ナミとヨーコが三面鏡でマチコ巻き緋のスカーフに渦巻き模様
始まりと終わりはトドロフの「叙述的変換」の好例であり、そこでは始まりと終わりが「同一であるが異なっている」という--それ自体隠喩的な--関係にある。しかしながらトドロフは変換の力動的な過程についてはほとんど言及していない。二つの相関する軸の間にあるのは、第二のより十分に意味づけられた隠喩を確立するために、第一の換喩としての隠喩の実現化--同時にかく得られた結果の仮定的、心理的実現化--をすることである。我々は非活動的で、「衰弱した」隠喩から出発し、換喩的な過程を通じて復元された差異によって隠喩を再活性化し、実行力のあるものにする。
舞台演出家のピーター・ブルックと文芸批評家のピーター・ブルックスをある時期混同していて、すっかりもとの面影はない神保町の北沢書店でどちらを買おうとしたのかかならずしもはっきりとしないのは、ピーター・ブルックが『マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』という長い題の芝居の演出で有名であり、ついでにいえば、確かピーター・ブルックが『マハーバーラタ』を演出することが話題になっていたのもこの頃のことで、横浜ボードシアターの『マハーバーラタ』の上演などもあり、連携を感じたのだが、ボートシアターの方は船上での公演ということで、船酔いしそうで見送ってしまい、『マラー/サド』はずいぶんたってから見たが、期待したぶんさほど面白くなく、そのとき北沢書店でどちらを買おうとしたのかは思い出せない。
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