2014年6月6日金曜日

ブラッドリー『論理学』38

第一巻判断第二章判断の定言的仮言的形式から。

 §12.現在が分割することのできない変化のない時間の一部で、ここといまは間断のない原子的なものだと仮定するのは間違っている。言葉のある意味において、現在は時間ではない。そこには過程がなく、変化の流れのなかにある一点である。それは流れを線引きすることであり、精神を継起している一つの出来事と別の出来事との関係に固定することである。この意味において、「いま」とは「と同時である」ことをあらわしている。それは存在を意味するのではなく、時間の系列における位置を意味している。実在は、原子的瞬間において与えられるという意味で現前しているのではない。

 我々が現前を実在と同一視するときに意図しているのはもっと別のことである。実在とは私が直接に接するもので、時間のどの部分でも、変化の連続的な流れのどの部所でも、私がそれに直面しているなら現前している。知覚に与えられたものは、たとえそれが私の手のなかで変化するにしても、それを私が知覚している限り、いまここにある。そして、この知覚において、私が特別に注意を向けている側面や部分は、また別の意味において、残りの内容よりもいまここにある。現前とは実在が私に直接にあらわれるこの持続によって満たされることである。現前としてはあらわれないと考えられるので、小さかろうが大きかろうが、出来事の継起には部分があり得ない。

 ついでに、「現前」という言葉に我々が見いだした意味の違いとその関連をおさらいしておこう。(i)時間における二つの出来事は、私の系列において同時に与えられているなら、お互いにいまである。(ii)実在は時間系列にあらわれるので、その系列に現在であり存在するものを見いだそうとする努力が原子的ないまという虚構をつくりだす。(iii)もし実在が決して時間のなかに存在することができず、そこにあらわれることができるだけだとしたら、私に接する系列の部分が私の現在になる。(iv)このことは、現前が実は時間の否定であり、決して系列において適切に与えられることはないという考えを示唆する。

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