2018年8月6日月曜日

神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態ーーロラン・バルトを中心に






 『彼自身によるロラン・バルト』のなかで、バルトはそれまでの自分の著作を四つの時期に分けている。

 社会的神話研究、記号学、テクスト性、道徳性とそれらはジャンル分けされ、社会的神話研究に結びつく名前としてあげられているのが、サルトル、マルクスと並んでブレヒトである。

 この時期、というのはつまり、1950年代、著作で言えば、『零度のエクリチュール』から『神話作用』が完成されている時期に、バルトは演劇にも深く関与しており、「テアトル・ポピュレール」誌を中心に七十篇ほどの劇評を書いている。当然、そこにはブレヒト演劇に対する熱烈な讃辞もあるのだが、後に当時のことを振り返って書いた文章「演劇についての証言」(野村正人訳『ロラン・バルト著作集6』 死後刊行された『演劇論集』の巻頭に収録された)では、まさしくこのブレヒトへの熱狂こそ、自分が演劇から遠ざける結果をもたらしたのだと述べている。

 ブレヒトの演劇をするには実はお金がかかるとバルトは言う。とうのは、ブレヒトが舞台に持ちこんでいるのは、単なる思想やそれを伝えるだけのテクニックではなく、文化そのものだからである。いわゆる、政治的な、社会リアリズム的な演劇は、ブルジョア的美学を捨て去ると称しながら、実は具体的な文化のない通俗的な形式をなぞっているだけではないか、そのときブレヒトがもたらす「気品=区別」とは「芝居がそのせいで光り輝くと同時に緊張感を持つような、明快で簡潔な『コード』である。」

 つまり、異化効果というのは、決してなにかを排除することではなく、弛緩した空気に緊張感をもたらすような線を引き直すためのコードなのだ。かくして、こうした自分が夢想に思い描いていたような演劇を前にしてしまうと、他の芝居が不完全なものに思われ、結果として演劇から遠ざかることになってしまった、とバルトは書いている。

 バルトがブレヒトに惹かれたもう一つの理由は、ブレヒトが思想だか主義のために快楽をないがしろにしないことにあっただろう。バルトは金さえあればハバナ葉巻を買い、ブレヒトも吸っていたからと正当化していたという。また、非常な大食漢で、社会学者エドガール・モランの妻で、バルトとは最も長いつきあいの友人の一人である、ヴィオレット・モランは彼の食べ方を「食卓では、彼は舌を出すトカゲのようでした。ある日、面識のない十人足らずの人に囲まれて、夕食をとっていたときなど、フォークで料理を自分の皿に取り、トカゲのように素早く、二度、三度、突き刺していました・・・・・・」(L,-J.カルヴェ『ロラン・バルト伝』花輪光訳)と語っている。




 ブレヒトは、バルトにいくつもの層において刺激を与えた唯一の人物であると言える。ジッドやプルーストはバルトが文学をめぐる観念を形成するのに大きな寄与をしたし、ソシュールの記号学も、デリダやラカンのテクスト性も理論上の影響をあたえたが、そうした理論を(しばしば浅薄だという非難を浴びながら)意味の線を引き直すための道具として使っては捨てていく身振りというのは、むしろ「理論」に奉じようとはしないブレヒトの「反ヒステリー的」な所作に近しいだろう。主義や理論を越えて、バルトとブレヒトには批評的身振り、生存の様態として近しいものがあり、バルトにとってブレヒトは演劇に限られることのない倣うべき先達だったのだ。

 ブレヒトがある種演劇の範型を提示してしまったがゆえに、ブレヒト以後滅多な芝居に満足できなくなり、1965年の「演劇についての証言」では、「いまではほとんど劇場に行かない」と書いているが、バルトは別にブレヒトとともに演劇にのめり込んだわけではなかった。実際、この小文の冒頭には「ずっとわたしは演劇が大好きだった」と書かれている。

 学生時代のバルトの成績は優秀であり、友人たちとともにフランスの最高学府高等師範学校に進むつもりでいた。しかし、1934年に結核が発病、それから約十年、つまり二十代のほぼ全体をサナトリウムと小康を得てパリに帰ることの繰り返しに過ごすことになってしまった。高等師範学校への進学もあきらめざるを得なかった。35年にいったんパリに戻り、古典文学士号を取るためにソルボンヌに登録し、そこでソルボンヌ古代演劇グループを創設する。彼らはアイスキュロスの『ペルシアの人々』を公演し、38年にはグループの仲間とともにギリシャに行く。しかし、41年には結核が再発し、42年から足かけ5年の間再びサナトリウムでの生活が始まるのである。

 サン=ティレールの学生サナトリウムであったから、文化的な活動は奨励されており、劇団もあったし、学生クラブの機関誌にして季刊誌である「エグジスタンス」もあって、この雑誌にはバルトも寄稿していた。アンドレ・ジッドについて、カミュの『異邦人』について、また古代演劇クラブとギリシャに行ったときの紀行などが発表された。

 さて、実はここまで書いてきたのは、その紀行文「ギリシャにて」の一節がはじめて読んで以来頭から離れなくなってしまったからである。この文章は断章形式になっており、『テクストの快楽』以後のバルトがもうそこにいることを示してもいる。私が忘れられなくなったのは「アクラコリア」と表題のついた一節の後半部分なのだが、どのみち短いし、前半部も面白いものだから一緒に引用しよう。




 レストラン〈アレキサンドロス大王〉では、古代ギリシャの伝統がいまでも生き続けているように思われる。アクロコリアつまり臓物料理を食べること。動物の内部でわなわな震え、赤く染まり(ついで緑色になる)すべてのもの。古代ギリシャ人は、複雑で退廃的なこの肉をおおいに好んだ。彼らはロースと肉を好まず、脳髄、肝臓、胎児、胸腺、乳房等、そういった柔らかく持ちのわるい肉を好んだが、それらの肉は腐りかけたとき食欲をそそってやまなかった。反対に、ワインについては精妙な慎みがあった。一般的に、大量の水で割ったワインしか飲まなかった(ワインはたったの八分の一まで)。酔うにはそれで充分すぎるほどだった。生のワインを飲むのは、徹底的に飲んで酔っぱらうと固く決意したときだけだった。巧妙な節制の証であるが、それは美徳によって培われたものではなく、陶酔、恍惚、情念を解き放ち、より軽やかに飛翔させるためだった。ほんのわずかにワインで得られる陶酔は、大量に飲んで得られる陶酔とはまったく質を異にする。あまり金をかけないで酔うことは、ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態に導く、ある種の技巧だった。オリエントの人々――ギリシャ人に近いところではどこでも――は同じ禁欲を実践していた。それについては、ペルシャの詩人の詩が残されている。       (『ロラン・バルト著作集1』渡辺諒訳)

 「複雑で退廃的な」「柔らかく持ちのわるい肉」が、ローマ人のなかで好まれていたことはどこかで読んだおぼえはあるが、古代ギリシャ人にも好まれていたのだろうか。カルヴェの『ロラン・バルト伝』によれば、バルト自身は内臓よりは子牛のクリーム煮やソース類や生クリームなど、総じて「《なめらかなもの》」を好み、内臓を好む友人に向かって「君はギリシャの闘技者と同じようなものを食べるね」と言っていたという。しかし、いずれにしろ、こうした細かな食の好みについて言及するのはいかにもバルトらしい。

 たとえば、三島由紀夫の『アポロの杯』は、かねてからの「眷恋の地」におりたった酩酊感のなかで、美について思いめぐらすばかりで、なにを食べたかなどは一切触れられていない。ヘンリー・ミラーのギリシャ紀行『マルーシの巨像』は、たしかに頻繁に食べる記述はあるのだが、なにを食べたかや味の詮索などはなく、ミラーほど良くも悪くも排気量の極端に大きい人物にとって、食事など所詮エネルギーを取り入れるだけのものであり、そんな細かな個人的快楽は快楽のなかに入らず、友人との形而上学や小説や詩からセックスにいたる尽きることのない会話や、汎神論的に広がる性感覚、世界との一体感にいたってはじめて快楽の名に値するものとなるらしい。

 それはともかく、わたしを真に驚嘆させたのは、後半、大量の水で割ったワインが生のワインと「まったく質を異にする」陶酔をもたらし、それが「ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態に導く」という部分だった。

 たまたま岡本かの子の『生々流転』を読んでいると、商家の若旦那とそこの番頭が昼間から酒を飲む場面がでてくる。この番頭は親身あり情味ある女房をもらってしばらくは有頂天だったが、しばらくするとそのまとわりつく感じがいやになり三人子供もあったのに別れてしまったような男だが、若旦那との間に相当の応酬を重ねたのち、あるときがくるとぴたりと盃を伏せ、どんなに勧めてもそれ以上のもうとしなかった。若旦那の方は飲みだすとやめられないたちで、番頭の了見がわからないものだから、酒をどんなつもりで飲むんだとなじるように尋ねる。




 「判つてゐるぢやございませんか。酔ふためには違ひございませんが、ときには気附け薬になつたり、ときには滋養になつたり、だから飲むに時と処は選みませんが、よいだけ酔つて、これ以上、むだだと思つたらさつさと切上げます。あなたのお言葉ぢやござんせんが、以下は省いてしまひますな。そこは永年の修練です」

と番頭は答える。若旦那同様わたしも「君はまだ滅びない人種の酒呑みだよ」と感嘆するに否はないが、結局それは「むだだと思つたらさつさと切上げ」られ、そうした「修練」を積むにいたった番頭の人間性に対するある種の感嘆であって、大量の水で割ったワインが厳然たる文化であるのとはまるっきり話が違っている。

 古代ギリシャにワインを水で割る習慣があったことは確かで、アリストテレスは若者に刺激のより少ない水割りのワインを勧めている。しかし、それが生のワインとは質を異にする「特異な状態」をもたらすという確固たる認識が果たしてあったのだろうか。


 プラトンの『饗宴』は、題名からいかにも酒を呑みながらの歓談と考えてしまうのだが、実はそうではない。饗宴には手順が定められており、ご馳走を食べ終わると神に葡萄酒を捧げる灌奠などの儀式があり、神への讃歌が歌われ、それから酒ということになる。

 ところが、『饗宴』では、それらが一通りすんで酒というところで、出席者の一人であるパウサニアスが「さて、それでは諸君、どういう飲み方をすれば、いちばん楽な飲み方ができるだろうか。実際ぼくとしては、諸君にぶちまけたところ、きのう飲んだ酒でひどく気分が悪く、何か息抜きになるものが欲しいところだ。それに、大部分の諸君だって同様だろうと思う。なにぶん昨日も出席していた君らのことだからね。」(鈴木照雄訳)と提案すると、他の参加者も二日酔いであることを告白し、「まあ気の向くまま飲みたければ飲むといった調子でやろう」ということで、おそらくは酒なしで、エロースに関する考えが順に述べられていくのである。

 プラトンの『饗宴』は、参加者がみな昨日の酒が残った二日酔いの状態であることを告白することにはじまり、恋の神であるエロースについて参加者がそれぞれ自身の「言論」を発表することが続く。なかには、有名な、アリストファネスの説、人間は本来二体が合わさった球形であったが(男女、男男、女女の三種類)、驕慢で神に逆らったためにゼウスによって二つに切断され、それ以来、人間は失われた半身を求めている、という言論が含まれている。そして、それぞれがエロースについての説を発表したあと、「たいへんな酔っばらい」であるアルキビアデスが乱入し、ソクラテスを賞讃することで『饗宴』は終わる。つまり、二日酔いからはじまり、酔っぱらいの闖入で終わるわけで、ほどよい酩酊とは無縁なのである。


 同じくプラトンの『法律』では、酒は若者の弱点をあらわにするので、彼らに注意を与えるに際し有効なテスト法である。だが、いずれにしろある言い伝え、「ディオニュソスは、継母ヘラによって魂の判断力を奪われ、そのためにその復讐をしようとして、バッコスの狂乱やありとあらゆる狂気の踊りをもたらしたのであり、酒もまた、その同じ目的のために贈られたものだ」(森進一・池田美恵・加来彰俊訳)によれば酒とは狂気への道であるから、軍役に服している者はいついかなるときにも酒ではなく水を飲んで過ごさねばならない、国内にいる奴隷は、男も女も酒を飲んではならない。

 船長も裁判官も職務を遂行しているときには飲んではならない。重要な評議会に審議のために出席する者も飲んではならない。いかなる者も、身体の訓練や病気のためでなければ、昼間は決して飲んではならない。夜であっても、子供をもうけるつもりのあるときは飲んではならない、それ以外にも「正気を保ち正しい法律に従う人なら、酒を飲んでならない場合は、たくさんあげられるでしょう。」と述べ、更に「こうした原理に従えば、どんな国家も多くの葡萄園を必要とはしないでしょう。また、他の農産物やすべて日々の食料品が統制を受けますが、なかんずく酒は、あらゆるもののなかで、おそらく最も適量に、最も少なく生産されるでしょう。」といかに酒の力を封じ込めるかに力点が置かれている。

こうしてプラトンは国家全体にそれぞれの職務、階級に則った節制の徳を与えようとしているのだが、こうした節制は単に欲望に対して否定的なものなのではなく、フーコーが言うように、快楽のひとつの術ともなり得る。というのも、節制の反対である不節制は、欲求を過度に貪ることであり、欲望にいかにも忠実であるように見えて、実は、行き過ぎている。


たとえば、飢えや渇きが過度に満足させられれば、その欲望は死に、食べたり飲んだりすることの快楽の感覚は押し殺されるだろう(楽しく食べ続け、飲み続けていたことが、いつかある閾を越え、苦行に近しいものとなることは誰にでも経験があろう)。つまり、節制というのは、満足を常に控えめに抑えておくことによって、快楽を受ける余地を残しておけるよう身の備えをすることだ、ということになる。ソクラテスからプラトンへといたる快楽の教えはまさしくそのようなものだったのだろう。

節制とは快楽の一つの術、一つの実践であり、欲求に根ざす快楽を《活用する》ことで、この実践は自分に限度を設ける力をもちうるのだ。ソクラテスによれば、「ただ節制のみが、上述の欲求をわれわれをしてがまんせしめ、ただそれのみが記憶にとどめるに足る快楽を楽しませる」。しかもまさしくこのような仕方でソクラテス自身も、クセノフォンの言葉を信じると、日常生活で快楽を活用している。すなわち、「ソクラテスは食事の量を食事が楽しみである程度にとどめ、そのために、食卓に向かうと、いつでも食欲が調味料のかわりをしていた。酒は咽喉がかわかなければ飲まないから、どんな酒でもおいしかった」。(ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』 田村俶訳)

 しかし、これもまたバルトのいう「甘美なまでに特異な状態」からは遠いだろう。いつでもおいしくものを食べ酒を飲めるように、腹具合や喉の状態を少々空腹や渇きをおぼえる程度に保っておくというのは、快楽を一元化することでもある。

 つまり、バルトの場合には、生のワインを徹底的に飲んで酔っぱらうという陶酔と、それとは質の異なる水割りのワインによる「より軽やかな」陶酔があったわけだが、このソクラテス=プラトン的な節制では、適度な空腹や渇きを癒す際の快楽だけしかないのである。

プラトンから離れ、ギリシャの詩を見てみても、たっぷり飲み明かそうと訴える詩ばかりで、軽やかな特異な陶酔を描いた詩を見いだすことはなかなかできない。前三世紀初頭の詩人、アスクレーピアデースの詩を一編あげておこう。


飲めよ、さあ、アスクレーピアデース、何故この涙か、何を思ひ悩むのか。
 つれないキュプリスが捕虜にしたのは、お前ひとりではあるまい。
また、お前のためのみに、意地悪い愛神が弓や矢を
 磨ぎすましたのではあるまい、何故生きながら灰にかう塗れてゐるのか。
飲み明かさうよ、さあバッコスの生の飲料を。夜明には指一ふし。
 それとも復た閨にさそふ、灯火の影を見るまで待たうといふか。
飲み明かさうよ、さあ景気よく。いかほど時も経ぬうち
に、
 可哀や、長い夜をただひたすらに 眠るさだめの我等
ではないか。
  (『ギリシア・ローマ叙情詩選』 呉茂一訳)

 「同じ禁欲を実践していた」(バルト)というオリエントの人々のなかから、(大分年代は下るが)オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』をひもといてみても、酒に関する詩は数多くあるが、特異な陶酔は感じられない。二例だけあげておこう。


      76身の内に酒がなくては生きておれぬ、葡萄酒なくては身の重さにも堪えられぬ。酒姫がもう一杯と差し出す瞬間のわれは奴隷だ、それが忘れられぬ。      99おれは有と無の現象を知った。またかぎりない変転の本質を知った。しかもそのさかしさのすべてをさげすむ、酔いの彼方にはそれ以上の境地があった。

といったふうで、少なくともわたしには大量に飲む姿勢をあらわしているように思える。


更にいえば、酒と分かちがたく結びつくことになった葡萄の神であるディオニュソスは先に述べたように各地に狂乱を振りまいた神であった。そして、形象に止まり、彫刻や叙事詩に結実したギリシャ精神を「アポロン的」とし、非表象的で、人間の根源的な衝動の発露であり、叙事詩や音楽としてあらわれたギリシャ精神を「ディオニュソス的」と名づけたニーチェによって、酒はより決定的に、深い酩酊と結びつけられるようになったのではないだろうか。

 ディオニゾス的興奮は、自分達が内的に合致していると意識するところの、此の如き精霊群にとりまかれたる自分達自身を見ることの此芸術的能力を全群衆へ賦与し得るのである。悲劇合唱のこの作用は劇的根源現象である。自分自身の前に変形されたる自分自身を見るということ、そして今あだかも、人が実際ある別な体に、ある別な性格にはいっていたかのように行動するということは。このようなる作用は劇の発展の発端に立っている。ここにはその形象と融合しないで、むしろ画家の如く観照的な目で自分自身のそとを見るところの、あの史詩吟誦なぞとは異った何物かがある。ここには既に別な性格への没入による個性の放棄がある。そして固よりこのようなる現象は流行病的に出て来る。全群衆がかくの如く変形されて自らを感ずるのである。この故に酒神頌歌は本来はいかなる他の合唱歌とも異っている。月桂樹の枝を手にして、厳かにアポロの神殿へ練り行き乍ら、行列の歌をうたうところの処女達は、依然としてもとの儘の彼女等であり、彼女等の市民としての名前を保持している。酒神頌歌の合唱は、形を変えられた人人の合唱である。そして彼等の市民としての過去は、彼等の社会的地位は全く忘れられている。彼等はあらゆる社会的領域の外に生きているところの、時間のないところの、彼等の神の奉仕者になっている。希臘人のあらゆる他の合唱的叙情詩は、アポロ的な個人的唱歌者の巨大なる増進にすぎない。しかるに酒神頌歌に於ては、自分達をお互いの間に変形されたものと見なすところの、無意識的な俳優の一共同体が私達の前に立っているのである。
(『悲劇の出生』生田長江訳)

 こうした経験は、むしろ神秘的とも言えるものであって、飲酒による酩酊などとは質を異にしていると言うべきだろうか。確かにニーチェの描いているのは、神の祭祀に結びついた聖なる経験であり、世俗化されつくした現代の世界とは隔絶しているように思える。しかし、酒神こそいないものの、たとえば吉田健一の短編「酒宴」などはニーチェの呈示したのとさほど異なることのない経験を描いていないだろうか(同じような経験を描いた吉田健一の文章は、枚挙にいとまがない)。


 銀座の「よし田」で「円いと言ふ他ない感じの」中年男と飲み始めて別れ難くなる。東京駅の方の地下のなんの飾り気もない店で朝まで飲み、その足で男が酒の技師を務めている灘の工場まで見学しに行く。工場にはタンクが並んであり、大きな茶碗で利き酒をする。見学が終わると、神戸の「しる一」という料理屋の二階で宴会が始まる。やがて、なぜか、いま工場で見てきた四十石入りや七十石入りのタンクが献酬相手になっている。七石さんは胴の真ん中辺のふくらみ方から女であるらしい。いつの間にか場所は山の上の草原になっており、「自分」はタンクを取り巻いて神戸からその後ろの連山まで伸びる途方もなく大きな蛇になっている。


 短篇「酒宴」に見られるような、献酬の相手が酒の入ったタンクに、自分はそれらのタンクを取り巻く途方もなく大きな蛇に変身してしまう酒宴は、ディオニュソスの祭儀の陶酔に近いと言えるかもしれない。だが、ニーチェのいう「彼等の市民としての過去は、彼等の社会的地位は全く忘れられている。彼等はあらゆる社会的領域の外に生きているところの、時間のないところの、彼等の神の奉仕者になっている」という記述と吉田健一の酒宴とでは似て非なるところがある。というのも、たしかに吉田健一の様々な酒宴においても、その人間が過去になにをし、どんな仕事をしている人間なのか問題にされることはないのだが、「あらゆる社会的領域の外に生きている」とは到底言えないからだ。


 『瓦礫の中』は、敗戦直後の日本で、防空壕に住んでいる夫婦がひょっこりと新しい家を手に入れるまでの話なのだが、家を手に入れるのは瓢箪から駒がでる付けたりに過ぎず、内容といえば、吉田健一の小説の多くがそうであるように、人の組み合わせを変えながら、酒を飲むことに尽きている。だがその酒宴は、ラブレーのような、大量の臓物料理と葡萄酒と排泄物とが隣りあっているような野放図なものではない(たとえば、ガルガンチュワの母親であるガルガメルが産気づくのは酒宴の最中であり、産婆たちが赤ん坊だと思い「随分と悪臭を帯びた皮切れのようなもの」を引っぱるのだが、それは臨月だというのに臓物料理を食べ過ぎた彼女の「糞袋」が弛んで脱肛を起こしていたのだった)(『ガルガンチュワ物語』渡辺一夫訳)。

 小説の冒頭で、寅三とまり子の夫婦は、同じく家を焼かれ防空壕のなかに住んでいる隣家の伝右衛門さんを夕食に誘う。彼らは酒を飲みながら漢詩を引用しあったりするのだが、突然伝右衛門さんがこんなことを言いだす。

それはあの頃の服装を見れば解るでしょう、服装に限ったことじゃないけれど。あの十八世紀のは威張るのが目的じゃなくて自分も含めて、自分の着心地のことも考えて人を喜ばせる為のものだった。だから文明なんです、その時代の日本も同じで。あんな風に男も女も髪に白粉か鼠色の粉を振り掛けるのは可笑しいとお思いになるかも知れないけれど、あれを蝋燭の光、それも何も暗いっていうんじゃない、電気の光を何十燭っていうその何十本でも何百本でも蝋燭を付けたんですからね、ただ電気よりも光が柔くて、その光がああいう頭に映っている所を考えて御覧なさい、それがどんな具合になるか。これは日光だってそれ程じゃなくても同じ効果がある。そして文明が発達すれば夜の生活が大切になるんですからね。あの髪であんな服装をしている。それで男は首と手首の所に白いレースが出ていて男の服も繻子か天鵞絨を多く使った。どっちも髪と同じことで光を柔げるんですよ。貴方に女の服装のことを言うことはない。そういう男や女が馬車から降りて来る、或は輿から出て来る。

 続けて伝右衛門さんは、「モツァルトの音楽って人を驚かせないでしょう」と「まり子でない聞き手ならば突拍子もないと思ったかも知れないこと」を言う。しかし、吉田健一の酒宴に招じ入れられるのは、こうした言葉を「突拍子もない」と思わない者だけなのである。

 ヨーロッパ十八世紀の文明が光という物理的事象を、さまざまに工夫を凝らした服装で馴致したように、吉田健一の酒宴では、アルコールがもたらす生理的事象、酒癖の悪さ、むかつき、諍いなどが馴致されている。そうした文明の作法を知らない者は吉田健一の世界には参加できない。

 寅三は占領軍相手の仕事をしているが、仕事相手のジョーと交わすのも文明の作法をわきまえた者同士の言葉なのだ(「貴方は『大鴉』って読んだことがあるかね、」とジョーが聞いた。/「それはある。そうすると、酒を飲みながら文学の話をしてもいいんだな、貴国でも。」/「弊国ではいいさ。貴国では」/「そりゃいいさ、文人墨客がすることだよ。」)。

 吉田健一的人物とは、社会的地位や陽気でがさつな「ヤンキー」というステレオタイプからは自由だが、文明という「社会的領域」に棲息することが必須の条件となっているのである。かくして、彼らの会話には「突拍子もない」ことなどなにもなく、人間関係にまつわる葛藤もない。もちろん議論などもなく、酒を酌み交わして会話することは同じ世界に住むことを確認するだけのものなのだ。

 というわけで、ニーチェ的な暗い陶酔と吉田健一の酒宴とは異なるのだが、その分、ロラン・バルトのいう水で割ったワインを飲むことでもたらされる「ほとんど神聖ともいえる甘美なまでに特異な状態」に近しいものがある。「酒宴」という短篇では、吉田健一の小説では例外的といってよく、飲んでいる者が次々に酔いつぶれ、生の葡萄酒を飲む場合と同じ難点、つまりは酔いの陶酔からのあまりにも早すぎる不本意な失墜に見舞われるのだが、本来的な吉田健一の酒の時間とは、そうした失墜には無縁な「甘美なまでに特異な状態」の持続から成り立っている。

 寅三はいつも伝右衛門さんと飲んでいるともうずっと前からそこでそうやっている気になって、或は寧ろ前と後の感じがなくなってただ今だけがある状態でいるのが続き、こうしている今はその部屋の様子が益々はっきりして来るのが同時に霞むようでもあり、卓子の向うにいる伝右衛門さんと二人の間にあるウイスキーだけが心が安まる程明かに寅三が自分であることを保証してくれていた。それは独酌する時に似ていてそれであるから伝右衛門さんも無駄がなくその人になり、それから先は途方もないことを言い出して狂乱の境地に自分を忘れることも、ただ黙っていることも自分の選択次第で丁度そこの所に止って伝右衛門さんと飲みながら話を続けるのが充足というものだった。そういうことをいつまでもやっていられるものだろうか。それが上等な日本酒でなくてもウイスキーならば出来て、こういう飲みものには何か人を酔わせて置いて或る所で引き留める働きがある。

敗戦後の東京が舞台とあって、上等な日本酒が手に入るはずもなく、ここではウイスキーとともに時間が流れるのだが、吉田健一の文章においてウイスキーの位置はそう高くない。葡萄酒や日本酒とは異なり、食事とともに飲むには適さないこと、酒は上等になればなるほど味が複雑になり、味が複雑になればなるほど真水に近くなるという吉田健一独特の基準からするとそういう評価になるものと思われる。

それはともかく、バルトのいう「甘美なまでに特異な状態」が吉田健一のこうした記述と重なるものであるなら、そのユートピア的相貌がようやくあらわになってきたと言えよう。『表象の帝国』の日本が現実の日本を材料に気ままに切り取られたバルトによる幻想の日本であったように、水割りの葡萄酒を傾けるギリシャ人もまたバルトによる幻想のギリシャを形づくるものと言える。

たしかに、水割りの葡萄酒を飲む習慣はあっただろうが、それを「甘美なまでに特異な状態」に結びつけたのはバルトのユートピア志向であったろうし、友人と酒を飲んで楽しい時間を過ごすことは一般的にあるだろうが、それを「前と後の感じがなくなってただ今だけがある状態」に結びつけたのは、同じく吉田健一によるユートピア衝動だった。

 バルトの「甘美なまでに特異な状態」は一九七七年から一九七八年にわたってコレージュ・ド・フランスで行なわれた講義『〈中性〉について』のテーマであったと思われる。生の葡萄酒がもたらす酔いについて、ド・クインシーからの引用を含めて次のようにいわれている。


「危機的時間性を産みだすのは、葡萄酒である:『葡萄酒があたえるこの快楽は、つねに上昇的な進行を示し、その極限へと向かうが、そのあとではすばやく減退の方向をたどる。阿片が得させる快楽は、ひとたび姿をあらわすや、八ないし十時間はそのままとどまっている。一方は燃え上がるものであり、他方な均等で穏やかな光である。』・・・・・・したがって、葡萄酒は、臨界点をもつあらゆる酔いのモデルである。上昇、絶頂、虚脱。ド・クインシーはそうしたことを明確に理解した。」(塚本昌則訳)

「均質で穏やかな光」こそ水割りの葡萄酒がもたらすものだったろう。

〈中性〉とは、講義要約によれば、「意味の範列的構造、諸要素を対立させる構造をたくみに避けるか裏をかき、そのようにして言説の諸要素の対立を宙づりにすることを目指すようなあらゆる抑揚の変化」をいう。闘争を引きおこすような「〈断言〉、〈形容詞〉、〈怒り〉、〈傲慢さ〉」とは異なり、闘争を中断するような「〈好意〉、〈疲労〉、〈沈黙〉、〈繊細さ〉、〈眠り〉、〈揺れ動き〉、〈隠遁〉」に向かう言説である。

 トルストイ、ルソー、ベンヤミン、ボードレール、ブランショ、ジッドなど様々な文章が引かれているのだが、そんななかでももっとも多く言及されているもののひとつが老子と道教についてである。冒頭、「講義全体のために」として四つの文章が朗読されたが、ジョゼフ・ド・メストルの『スペイン異端審問に関するあるロシア人貴族への手紙、1815年』、トルストイ『戦争と平和』、ルソー『孤独な散歩者の夢想』とともに、ジャン・グルニエの『老子の精神』からの一節(アンリ・マスペロによる『老子』の翻訳を改編したものであるらしい)が取りあげられた。講義録では「老子自身による老子の肖像」という見出しがつけられている。

他の人々は、まるで饗宴に参加するか、春楼に登ってでもいるかのようにしあわせだ。わたしだけが冷静で、わたしの数々の欲望ははっきりとした姿を取らない。わたしはまだ笑ったことのない子供のようなものだ。まるで隠れ家を持たないように悲しく、打ちひしがれている。他の人々はみな無駄なものを持っている。わたしだけが、すべてを失ったように思える。わたしの心は、愚か者の心だ。なんという混沌!他の人々は知的な様子をしているのに、わたしだけは間抜けのように思える。他の人々は見識に満たされているように見える。わたしだけがぼんやりしているのだ。わたしは、まるで休息の場所を持たないかのように、流れに引きずられているように思われる。他の人々はみな自分の仕事を持っている。わたしだけが、野蛮人のように愚鈍だ。わたしだけが他の人々と異なり、〈乳母〉〔である道〕を尊敬している。

 この愚鈍さ、無為は「明らかに、生きる意欲の反対ではない。それは死のうという願いではない。生きる意欲の裏をかき、巧みに避け、方向をそらすものである」とバルトは言い、二種類の無為=選ばないことを区別している。ひとつは性格の弱さによる、優柔不断からくる選ばないことだ。もうひとつの選ばないことは、「引き受けられた、穏やかな」選ばないことである。それは「純化させる節制、禁欲、求道ではない」。裏をかき、方向をそらす選ばないことであり、道教の不可思議さがそこにあらわれている。

0 件のコメント:

コメントを投稿