『想起、反復、徹底操作』および『快感原則の彼岸』の議論を例証として、我々は、反復が想起の一種であり、そのつながりが不明瞭で失われている物語を再組織化する一つの方法であることを見る。もし反復が死の欲動、正しい終結を見出すことについて語るのならば、反復において演じられるのは、必然的に終わりに向かう欲動のベクトルだということになる。すなわち、一度正しいプロットを決定すれば、プロットは終結するのである。プロットそのものが徹底操作である。
小学校の6年間ピアノを習っていたのに、練習などいっこうにする気配もなく、バイエルさえ終えることができなかったし、一日四分音符分だけでも進めていけば、いつかは習得することができるはずだとベートーヴェンのピアノ・ソナタの楽譜を買ってみたものの、思い立ったことすらすぐに忘れて、音楽の才能などないことはわかりきっているものの、音楽も厳密に言えば、音だけで成り立っているわけではなく、題もあれば、それによって引き起こされる情感もあるわけで、『南米のエリザベス・テイラー』まではまだ余裕をもって、ほおほおと傾聴していたのだが、こと「京マチ子の夜」にいたって、悔しくて悔しくて歯ぎしりしてしまった。なぜなら、当然自分が書いていても、というか、書くべきである表現のはずだから。
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