2014年11月29日土曜日

ブラッドリー『論理学』98

 §74.実在は感覚に与えられ、現前している。しかし、既にみたように(§11)この命題を転倒し、現前し与えられたものはすべて実在である、と言うことはできない。現前は単に我々にあらわれる空間と時間における現象の部分ではない。単なるあらわれと同一のものではないのである。現前とは我々と実際の実在との接合である。存在する事実として感覚知覚の要素を受け入れることはある種の接触ではあるが、唯一の接触法ではない。

 仮言的判断には、実在は与えられているという意味がある。というのも、我々は諸要素の関わりのうちに現前を感じ、実在にその性質を帰するからである。現前から我々は要素を取り上げ、それを事実として受けとるわけではないにもかかわらず、仮言的判断は最終的には直接の現前に依存しなければならない。実在の財物を保持できるのはその総合だけで(§50)、その総合の基盤となる知覚において我々は実在と直接に接する。この接触が分析判断の支えとなるものより直接的であるかどうか問おうとは思わない。しかし、いずれにしろ、より真であるとは言うことができる。真理とは究極的な実在において真であるものだからである。超感覚的な究極的性質について主張できることは多くないが、いずれにせよ、その主張は間違っていないように思える。他方、感覚の分析判断について定言的に主張されることは真ではない。それが主張する概念内容は我々の知る限り実在ではない。この意味において、個的な判断に希望は残されていない。

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