2014年6月18日水曜日

夢から身を守る法――泉鏡花『春昼』

 『鬣』第40・41号に掲載された。

  
鈴木清順の映画『ツィゴイネルワイゼン』が内田百閒のいくつかの短篇から成りたっているように、その次の作『陽炎座』は泉鏡花のいくつかの作品からできている(脚本はどちらも田中陽造)。しかし、基本的な骨組みとなっているのは『陽炎座』ではなく、『春昼』である。もっとも舞台は映画とは違って金沢ではなく、鎌倉と逗子の中間あたりの湘南地方となっている。

この小説が書かれた当時(明治39年)健康を損った鏡花は逗子に移り住んでいた。小説中「散策子」と呼ばれている男は名前の通り特に目的もなく歩いている。畑仕事をしている爺さんにすぐそこの屋敷に大きな蛇が入っていったことを教える。爺さんは自分はその家の者ではないが、顔なじみであるし、東京から来た女性ばかりの所帯であることはわかっているから、すぐ伝えに行こうと答える。爺さんと別れた散策子は久能谷の観音堂にたどりつく。そこで数多く張られた巡拝の札を見ていると、ある柱に懐紙の切れ端に女文字で「うたゝ寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき」という小野小町の歌が書かれ「玉脇みを」という名前が添えて張られていた。観音堂の出家と話しているうちに、その歌が張られた由来を聞かされる。玉脇みをとは、先ほど蛇が入ったことを教えた屋敷の主で、大財産家の細君であるという。観音堂の庵室に逗留していた男がこの細君を一目見て恋に落ちた。細君の亭主というのはひょんなことから金を手に入れた成金で、細君はあまり幸福な境遇とはいえないらしい。

鏡花の通例としてこの恋に落ちた男と玉脇の妻とのあいだに実際にどれほどの交渉があったのかまったくわからないのだが、ある晩、男が堂の裏手の方から笛太鼓、囃子が聞えたのに誘われたように山のなかに入っていくと、いつか平地に出て、うずくまった何者かが拍子木を叩くと、山腹に見えたところに幕が開き、舞台には玉脇みをと背中合わせに坐っている自分自身の姿があった。その後、男は海に入って死んでしまう。続篇の『春昼後刻』は出家の話を聞いた散策子が実際に玉脇みをに会い、みをもまた海に身を投じて死んでしまう、といういわば解決篇のようなものだが、それだけに夢ともうつつともつかない玄妙な雰囲気を失っているようにも感じられる。

『春昼』の夢幻的な性格はどこからきているのだろうか。ひとつには出家から話を聞くという入れ子状の叙述方法にある。鏡花にはしばしばあることで、たとえば、『草迷宮』という中篇は幼いころ死に別れた母親の手毬唄を知る幻の女性を求めて化物屋敷にとどまり続ける若者の話なのだが、様々な人物が周辺的また枢要な事情を語り継いでいき、主人公の若者が実際に行動するのは全体の三分の一にも満たない。つまり語りの構造こそが迷宮になっている。『春昼後刻』の冒頭で、夢は目覚めれば夢だが、目覚めなければ現実となってしまうと散策子が述懐する場面があるが、夢こそは最強の入れ子であろう。

さらに、恋に落ちた男の聞いた笛太鼓と囃子がある一方、散策子のいまの時点にも停車場の落成式の賑やかな音が聞えてくる。どんな男だったんです、と散策子が聞くと、出家はちょうどあなたのような方で、と答える。散策子のいまもまだ目覚めていないだけの夢なのかもしれないと思われてくるのである。男と玉脇みをは現実もまた所詮夢に過ぎないと、死んでしまう。おそらく、他人から話を聞くという形式は現実を夢の力から守るためのホメオパシー療法というべきものなのだ。迂闊に現実に向かうともうひとりの自分を見て、夢と現実の区別がつかなくなる。

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