§18.「しかし、結局、名前は個的なものの記号で、意味は包括的で普遍的である。それゆえ、名前は記号がもっているような内容をもつことはできない」私は到達したいと思っている結論を示唆するためにわざとこうした反対意見を挙げてみた。ある人間の名前は個的なものの名前で、変化する個物のなかで元の姿を保っており、それゆえ、個的なものに関する判断は完全に分析的であることはない。それは与えられたものを越え、総合的となるので、それをもって単称判断のもう一つの部類に入ることになる。
固有名詞は、常にある瞬間の現前を越えた意味をもっている。そうした名前が移り変わる知覚を通じて持続する対象をあらわさなければならない、というのは実のところ真実ではない。それが指し示す唯一無比の事物はただ一度だけ、一瞬の現前に限られる出来事であるかもしれない。しかし、その対象は、自らがはじき出された系列への関連が含まれていないとしたら、唯一無比であるとも、特殊性があるとも言えないだろう。単なる意味の分析では、唯一無比であることをもたらす制限関係を決して示すことはできない。
そして、我々が永続し幾度もあらわれる対象の固有名を取り上げるなら、所与はより高度な意味合いにおいて超越されることとなる。そうした名前の意味は普遍的で、その使用は真の普遍性、個別の瞬間を越えた同一性を含んでいる。というのも、人が個別な人間として認められなければ、自分の名前をもつことはできないだろうし、その認知は文脈が変わっても同一のままであり続けることにかかっているからである。異なったときにおいても同一視できるような属性をもっていなければ、我々はなにものをもそれと認めることはできない。個的なものは、我々がその性質として述べるあらわれが変化しても同一なものであり続ける。それは、真の同一性をもっていることを意味している。固有名とは、実際に実在の世界にある普遍的なもの、観念内容の記号である。
この仮定、固有名に与えられた働きが擁護しがたいものであるのは間違いない。ここで我々に関わってくるのは、この働きが現前する実在を超越するということである。「ジョンは眠っている」において、究極的な主語はそこに与えられた実在ではあり得ない。というのも、「ジョン」は単なる分析では得られない連続的存在を含んでいるからである。我々は総合判断のクラスに達したわけである。
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