2018年8月22日水曜日

三池崇史『神様の言うとおり』/ベルイマン『この女たちのすべてを語らないために』/ナ・ホンジン『哭声ーコクソンー』








 『CUBE』や『SAW』以来だろうが、登場人物が気づかぬうちにこの世界とまったく別のルールが支配する別の世界に投げ込まれる、シチュエーション・ホラーというか、サスペンスはすっかり濫用が続き、もはやそのことによって作品の仕掛けとして目立つものではなく、創作物の背景としてあるに過ぎないので、それ自体で評価の基準になることはなくなってしまったが、まあ、私自身の趣味としてはそういう仕掛けは好きな方だし、最近でいうと、アニメの『血界戦線』や『刻刻』(たぶん最近というには遅れていそうだが)などは面白かったし、映画でいえば、三池崇史の『神様の言うとおり』(2014年)などは、各種レビューでは惨憺たる評価なのだが、普通の高校生が、ダルマ(置物によくあるダルマである)とだるまさんが転んだをする、体育館で巨大な招き猫(置物によくある招き猫である)の首に鈴を付ける、巨大な熊(これまた置物によくある)を相手に嘘をつかないことを命じられ、こけしたちと後ろの正面誰だ、をすることを強いられて、脱落した者たちが次々に死んでいく、といったばかばかしい設定なのだが、私はばかばかしいことが悪いと思ったことがないので、やや大げさなことをいえば、この世界であってもかく存在する根拠などありはしない。

 原作のことはまったく知らないので、最後に浮浪者のリリー・フランキーが神としてあらわれ、引きこもりでネットに浸りきっている大森南朋がドスを懐に世界を救う、と母親に言い捨てて出て行くのは続編があるのか、不評で立ち消えになったのか、ウィキペディアによれば、未完である第一部の途中までを映画化したものらしいから、唐突な始まりと平仄を合わせた唐突な終わりとしてみた方が、味わいがある。

 むしろ、ばかばかしさからの転落があるとすれば、それを説明しようとする愚鈍さにあるが、そうしたマイナスの評価も、一歩一歩執拗な関連づけを行い、数学的な世界や物理学的な世界があるように、ひとつの世界を制作するまでになると逆転することになるから、一概にそれ自体でどうこういえるものではないが、そもそもばかばかしさに足を踏み入れることができるのも特異な才能であり、日本映画でいえば、鈴木清純、北野武、園子温などの系譜に三池崇史も加えられるだろう。

 出鱈目ということで言えば、ここ最近、連続してイングマール・ベルイマンの映画を見ているが、未見であった『この女たちのすべてを語らないために』(1964年)(邦題も素晴らしい)の出鱈目さ加減も相当なもので、『夏の夜は三たび微笑む』(1955年)は男女の組み合わせが奇妙にねじれた結果、最終的に収まるべきところに収まるというシェイクスピア風の喜劇であったが、こちらは(ちなみにこの映画はベルイマン初のカラー映画なのだが)往年のハリウッドのスクリューコメディーの流れをくむもので、巨匠であるチェリストの葬儀がから始まり、四日前にさかのぼることから、『イヴの総て』のように巨匠の実像と虚像が交錯して描かれるのかと思えばさにあらず、なかば進行役として音楽批評家が伝記を書く目的で、屋敷に乗り込むのだが、屋敷では巨匠が正妻、愛人を含めた七人の女性たちとともに生活しており、拳銃をところ構わずぶっ放す女もいれば、同じ屋敷内で批評家とベットをともにする貞操観念のおかしな女もいる。

 批評家が忍び込んだ部屋で、煙草の火の不始末から無数の花火が屋敷全体を包み込むように華々しくあがり、字幕の画面が挿入され、この場面は特になにかを意味しているわけではない、と注釈まではいる。

 この映画の前作である『沈黙』あたりから、衣装、美術、風俗などについてベルイマンとフェリーニとの類似が目立って感じられるようになったが、この映画のように女性がわらわらと出てくるとなおさらフェリーニとの近さを思わずにはおれないのだが、同じく「女性映画」と呼ばれることはあっても、両者が決定的に異なるのは、フェリーニの映画が男性に対する「女の都」であるのに対し(それにはマルチェロ・マストロヤンニという監督が全幅の信頼を寄せられる名優の存在も大きい)、ベルイマンの場合、男性が存在しなくとも成立することにある。

 実際、この映画においても、巨匠は批評家がどんなに会おうとしても姿を見せず、最後の屋敷からのラジオ放送の場面になってようやく姿を見せるが、大きなマイクに隠れて顔は見えることなく、演奏の前に死んでしまう。フェリーニの女性が祝祭をもたらすとすれば、ベルイマンの女性は男性にとっては自身の存在が失われる喪の儀式が招き寄せられるといえるかもしれない。

 儀式といえば、ナ・ホンジンの『哭声ーコクソンー』(2016年)も妙な映画で、儀式による霊能力合戦のようなものが、思ってもいない地点に着地する。ある田舎町のはずれによそ者である日本人(国村隼)が住み着いたことから、奇怪な事件が起き始める。次々に死者が出るが、身内の犯罪のようでもあり、他人がかかわっているようにも思える。あるいは伝染病かとも思われ、だとすると、ロメロの『クレージーズ』のような、あるいはこれまでにも何回も試みられてきたような形を変えたゾンビものだとも思える。ところが、主人公である警官のクァク・ドウォンの娘の様子がおかしくなり、キリスト教の牧師はなんの役にも立たず、土俗的な祈祷師に祈祷を頼むこととなり、さらに第一の原因であるかに思えた日本人もまた悪霊的なものを追ってきた霊能力者らしいとなると、冒頭に、イエスの復活したあと、その姿が弟子たちに疑念を引き起こすという『ルカによる福音書』が引用されているのが意味深く感じられるのだが、だからといって一筋縄でいかないのは、そのことによってどう振る舞うべきか、あるいはべきだったかなんら直接的な示唆を与えてくれるわけでもなく、なにを信じるべきかすべてが宙づりのままに残されるからで、確実なのは娘を思いやる父親の愛情だけなのだが、周知のように、信仰は肉親の情愛を断ち切ることから始まる。

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