2018年8月3日金曜日

イングマール・ベルイマンの『第七の封印』/クローネンバーグ『イグジステンズ』/キャスリン・ビグロー『ゼロ・ダーク・サーティー』






 学生のとき以来、見たいと思っていた映画をようやく見ることができた。イングマール・ベルイマンの『第七の封印』(1956年)である。

 ベルイマンは『ペルソナ』『沈黙』『叫びとささやき』などは学生のときに見ている。確かこの三本立てだったはずで、連続してみたものだから一本ごとの記憶はあやふやである。あるいは途中で寝てしまったのかもしれない。ベルイマンの映画は名画座で周期的に上映されていたので、これほど長い期間見られないことがあろうとは思ってもみなかった。

 名画座にも二種類あって、封切り後しばらくたった映画を上映する二番館(しかしそのときには二本立てになっている)と、封切館では上演しないような映画を見せるより本格的な名座座があった。

 名画座はその街の文化の結節点であった。その意味では新宿から池袋が東京文化の脊椎に当たるものであり、原宿、表参道、渋谷、六本木などは、文化果つるところだった。確かに、渋谷にはパルコやユーロスペースがあり、六本木にはアール・ヴィヴァンがあったが、所詮は文化的後進地が文化的だと思いこんで、過剰に走りすぎたものでしかなかった。特にユーロスペースの大学の視聴覚室のような見にくさには怖気を振るったもので、よほどみたい映画が上映されない限り見に行くことはなかったし、なにを見たのかもすっかり忘れてしまった。

 結局、ベルイマンは、その後、『ある結婚の風景』を名画座で見て、『ファニーとアレクサンドル』を岩波ホールで見たと思うが、それ以前の作品を見る機会がまったくなかった。

 それに、『第七の封印』を見たいと思っていたのは、澁澤龍彦がその唯一の映画論集である『スクリーンの夢魔』のなかで、熱を込めて賞賛していたからで、しばらく澁澤龍彦と関わっていくうちに、少なくとも映画に関する限り、それほど自分と趣味が重なることがないことはわかってきたので、さほど熱心に追いかけることがなくなった。ただ内容はまったく知らないながらも、『スクリーンの夢魔』にも載っていた、死神とチェスをするマックス・フォン・シドーの姿はよくおぼえていた。

 その姿が印象に残っていたので、特に根拠はないが、ロメールの『モード家の一夜』のように、神学論争とはいわないまでも、神や信仰についてのおしゃべり、あるいは信仰の懐疑をめぐる話し合いで成り立っているのかと思っていた。ところが、案に相違して、十字軍の戦いから故郷に帰ろうとする者たちの、ある種のロードムービーなのだった。

 ペストが流行している中世の世界で、マックス・フォン・シドーが演じる主人公は、仮面をかぶった死神に対して、チェスを挑むくらいであるから、戯れる程度の距離がとれると思っている。ところがいざ故郷に帰り着いてみると、死神には人間と戯れてそれで済まそうとする気などは毛頭なかった。黙示録からとられた『第七の封印』という題名は、やや大げさで、悪魔とトランプの勝負をするポオの『オムレット伯爵』(だったっけ)のように何気ない題の方がいいし、ついでにいえば、ファルスであればよかった。

 同じく、長い間見たかった映画を見たが、こちらは初見ではなく、封切りでもビデオでも見たが、それ以降見ることができなかったもので、デヴィッド・クローネンバーグの『イグジステンズ』(1999年)である。主演のジェニファー・ジェイソン・リーが大好きでもあるし、夢と虚構と現実という大好きなテーマを扱ったものでもあるからだ。




 ジェニファー・ジェイソン・リーは、最近、タランティーノの『ヘイトフル・エイト』に出ていて、さすがにあの映画の姿は女性として魅力的というには、ためらわれるものがあって、怪演といった方がいいが、なにしろ好きだったのは、1994年アラン・ルドルフの『ミセス・パーカー/ジャズ・エイジの華』のドロシー・パーカー役の彼女で、ドロシー・パーカーは雑誌『ニューヨーカー』の初期を支えた人物の一人で、早川書房の『ニューヨーカー傑作選』にも短編がいくつか収録されているはずだ。

 アラン・ルドルフのこの映画もソフト化がされていないので、是非もう一回見てみたい一本である。アラン・ルドルフは、ロバート・アルトマンの門下生で、『ミセス・パーカー』もアルトマンが制作をしているが、ジェニファー・ジェイソン・リーといえば、アルトマンの『ショート・カッツ』もさることながら、『カンザス・シティ』(1996年)も大好きで、この映画は後のアルトマン映画『プレタポルテ』や『バレエ・カンパニー』でそれぞれファッション・ショーとバレエが物語の添えものではなく、テーマそのものとしてじっくりと描かれるのと同じように、ただの映画音楽としてではなく、テーマの大きな要素としてジャズが組み入れられ、最後はジャム・セッションで大いに盛り上がることになり、ジェイソン・リーの最後の行為が際立つことになるのだが、なにしろこの映画も長いこと見ていない。

 『イグジステンズ』は、小さな、村の集会所のようなところで、ジェニファー演ずるゲームの開発者が新しいゲームの発表をすることから始まる。集団で参加するゲームで、それ自体は現在では当たり前になっているが、なんといってもクローネンバーグらしさがあふれ出ているのは、ゲーム機そのもののあり方であり、VRがヘッドセットによる視覚を中心とした表層的な知覚の変容にとどまっているのに対し、この映画ではゲーム機は脊椎に開けた穴に差し込むようになっている。

 性的な意味合いもあからさまで、脊椎の穴につばでぬらされたジャックが挿入される。また、ゲーム機はピンク色でグニャグニャしており、材質は大人のおもちゃそのものであり、ただしなにに使うのか(ゲーム機なんだけどね)、どう使うのかはわからない(こちらはゲーム機としてもわからない)。

 ゲームのなかは奇形の突然変異種があふれ、歯が弾として使われる拳銃や粘膜に覆われたグロテスクな食物が食べられており、メディアによる世界の変容という一貫したテーマが『ヴィデオドローム』以後、久しぶりにフルモードで展開されていて楽しい。物語はいまでは珍しいものではないが、ループ的な展開をし、ゲーム内ゲームを暗示し、いつまでも現実に戻ることのない虚構内虚構を指し示すが、実際に「現実」として残るのがいまある明確な輪郭を保ったものであるのか、粘膜まみれのねばねばしたものなのかわからなくなる。

 見たい映画といえば、キャスリン・ビグローの『ストレンジ・デイズ』もまた、見直したい映画の一本で、記憶においては、面白かったように思うのだが、内容もなにひとつおぼえていないので、是非確認したい。かわりといってはなんだが、『ゼロ・ダーク・サーティー』(2012年)を見直す。


 二度目か三度目だが、中東の戦争を舞台にしたものだと、どうしてもある身構え、先入観をもってみることになり、それはあからさまであるかどうかはともかく、この戦争を正当化するものになってはいないか、ということにあり、最初に見たときにはそうした臭みをどことなく感じないではなかったのだが、改めてみると、この映画はビン・ラディンを殺す映画というよりは、ビン・ラディンという実像が空無化し、その戦いのなかで、すり減っていき、希薄な存在になっていくCIAの女性捜査官の話で、素っ気なくテロップで処理されているが、主人公がアフガニスタンに関わるようになってから十年以上の年月が流れ、日常生活に戻れるのかはなはだ疑問である。ある意味、ゲームから戻れなくなるものについての映画であり、そうした意味では3本の映画は共通している。     

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