当てはまる。文章を複雑にしてみよう。「乳搾りの娘に乳を搾られている牛は向こうの山査子の木の右側に立っている」この判断には、一つではなく幾つもの事柄があり、その関係も一つではすまない。それでも、それは、現実的な主語であり、真の実体である現前する状況の一部であり、この複雑な文は間接的にそれについて言明している。もしこのことを否定するなら、どこで線引きをし、判断のどの点において観念が感覚される事実に取って代わり、真の主語となるのか示してもらいたい。そして、言明を観念に関するものに限るがいい。牛と山査子の木と乳搾りの観念要素をとり、それを好きなように観念的に結びつけてみるがいい。そして、結びつけ終わったら、事実の前に立ち、この事実は判断のうちにははいらないのだろうか、と自問してみるがいい。事実を前にし、反省してみれば、観念だけを扱っていたのでは、言明から自分が意味していたことを抜き取る結果になるとわかるだろう。§20でこの点に立ち戻ることになるが、ここではよくある誤りを見てみることにしよう。
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