我々が『快感原則の彼岸』の読みから引き出すのは、中間物を迂回、遅れを課する強迫のもとに終結を目指す苦闘、テクストの引き伸ばされた空間におけるアラベスク模様として必然化するように始まり(エロス、緊張に至る興奮、叙述の欲望)に対して終わり(死、静止、叙述不可能性)を構造化する力動的なモデルである。このモデルは、我々が死ぬために生きているのだということ、それ故、プロットの意図は、終結が迂回を通じてのみ完遂されなければならないにしても終結を目指す方向づけに存することを示唆する。このことは、始まりと終わりとを結びつけながら、一方を他方に折り込むことを防ぐ欲動の働きを通じて、始まりと終わりとの間の必然的な距離を再確立し、維持する。この方向において、換喩と隠喩は互に助け合い、トドロフが叙述的変換を構成する際の「同一であるが異なっている」という要素に必然的な時間性を与える。この戯れの空間で決定的なのは、その最終的な緊張の解放をより効果的にするためのテクストのエネルギーを束ねる助けをする反復である。虚構のプロットにおいて、これらの拘束の働きは起源への回帰であり、抑圧されたものの回帰である反復のシステムであり、終わりに向かう運動と起源へ帰る運動とを複合し、前方へ進む時間のなかで意味を転倒させ、テクストのエネルギーのシステムの形成を助け、「人生」から「意味」を獲得する喜びに満ちた可能性(或は幻影)を与える。ブルックスはフロイトの影響を受けた人だが、うーん、これはどうでしょう。死の欲動は物語に奉仕しない、物語を解体する力動的なモデルであるから、謎めいており、薄気味悪いと思えるのだが。
もっとも手元に本がないので、無責任なことはいえないが。
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